ふぐといるか

 だるような暑さが続く中、プールの授業は子どもたちにとって至福の時間だった。洸が通う学校では数年前から水泳の授業は男女別で行われていて、男子たちは炎天下の中、サッカーをやっている。少しずつ性を気にするようになった少女たちにとって、男子がいないというだけで安心感は上がる。しかも、女性教師が担当する隣のクラスと合同で授業をしているので、水泳の授業は同性の教師が教えるかたちになっている。少女たちは子どもらしく無邪気に清涼感を満喫していた。


 しかし、みんなが笑顔で泳ぐ中、洸は一人、教室と同じようにプールの片隅で壁に掴まりながらバタ足をしている。洸はカナヅチだった。なので、水泳の授業も一人ぼっち。クラスの女子たちは壁際で足をばたつかせている洸を鬱陶しい目で見ながら、次々と避けて進んでいく。洸一人でひとつのコースを丸々使うことは出来ないので、必然とこういう形になってしまう。


「あの豚、邪魔なんだけど」

「泳げないなら、大人しく見学しててほしいよね。豚なんだから陸でブヒブヒ鳴いてろっつーの」

「そういえば、河の豚って書いて、河豚ふぐって読むんだって」

「なにそれ、あいつにぴったりじゃん。河豚って膨らむやつでしょ」

「でも、泳げないなら、河豚以下だよね。食べられもしないし。くーず」


 冷たい氷のように突き刺さる視線と言葉に、洸は空を見上げながら、真っ白な雲が過ぎ去っていくのを待っていた。

 洸は水泳の授業が大嫌いだった。しっかり体にフィットしたスクール水着は太った自分の体を隠してはくれない。おまけに泳ぐことも出来ない。ただそこにいるだけで恥を曝け出しているこの時間は地獄だった。

 しかし、体の不調もなく授業を休んでいたら、大人たちに怪しまれてしまう。どうしようもないという諦めと誰にも迷惑をかけたくない気持ちで、洸は水泳の授業を我慢して受け続けていた。

 

「せっちゃん、はやーい!」


 洸の隣のコースで他のクラスの女子たちが騒いでいた。その中心にいる女の子は照れくさそうに笑っている。


「今度、水泳の大会に出るんだよね!」

「せっちゃんなら、絶対に優勝だよ!」

「あはは……私に出来るかな」

「大丈夫!間違いないって。私たち応援してるね」


 真ん中の女子は泳ぐのが上手だ、ということだけ洸は知っていた。話しかけることは決してないが、時折、水の中に潜って彼女の泳ぐ姿を見ていた。彼女はどこまでも突き進んでいく。何にも遮られず、ただひたすらにまっすぐと。


「せっちゃんってさ、イルカみたいだよね」


 泳ぎの速い彼女は周りからそんな風に言われていた。イルカ、いるか、海豚いるか。同じ『豚』がついているのに、どうして自分と彼女はこんなに違うのか。洸はそう思った。もちろん、頭のてっぺんから足の先まで違うのだが。それでも、同じ『女の子』であることに代わりはない。

 そんな彼女を、授業中手持ち無沙汰な洸はいつからか目で追うようになっていた。けれど、誰にも見られないように。水の中に潜って、ひっそりと静かに。こんな醜い自分が見ていることを知られてはいけない。だって、迷惑がかかってしまうから。あの子の世界に私は入ってはいけない。そう必死に言い聞かせて。


 彼女の動きは本当にイルカのように優雅だった。体を上下に波打たせ、水中を自在に進んでいく。腕も足も洸のそれよりも小さく細いのに、一つ一つの動きは力強い。その姿を洸はただ呆然と眺めていた。

 壁際まで近づくと、体を小さく丸めくるりと回転。ぐっと縮めた足を壁につけて、少女は華麗にターンをした。


 あっ……


 彼女の目はゴーグルで隠れていたけれど、口元は緩やかに孤を描いていた。


 笑ってる。


 クラスメイトの嘲笑でもない、駄々を受け入れる母の苦笑いでもない、折れないよう偽るための鏡に映った自分の乾い笑いでもない、ただ純粋な嬉しさの笑顔。間違いなく、彼女は泳いでいることを全力で楽しんでいた。


 いいな……


 笑いたい。


 私も、笑ってみたい。彼女みたいに。



 洸はこの時はじめて、変わりたいと、そう願った。

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