特別でなくなるということ
「今日から新しく選手コースに入る、朱鷺乃深月さんです」
「朱鷺乃です。中学一年生です。よろしくお願いします」
屋内プールに拍手の音が木霊する。深月は自分の前に並ぶ人たちの顔を軽く見渡す。自分より年下の子もいれば、高校生くらいの人まで。人数は十人ほど。笑顔の人もいれば、真剣な表情でこちらを見る人もいる。不安で心が揺れる。ここでの自分はどうなるのだろうか。うまくやっていけるのだろうか。その答えは見渡す誰の顔にも、横目で覗く水面に映る自分の顔にも書いてはいなかった。
「はーい、じゃあ、次のメニュー!100m3本3セット」
コーチが言っていたとおり、練習は以前のコースに比べて数段レベルが高く、たしかに大変だった。入って1ヶ月のうちは着いていくことすらままならず、何度も根をあげそうになった。それでも必死に喰らいついて、みんなの後ろを懸命に追っていた。小学生の頃から全然伸びない身長に歯がゆい思いをしながら、それでも手を前に伸ばし続けた。
一方、新しくはじまった中学校生活も小学生の頃と比べるとずいぶん違った。増える科目、積みあがる宿題、先へと奥へと進んでいく授業。私立の進学校というだけあって、本腰を入れないと置いていかれるというが深月の背後に迫っていた。
それでも、月日が経てば慣れというものはやってくる。夏を迎える頃には学校の勉強も水泳のレッスンも苦もなく、自分のものに出来ていた。
ただ、あの時と違っていたのは一つだけ。
周りの人たちも自分と同じだったということ。簡単な話だ。私立の進学校やスイミングスクールの選手コースにいる子たちのほとんどは、深月と同じように出来る子だったというだけ。違うことは、深月は逃げたいという想いでやってきたけれど、他の子たちは進みたいという想いでここにやってきたということだ。
「ねぇ、今日どこ行くー?」
「久し振りにさ、カラオケ行かない?」
「いくいく!じゃあさ、他にも誘おうよ!」
この後の予定を楽しそうに計画するクラスメイトを尻目に、深月は下駄箱の扉を開ける。靴を無造作にストンと床に落として、少し汚れのついた上履きをしまう。コンコンとかかとを鳴らす音が誰もいない廊下に響く。遮るものがない一人ぼっちの音は廊下の奥の夕闇の中へと吸い込まれていった。
あの頃、自分の周りに誰かがいたのは、自分が他の子より少し『特別』だったから。でも、人や環境が変われば、『特別』も『普通』に変わる。そして、残るのは朱鷺乃深月という人物そのもの。人付き合いが苦手で自分から人に話しかけることも少ない深月の周りにはもう、誰もいなかった。
それを寂しいとも辛いとも深月は思わなかった。これで誰も何も気にせず過ごすことができる。それに、今は好きなこともある。勉強も水泳も大変ではあるけれど、同時に自分の中にある好奇心が日に日に膨らんでいった。今の日常で深月は十分に充実していた。だから、今は他に何も必要ない。そう思っていた。
あの時は。
――――――――――――――
「あのさ、久我崎さん」
「はい、なんですか?」
「私、下手くそだよ、教えるの」
「じゃあ、一緒に上手くなりましょう」
「厳しく言うかもしれないよ。私、口悪くなっちゃうことあるから」
「それは大丈夫です。慣れてますから。昔はいろいろ言われていたので」
ふぅ、と深月は短く息を吐く。
「わかった、降参」
「ふふっ、私の勝ち、ですね」
これはちょっとした好奇心。月夜の大海原に浮かぶ船の上で騒ぐ船乗り達に興味を惹かれた人魚姫が、そこで偶然見かけた美しい男性に話しかけたくなってしまっただけ。姫として特別な生活を送っていた彼女は、普通の人間の生活に憧れて、手を伸ばした。何も恐れずに。
大丈夫。手を伸ばすことくらい大丈夫。深月は自分に言い聞かせる。物語の人魚姫は手を伸ばした遥かその先を求めて、大切なものを失ってしまった。でも、自分にはそんな心配はない。
だって、すでに失っているのだから。
だから、気にせず、少し手を伸ばしてみよう。普通の生活を送ってみるのも悪くないかもしれない。
「じゃあ、その代わり、ってわけでもないんだけど……」
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