心は走る、どこかへと
深月が通う須江川高校の近くには須江川という川が流れている。全長約17km、幅は約400mの一級河川。下流は海へと続き、両脇の河川敷はマラソンコースやテニスコート、野球場などスポーツ設備が充実しており、平日・土日関係なく多くの人たちが行き交っている。須江川高校でも体育の授業で使われたり、部活の練習で使われたりと、学校生活に身近な場所となっている。
「ぜぇっ……はぁ……ぜぇっ……はぁっ……」
「しんどそうだね。大丈夫?」
「だ、大丈夫……です……」
「はい、強がらない。じゃあ、休憩いれよっか。20分後に再開」
「ふへぇ……」
満身創痍の洸に肩を貸して、半ば引きずるようにして道の端へと連れて行く。斜めった草むらに腰を下ろし、背負っていたリュックからスポーツドリンクを取り出して手渡す。
「ほら」
「の、飲み物……はぁ……い、いただき、ます……」
早く飲みたいのか、洸は急いだ手つきで蓋を回す。勢いあまって外した蓋を落としてしまったが、そんなことも気にせず、ペットボトルに口をつけて、一気に中身を喉へと流し込んだ。
「あぁ……ほら、零れてる」
「んんっ。あっ……す、すみません……」
唇から零れて喉元へと伝うスポーツドリンクを深月がタオルでふき取る。洸は中身が半分なくなったペットボトルを両手にぼそぼそ小さな声で謝る。親子みたいなやり取りがおかしくて、ぷっ、と笑ってしまう深月を、洸がどこか悔しそうな目で見ていた。
練習三日目。今日は場所を変えて、二人でジョギングをしていた。筋力も柔軟性も問題ありの洸だが、一番ネックなのは持久力だった。今も2kmほどかなりゆっくり走ってこの状態である。泳ぎが上手くなる以前の問題はまさに山積みだ。
「朱鷺乃さん……体力ありますよね」
「久我崎さんが無さ過ぎるんだと思うけど、まぁ、小さい頃から走りまわってたからかも」
小学校に入る前、幼い頃の深月は暇があれば一人で外へと出かけ、時には夕方を過ぎても家に帰らず、度々、両親を困らせるわんぱく少女だった。その後は180度変わって、かなり落ち着いた性格になってしまったが、勉強の息抜きにと走る癖がつき、それを一年前まで習慣にしていた。おかげで体力には自信があり、結果として水泳の方にも繋がっている。
「小さいのに意外とパワフルなんですね」
「ぎゅっと詰まってるから」
「……だから、水泳も速かったんですね。大会には出られていたんですか?」
「うん……ジュニアオリンピックってやつ」
「オリンピック?じゃあ、世界で活躍していたんですか!?」
「ううん、国内の大会」
「でも、大きな大会なんですよね」
「うん。将来のオリンピック選手も出てるくらいだから」
「そうなんですね……」
洸は「ですね」の後に言葉を発しようとしたが、それは彼女の口元でただの吐息へと変わり、夏の空へ静かに
「久我崎さんもさ。なんか大会とか出れそうじゃない?」
「わ、私が……ですか?」
「ほら、モデルのオーディションとか、なんとかコンテストとか、そういうやつ」
「ふわっとしすぎです。あっ、でも、中学の時に芸能事務所のコンテストに応募させられましたよ。友達が勝手に」
「そういうのあるんだ……で、どうだったの?」
「受かっていたら、朱鷺乃さんとはテレビ越しに会っていたかもしれませんね」
「……まぁ、それもそうか。どこら辺まで進んだの?審査員の前でオーディションとかやったの?」
「一番最初の書類審査でした」
意外だったと言わんばかりに深月は驚いた表情を見せる。
「あっ、でも、全然気にしてないですよ。世の中、容姿の良い子なんて、それこそたくさんいます。それに、たった数枚の紙で知らない人に評価されるよりも……」
その時、水面から吹く爽やかな夏風が洸の長い髪を悪戯に散らした。露になった汗ばんだ首筋から、ふわりと、風に乗って柑橘系の香りが漂ってきた。洸のつけている制汗剤の香りだ。
片手で長い黒髪を押さえて向こうを見るその姿は、スポーツドリンクのCMにありそうな光景で、深月は心の中で『もったいない』とどこぞの知らない審査員のことを思った。
「友達に認めてもらえた方が嬉しかったりするんですよ」
自分の心を読んだのかと一瞬身構え、それ以上に、洸に言われたそのワードが深月の心をかき混ぜる。
「そ、そんなもんなんだ……」
「えぇ、そういうものなんです」
「久我崎さんには良い友達がいるんだね」
「……はい。だから、話し相手の朱鷺乃さんとも、もっといろいろ話したいんです」
夏の河川敷に花咲く、人畜無害で柔和な洸の笑顔は、またしても彼女の心をざわつかせた。こっちの中身を優しい手つきで掘り返してくる。甘い匂いにつられて出てきてしまいそうになる言葉を喉元で押し返す。
「じゃ、そろそろ休憩終わりで」
「……朱鷺乃さんも結構人が悪いですよね」
「お互いさま」
これが今の深月にとってきっと最善の関係。適度に優して、時には厳しくて、馴れ合わず、いがみ合わない。出し過ぎたら、また、都合の良いちょっと特別な人になってしまうから。このくらいで、ちょうどいい。
「というのは冗談で、ちゃんと休憩は取るから。安心して」
「ふぅ……」
洸が安堵の様子を呼吸で示す。今日は連日続いた暑さも少し引いて、過ごしやすい温度にはなっている。だから、こうして走っていたわけでもあるが。それでも、こうも体を動かせば、汗もかくし、熱も上がる。洸の白い肌のあちこちで透明な水玉模様が浮かび上がっていた。一呼吸するたびに、レース生地のように滑らかな肌から水玉が一粒、また一粒と滑り落ちていく。その度に、太陽の光をを反射して小さくキラキラと洸の肌が
「……朱鷺乃さんは好きな人、いたんですか?」
「これはまた唐突に。後、なんで過去形?」
「その理由をちゃんと言った方がいいでしょうか?」
「ごめん。いいや、大丈夫」
その理由は自分自身が一番よくわかっている。
「それで、いたんですか?」
「いませんでした」
「それは良かったです」
「……なぜ?」
それじゃあ、まるで……と考えて、いやいや、とその考えを振り払う。ない、ありえない、絶対ない、と、否定の言葉を並べて、変な想像が見えなくなるように覆い隠す。
「やっぱり撤回。そろそろ学校に戻るよ。ほら、立って」
「ええぇ……ちょ、ちょっと待ってください~」
その質問の意図をたずねられないまま、深月は草むらを駆け下りて、一人走り出す。慌てた洸がその後を追いかけるようにして降りていく。
肩を並べるのが不思議と怖くなって、しばらくは一人で勝手に先を走る深月だったが、ふと振り返り、ずっと後ろのほうで懸命に走る洸の姿を見たら、なんだか自分の焦りがバカらしく思えてきた。そのまま、来た道を戻り、洸の真横にピタリとついて反転する。左肩が触れそうな距離に洸の体。時折、不可抗力でくっついてくる彼女の右肩を仕方なく自分の重心で支える。
「さぁ、もうひと踏ん張りがんばろ」
「は、はい~……」
―――――――
太陽が夕焼けに変わるころ、二人は学校へと戻ってきた。結局、帰りは徒歩同然のスピードとなった洸を必死に奮い立たせながら、連れて来たため、大幅に時間を使ってしまうことになった。
「はい、お疲れ。じゃあ、最後にストレッチして、今日は終わりね」
「よ、ようやく、終わるんですね……でも、汗がひどくて……」
「シャワールームなんて気の聞いたもの、ただの公立高校にはないからね。プールのシャワーもまだ使えないし。でも、とにかく、まずはしっかりクールダウンをしないと……」
出発するときに閉めたはずのプールサイドの扉が開いていた。入口前には深月と洸の二人だけ。となると……
「「あっ」」
プールサイドの置くに設置されたベンチに女子生徒が一人座っていた。
「すー……すー……」
かわいらしい寝息をたてながら。
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