特別にされるということ

 小さい頃の深月はなんでもそつなくこなす方だった。勉強も、運動も。学校の成績も良く、先生からの評価も良い。周りの友達には、あれを教えて、これを教えて、とよく頼まれていた。それに期待通りに答える深月の周りには勝手にクラスメイトが集まるようになっていた。

 あまり人と話すことが得意ではない深月にとって、その状況は好ましいものだった。向こうから好意的に話しかけてくれる。深月を賞賛するように、深月の顔色をうかがうように、丁寧にそれでいて親しみやすく、クラスメイトは深月の周囲に輪を作る。


 けれど、そんな毎日は次第に苦痛へと色を変えた。他人よりも出来ることは『特別』であるといえる。深月にとっては大したものでなかったとしても、他の人たちが全く同じ尺度を持っているとは限らない。『特別』な人は自ずと他人から視線を向けられる。深月からすれば、人よりそれなりに頑張った、その程度だ。それを周りが持ち上げて評価する。評価は次第に期待へと変わり、願望へと変わる。その『特別』を自分も享受したい、そう考えた子どもたちは深月の周囲に集まる。勉強を教え、運動を教え、周囲の願望を叶えた深月の行動は彼らの期待を満たす。そして、評価が上がり、新しい期待が生まれる。時に、それは本人の望まぬままに。

 そして、人は叶い続けた願望をいつしか、『当たり前』のものとして無意識のうちに考えてしまうようになる。これくらいなら大丈夫、こうしてくれると嬉しい、その気持ちは風船のように膨らんで体中からあふれ出し、深月の周りを圧迫しはじめる。


「今日はこことここも教えてよ」

「えっ、今日は教えてくれないの?」

「もう少しわかりやすく教えてー」


 相手の期待の高さにだんだんと追いつけなくなっていく。『特別』が作り出した日常に、深月は息苦しくなっていた。


「ねぇ、お母さん」


 深月は進言した。中学はレベルの高い進学校に行きたい、と。自分が『特別』なんかじゃなくなる場所を求めて。



「わぁっ、朱鷺乃さん!今日は0.5秒縮まったよ。やったねー!」

「うん……やった!」


 そんな深月が唯一、純粋な心で楽しめる時間がスイミングスクールに通っている時だった。休日も友達と遊ばず、家に籠もっていた深月を心配した両親が、生き抜き程度にはじめさせた水泳。家からバスに乗って離れた場所に通っていたので、学校の友人はいない。深月の小さな『特別』を誰も知らない。それだけで心が落ち着けた。

 おまけに水泳は個人種目だ。水の中では人の声もかたちのない雑音になる。誰の声も聴かず、周囲のことなんて気にすることもなく、深月はひたすらに泳ぎ続けた。そんな飲み込みが早く、運動のセンスもあった深月が成長の兆しを見せるのは当然の流れだった。もちろん、彼女の意思など関係なく。


「深月ちゃん、一番速いよね。どうしたらたそんなに速く泳げるの?」

「ホントホント。クロールも平泳ぎもすっごく速いし」

「ねぇねぇ、私にも速くなるコツ教えてよ」



 結局はこうなってしまった。また望まないうちに他の人の『普通』を越えてしまった深月は、誰かにとっての『特別』になることを求められる。悪意なんて欠片もない、善意と期待のかたまりに、深月は押しつぶされそうになっていた。


 もう辞めよう。深月はそう考えていた。

 そんな時、コーチから一つの提案を投げかけられた。


「ねぇ、選手コースに来てみない?深月ちゃんみたいに速い子たちが集まっているクラスなの。大会も目指すようになるから、もっと本格的に泳げるようになるのよ。今より練習は大変になると思うけど、深月ちゃんんのレベルなら絶対大丈夫たと思うんだけど、どうかな?」


 ためらいも迷いもない。特別じゃなくなるのなら、どこにだって行ってやる。そんな決意を込めて、深月は真剣な眼差しをコーチに向ける。


「入ります。選手コースに」


 小学校六年生の冬。必死にもがく深月は、とそう強く願っていた。

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