合わない視線と近づく気持ち

「すー……すー……すー……」


 ジョギングを終えて、高校のプールサイドに戻ってくると、女子生徒が一人、ベンチに座り壁に体を預けながら、気持ち良さそうに眠っていた。寝息のリズムに合わせるようにボブヘアの綺麗に揃った前髪が風でなびいている。銀縁の眼鏡をかけた小さくて丸い顔。薄いピンクの唇は間近で見なければわからないほど小さく上下運動を繰り返している。


「これって……」

「たぶん、香原先輩が連れて来た新入部員の子じゃないでしょうか。きっと、『誰か来るからここで待ってて』と言われて、そのまま……」

「あ……先輩に河川敷に行っていること伝えてなかった」

「そういえば、今日も見てませんね」

「部長としての仕事をしているんだか、してないんだか……と思ってたんだけど、この子がここにいるってことは、一応しているってことにはなるのかな」

「私たちが出た後にここに来たんでしょう。申し訳ないことをしてしまいましたね」

「ぐっすり眠ってるみたいだけど、このままってわけにもいかないか」

「そうですね……起こしましょう」


 洸が眠っている女子生徒の肩を手で揺する。何度か前後に揺らしたところで女子生徒のまぶたがぴくりと動いた。


「ん?ん……う~ん……あれ、私……」


 女子生徒は眼鏡を外し、2、3度まぶたを擦る。ゆっくりと開いた大きな瞳が目の前にいる二人の視線と重なり合う。


「あ、起きたみたい」

「えっと……その、お、おはようございます」


 恐る恐る声をかける洸。女子生徒はおぼろげな表情で二人の顔を見つめた後、


「……ひぃっ!?」


 と、お化けでも見たような悲鳴をあげて、すぐさま顔を隠すように真下を向いた。予想外のリアクションに、呆気に取られた二人は顔を見合わせる。


「ねぇ……私たちの顔って怖いの?」

「そんなことないと思いますよ。朱鷺乃さんも私も十分かわいいかと」

「そこまでのフォローはいらないから。後、久我崎さん結構な自信家だね」


 女子生徒は両手で顔を覆い、小刻みに震わせている。


「あ、あの……。私たち、何か怖がらせるようなことしちゃった?ごめん。できれば、何が悪かったのか教えてもらえるとありがたいんだけど……」


 道路の真ん中で泣いている迷子に話しかけるように優しく接する深月。しかし、怯える彼女を見ると、そうでもしないと泣かれてしまうような気がした。


「す、すみ……せん。私、目を……せるのが……で……」

「えっと……ごめん、もう少し大きな声で話してもらえるかな?」

「私、人と……目を合わせるのが……その……苦手で……」

「それ、苦手ってレベルをはるかに超えてると思う……」

「今もここで勝手に寝ちゃっていたから……怒られるんじゃないかと思って……」

「そんなことで怒らないから、大丈夫」

「そうですよ。あっ、そういえば、もしかして、水泳部の新入部員の方ですか?私たち、水泳部員なんですよ」

「久我崎さんだけね。私は違うから」

「う~ん……朱鷺乃さん、ガードが固いですね」

「久我崎さんの方は攻めるようになってきましたね」

「あ、あの……」


 上目遣いで二人の顔色を伺いながら、女子生徒が覆っていた手を外して、ゆっくりと顔をあげる。ずれてしまった眼鏡をかけ直して、さっきよりは多少不安が薄まったものの、未だにおっかなびっくりした様子で怯える子犬のような目のままだ。


「1年の……押切おしきりるい、です。あの……今日は、部長さんに誘われて……見学に……」

「そうだったんだ。といっても、見学してもらえるほど何かやってるわけじゃないんだよね。というより、後輩を置き去りはダメでしょ……」

「私たちも1年です。私は3組で……そういえば、朱鷺乃さんは?」

「6組だけど」


 須江川高校は一年生から三年生まで8クラスがそれぞれある。


「あっ……私も、6組です……」

「えぇっ?そ、そうだったんだ……」

「えっと、二人とも……もう入学して2ヶ月経ちますよ?」


 片方は他のクラスメイトに全然興味がなく、片方は他のクラスメイトを気にかける余裕がないまま、この2ヶ月間を淡々と過ごしてきていた。さすがにそれは……といった様子で洸は呆れていた。


「それよりさ。押切さん、大丈夫?」

「へっ!?えっと……」

「さっきから、一度も私たちに目、合わせてないよね?」


 深月たちは涙のことをずっと見ているが、一方の涙の視線はそっぽを向いたまま。試しに洸が涙の目線に合わせようと体を動かすと、慌てて涙は視線を別の方向へとずらす。視線の鬼ごっこが終わることなく延々と続きそうなので、洸は早々に諦めた。


「すみません……。私、どうしても人と目を合わせるのが嫌で……」

「苦手じゃなくて、嫌いなんだ……」


 どうやって学校生活を過ごしてきたのか疑問ではあるが、聞いたらただでさえ不安がっている彼女に余計なプレッシャーを与えてしまいそうなので、今はその質問はぐっと飲み込むことした。


「押切さん、水泳の経験はあるんですか?」

「えっと……小さい頃に少しだけスイミングスクールに通ってました。だから、多少は……。遅いですけど」

「どうして、水泳部に?」

「この前まで、文芸部に入っていたんですけど……私、全然喋らないから……一人利浮くようになって……。それで、聞いちゃったんです……『あの子、面倒くさい』って。私、文芸部って本を読んでるだけだと思ってたんですけど、いろんな賞に応募するみたいで……みんないつもあれこれ話し合っていたんです。だから……」

「協調性が無い人はちょっと……ってこと?」

「はい……」


 須江高の部活は運動部も文化部も全体的に活発だ。活動実績がなければ、部費の減少にすぐ繋がる。さらに、部活動の存続にも影響が出てしまう。それだけでなく、運動部や吹奏楽部などの大きな文化部ではOBやOGと関わる機会も多い。やる気と実績のある生徒は大人たちの評価を得ることができる。結果として、大学や社会に出た後で、なにかしらのアドバンテージとなるのをみんな知っているのだ。とはいえ、それも全て生徒たちの積極性が無ければ始まらないが、この高校にいる生徒たちはそれだけのやる気を持っているか、三年間で自然に手に入れていく。


「香原先輩は、水泳部は出来たばかりのとこだから、気負わなくていいと言ってくれました。だから、ここでゆったりと三年間を過ごせればいいな、と」


 でも、誰もが汗と涙で彩られた青春学園ストーリーを高校生活に望んでいるわけじゃない。身の丈にあった、自分にちょうどいい、平凡で普通の、そんな生活を送りたいと思う人もいる。自分は……と考えて、深月はその答えがまだ出ていないことに思い当たる。洸はどう思っているんだろうと、彼女のほうを向くとまた、あの笑顔を輝かせていた。


「私も他の人たちと考え方が合わなくて、水泳部に入ったんです。……だから、押切さんもここでは自分らしくいればいいと、そう思います」


 女神が説く慈愛の言葉のように優しさで満ち溢れた洸の意見を聞いた涙は、同意を得られたことに喜んで顔は俯かせたまま、その表情を嬉しさで花開かせた。

 洸も一度どこかの部活に入って、涙と同じような経験を味わったのだろうか。二人が共有する気持ち。そして、それを深月は持っていない。入学してから2ヶ月、いや、それよりも前から、極力人と接することを避けてきた。それでいて、民俗学同好会という自分にとって都合の良い場所をあっさりと見つけてしまった深月には、二人の気持ちを想像することができなかった。


「これで3人目だ」

「そ、そうですね……私も水泳部に入ろうと、思います。三人とも良い方ですし」

「朱鷺乃さんが入れば、4人で部活までリーチですよ」

「入らない」

「なんだか急に部員っぽく振舞うから心変わりでもされたのかと思いました」

「早く5人集まってくれれば、晴れて私は入らなくて済むようになるから」

「果たして、そうなるのでしょうか……朱鷺乃さんの運命はいかに」

「そこ、不吉なこと言わない」

「ふふ……そろそろ帰りましょうか」

「だね。押切さん、明日は放課後ずっとここにいるから。良かったら来てよ」

「はい……!」


 結局、最後まで涙が目を合わせてくれることはなかったけれど、深月はそれに不快な気持ちを抱くどころか、安心すら感じていた。自分を曲げて生きることほど、辛いものはないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る