今日から、いつもの放課後
「朱鷺乃パイセン、紅茶お持ちしましたー。どうぞ」
「ありがと」
空は飲み物を注ぎ終えると、水筒のふたを閉めて大きめのリュックにしまう。さすがに、教室に冷蔵庫は用意されていないので、空はいつもレジャー用の大きめな水筒を持ってきている。本人曰く、喉が渇くと落ち着いて読書も出来ない、とのことらしい。
中身はローテーションで替えているが、たまにお試しで買ってきた罰ゲームで飲みそうなテイストのやつが出されることがあるので、実は飲む時に注意していたりする。一ヶ月前、何も言われずに差し出されたものを口につけたら、センブリ茶だったときは、床に尻をついて悶絶していた。
「パイセン、後ろ失礼します」
「うん」
今日も今日とて、ここ一帯を夏と判定した太陽の慈悲無き日差しが図書準備室に降り注ぐ。さすがに暑いのか、窓を背に座る深月の後ろに空が回りこみ、カーテンを閉める。
「そんなに暑いなら学ラン脱げばいいのに」
「これがボクのアイデンティティーみたいなものなので」
「アイデンティティー、ね……」
どういう意味だっただろうか。たしか、『自分らしい』とかそんな感じの意味だったか。深月はそんなことを考えながら、中身が3割ほど減った麦茶のコップを手に持ってくるくると回す。生ぬるくなった液体がカーテンから差し込む光を浴びて
「自分らしい、か……」
生きていればきっとどこかでぶつかりそうな哲学的なその問いに、深月は
コンコン、と図書準備室の戸が叩かれた。窓ガラスに映るのは深月が昨日何度も見たあの笑顔。目が合うと2割くらい明るさが増した気がした。深月のほうに向かって手を振っている。
「あっ、なるほど……」
昨日に引き続く、新規の訪問者に空はぼそりと呟くと、「どうぞー」と扉の外の人物である洸に声をかける。「教室の扉なのに、律儀ですね」と深月のほうを向いてくすりと笑った。
「失礼します。朱鷺乃さん、お待たせしました」
「ううん、大丈夫」
「いやいや、いつもより早く部室に……あっ、麦茶でもお持ちしますね」
「いえ、お構いなく」
一瞬、深月に射殺しそうな眼光で睨まれた空は即座に話を変え、「まぁまぁ」と目と唇を緩めて眼前の猛獣をなだめる。
「あの、これ。昨日お借りしたものです。ありがとうございました」
左手に持っていた大きな紙袋を机の上に置く。中身は昨日、深月の家から帰るために借りた服。あちこち必死に探して、ようやく見つけた深月が持っている中では一番サイズが大きめのもの。丁寧に折りたたまれたそれらからは、嗅いだことのない匂いがした。
「それで、早速で申し訳ないんですけど……いいですか?」
「約束だから。でも……私、たぶん厳しいと思うよ?」
「大丈夫です。自分で言うのもなんですが、ここまでになるために自分だって相当頑張ってきたんですから」
「そう?まぁ、そこまで言うんだったら、大丈夫かな」
深月はそう言うと、飲みかけの麦茶をぐいっと飲み干して、
「ごちそうさま。これ、よろしくね」
「はーい」
「この紙袋、ここに置いといても大丈夫だよね?下校時間ギリギリまでいるでしょ?」
「どうぞどうぞ」
「それじゃ」
洸は深月に目で促されると、空に会釈をして一緒に教室から出て行った。残された空はからっぽのコップを二つ手に取り、一呼吸置いて教室の外に出る。水道がある右隣の家庭科室へ行こうとして、ふと反対側を振り返る。横に並んで話す笑顔の少女と無愛想な少女。
塞がった両手の代わりに足をひっかけて家庭科室の扉を開けて、空は教室の中へと入っていった。
「そうそう。こんなとこにいたって何も起こらないですよ」
深い海の中から眩い光を道しるべに、期待を込めて顔を出した大海原の上には、真っ暗な夜空に浮かぶ大きな船。「楽しそうね」と一人呟くと、「楽しいよ」と声が聞こえた。
見上げた夜空には船に灯るランタンの灯りよりも、空に瞬く星たちよりも、一際輝く一輪の花が咲いていた。今は遠く届かないその花びらにそっと手を伸ばし、足元の暗闇に隠れた水色の尾びれを、見えないようにばたつかせながら。
どう?ぜひ、キミも良かったら?
これはただの好奇心。捨てようと思っても捨てられなかった心の切れ端を小さく握り締めて、掲げてみよう。運が良ければ、誰か気づいてくれる物好きがいるかもしれない。そんな気まぐれに乗ってくれる誰かがいたのなら。
「じゃあ、代わりってわけじゃないけれど、私の……話相手になってくれない?」
言ってみよう。精一杯の強がりを。
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