2.交わる心と繋がらない想い

考えごとは嫌じゃない

 微動だにしないベージュ色のカーテンの隙間から初夏の日光が差し込み、深月は反射的に目を閉じる。外との視界の接続が完全に切れてしまった無愛想な窓を、それでも深月は無言で直視する。


「……」


 右手で机に頬杖をついて、背けるように左を向いている。生温かい自分の手のひらを時折鬱陶しく感じる。意識的に逸らした視覚とは裏腹に、聴覚のほうは無意識に教室の音を拾ってくる。昨日見た動画の内容や週末出かけたお店の話。ノートを駆ける鉛筆の音。気になった先輩の魅力を語る嬉々とした声。勝手に右耳から入ってきたそれらを頭の中でぐちゃぐちゃに丸めて左の耳から外へまた放り出す。

 昼休み。早々に昨日の晩御飯の余りで作った弁当を食べ終わった深月は、残った短いようで長い時間を何をすることもなく、ぼうっと過ごしていた。クラスで友人をつくらなかった深月のいつもどおりの日常の一ページ。別に本人としては望んでこうしているつもりなので、特別苦ではない。これでも考えることだっていろいろある。今日の夕ご飯のメニューや家にある日用品の残量の思い出し。もうすぐやってくる中間テストのことも。


「う~ん、どうしたものか……」


 今日からそこに、考えることがひとつ増えた。といっても、考えごとよりも悩みごとの方が近いかもしれない。あれがいいか、それともこれがいいか。問題とそれを解決する最適な方法を模索する。それも自分のことではない。だから、なおさら難しい。それが正しいかどうかは、今は決してわからない。

 そんな悩みごとは昨日、突然に生まれた。



―――――――――――― 



 手を触れると布越しでもわかるほど柔らかな体。袖から伸びる白く細い腕には小さな雫がうっすらと浮かんでいる。目の前に迫る首元からは甘い匂いと汗が混じり合った彼女の匂いがする。息遣いは少し荒く、こっそり顔を覗くと苦痛に歪んだ表情と絶え間なく吐息を漏らす薄紅色の唇が見えた。彼女の見られたくない姿をすぐ近くでまじまじと見てしまっていることに、深月は紙切れのように薄っぺらい罪悪感を抱いていた。けれど、それをしまいこんで再び彼女に責め苦を与える。ついに、彼女は抑え切れなくなった声を熱い息にまとって吐き出した。


「あっ……そこは……」

「ねぇ」

「いやっ!?あの……無理やりは、やめて……ください……」

「……久我崎くがさきさん」

「あの……これ以上は……もう……ダメ……無理です……」

「えいっ」

「いたたたたたっ!それ以上は曲がりません!無理です、無理なんですー!!」


 深月みつきに思い切り背中を押され、体をコの字に曲げたこうが悲鳴をあげる。天高く突き抜ける青空の下、体操着でストレッチに励む女子二人。


「もう、変な声出さないでよ」

「す、すみません……。お約束かと思いまして」

「なにそれ。というか、それより……」


 こうにきついお灸を吸えた深月は苦い表情で髪をかく。見事なまでに洸の運動に関する能力値は低かった。プールサイドを軽くジョギングさせれば5分ほどでへばり、腕立てや腹筋は10回にも届かず、柔軟も無理やり背中を押してなんとか手が膝の位置を越えるくらいだった。『上手くなりたい』とは言っていたが、基礎的な運動でここまで辛そうな反応を示されると、なかなかに先が思いやられる。

 昨日、プールに潜ったまま浮かんでこられないという姿を目の当たりにしていたので薄々は感づいていたが、現実を見せられるとさすがの深月も首を捻るしかない。


「昨日さ、痩せて足も速くなったし、運動も出来るようになった、って言ってたけど……」

「はい……。は」

「そう……じゃあ、体育の授業は?」

「周りの子たちのかわいそうな小動物を見るような目がちょっと辛いですね……」


 たずねるのが申し訳なくなってくるレベルだった。


 

 深月の水泳レッスン一日目は筋トレと柔軟からはじまった。プールは昨日と全く変わらず緑の沼のまま。プール開きはまだなので、泳ぐ練習をすることは出来ない。洸は近くの公営プールに泳ぎに行こうと提案したが、深月に即断で拒否されてしまった。

 というわけで、蓮菜れんなに頼みプールの鍵を受け取り、今に至る。水泳の授業でもないのにこの場所に立ち入れるということはプールサイドの使用許可は下りているようだ。ちなみに、部員はまだ蓮菜と洸の二人のみ。深月は入部届けに名前を書いていない。


 須江川すえがわ高校では2名以上で同好会を発足することができる。同好会は顧問不要で空き教室などがあれば放課後に限り使用することが出来るようになる。一方で、学校からの活動費はもらえない、校外活動で学校名を使用することができない、他の部活動と活動内容が著しく被る場合は廃会など、制約は多い。おまけに、昔は力の強い部活動が同好会に入っている人たちに差別やいじめのような行為をしていたこともあったという。今ではそういったことはほとんど無くなっているが、同好会に入っている学生を『集団生活が出来ないやつ』と見ている体育会系部員や教師も少なからず存在している。民族学同好会に入部すると決めた深月も担任から普通の部活動を一度勧められていた。だったらいっそのこと無くしてしまえばいいのだが、ずっと昔から続いたものを変えるというのは簡単ではない。大丈夫だろうと思っても、必ずどこかで面倒な波が立ってしまうものである。結果として、引っ込み時が見つからないまま、この制度は続いている。


「で、部長である香原かはら先輩は今日も部員集めに奔走中と」

「みたいですね」


 先ほど、深月が洸の指導役を買って出たことを話したところ、蓮菜は「うそっ!?良かった、すごく助かるよ。私はさ、ほら、いろいろとやることあるから、ね。じゃあ、洸ちゃんを立派に育ててあげてね!」と深月の両手を強く握り締めて感謝の言葉を述べた。その後、こっそり洸に近づいて、「ねっ、深月ちゃんって押しに弱いでしょ。それに結構寂しがり屋で素直になれない系だから、この調子でうまいことよろしくっ!」と小声で会話していたのも深月は隠れて聞いていた。油断しすぎると怪しげな契約書を書かされそうだと、警戒レベルを1段階上げることを深月は決めた。


「本当に集まるのかな?」

「どうでしょう」

「いいの?部員増えないと部活にならないけど」

「私は朱鷺乃さんに教えてもらって泳げるようになれば良いだけですから」

「そ、そう……」


 深月は、妙に恥ずかしくなり、そっけなく返事をした。洸の優しい笑顔からは深月に対する好意が感じ取られる。その度合いがどれほどのものかは図りかねるが、仲良くしようと意思があるのはわかる。だから、深月も友だ……話し相手になってほしいと言ってみたのだから。

 でも、それ以上ことは彼女の顔には何も書いていなかった。とはいえ、深月も別に超能力者ではないので、人ひとりの心理を把握することなど完璧に出来るわけがない。だから、わからなくても構わない。要するに知ってみたかったのだ。洸がどんな人物なのか。


「運動が苦手なのに、よくそこまで痩せられたね。あ……イヤミとかじゃなくて純粋に気になって。いや、ごめん。言い方がダメだよね……」

「そこまで気を遣っていただかなくても大丈夫ですよ。えっと……あの時は痩せるために必死でガムシャラにやっていたんです。なんか、私って太りやすいけど、代謝も良いほうだったみたいで、痩せなきゃ死ぬ、って自分に言い聞かせて足を引きずりながらジョギングとかしてたら、だんだんと」

「死ぬ気でやればなんとかなる、ってやつ?」

「まさにその通りです。中学は住んでいた場所から離れたところに通っていましたが、入学した頃はまだ太っていたから、またあの時みたいになるんじゃないかと思って、怖くて」

「じゃあ、中学の子たちは激変した久我崎さんを目の当たりにしたわけだ」

「本格的にダイエットをはじめてからは日に何度も目を向けられるになったので、もう恥ずかしくて……」

「私でも見るよ。間違いなく」

「昨日はじめて会ったときもずっと私のこと見てましたもんね」

「あれは、その……変な人だなと思って。急に飛び込み台に上ってポーズとるし。本当に飛び込むとは思わなかったけど」

「私もあれは予想外の出来事でした」

「そういえば、あのことがなくても私を誘うつもりだったって言ってたけど、どうするつもりだったの?いきなり家に来ないかって言われても私なら断るよ」

「突き落とすつもりだったんです」

「えっ……それ、どういうこと?」


 笑顔で言うにはあまりにも不釣合いな言葉に、深月の体がビクリと震える。思わず、洸から体を一歩分離す。


「間違ってぶつかっちゃったという形で、朱鷺乃さんをプールに落として、香原先輩からジャージを借りて、服を洗うついでにお詫びも兼ねて家に招待しようかと。あ、もちろん電車では申し訳ないと思っていたので、タクシーで移動するつもりでしたよ」

「いや、申し訳ないポイントはそこじゃないでしょ。なに?じゃあ、私はあの日、プールに落とされる運命にあったってこと?」

「はい、そうなりますね。実際は違う結果でしたが、私としては結果オーライだと思ってます!なんだか運命共同体みたいで」

「違う。絶対に違う。それっぽいドラマチックなワードでごまかさないで」


 どうやら、洸と先輩の警戒レベルを一段階上げる必要があるようだ。今後もこの二人が何か企んだりしないだろうかと早くも不安がこみ上げてくる。


「じゃあ、私を教えるの、やめます?」


 笑顔と真顔が半分ずつ混ざった表情。平静を保っているけど、小さくなったその語尾に映るのはきっと不安の色。それを感じ取ってしまったから。それが、狙いなのか本音なのかは今の深月にはまだわからない。だけど、そんなことは関係なかった。


「まさか。仕返しにきつーいメニュー、考えてきてあげるから」

「それは明日が怖くて、今夜は眠れなさそうですね」


 もう、誰かを裏切りたくないから。


「なに言ってるの?今日からやるよ。よし、十分休憩したし、次のメニューはじめよっか」

「お、お手柔らかにお願いします……」


 その時の洸の表情が今日一番かわいいな、と深月は思った。


―――――――――――― 



 結局、あの後も洸はボロボロになりながら練習を続けていた。なんだかんだ最後までやろうとした気概は素晴らしかったが、あの分だと今日は筋肉痛で苦しんでいそうだ。そう思うと、自然と笑みが零れる。今頃、洸は隣の教室でどんな顔をしているのだろう。少しだけ放課後が楽しみになった。

 自分のことを考えるのは嫌いじゃない。悩むのも嫌いじゃない。だって、それは自分のためだから。では、他人のために悩むのは?


 机の中からペンとメモ帳を引き出して、黙々と書き込みはじめる深月。熱心そうな表情の中で、口元だけはほんの少し緩んでいるのを彼女はきっと気づいていない。

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