泥まみれの少女

 教室の隅で背中を丸め、少女は机に伏せる。季節は7月。少女にとって好ましくない温暖な気候が、嫌でも彼女の肌に玉のような汗を湧き立たせていた。周りでは同じクラスの子どもたちが大声と足音を辺りに撒き散らしながら、昼休みを自由気ままに過ごしていた。教室という景色に埋もれようと、世界から自分という存在を消そうと、少女は石のようにただ無言で一人、固まっていた。


 こつん、こつん。


 だけど、それを許そうとしない者たちが、少女の周りに季節はずれの粉雪を降らせる。1時間目から降り続いた雪は決して溶けることなく、教室の床に醜い雪景色をつくっている。


 男の子の、女の子の嘲るような笑い声が雑音に紛れて少女の耳下に届く。折り曲げた両腕で耳を隠そうとする。それでも、頭の中にこびりついた声までは消えてくれない。


「ホント、あの子ってデブだよねー」

「丸くてデカくてさー。豚なんじゃね?」

「じゃあさ、ブーって鳴くかもよ。ちょっと叩いてみる?」

「やめなよ。あいつ、汗まみれで汚いから」

「久我崎ってさー。あんななのに恥ずかしいと思わないのかな。生きてて」


 今発せられている言葉なのか、それとも前に聞いた言葉が脳内でリピートされているのか、それすらもわからないまま、少女・久我崎洸はただ必死に、消えてしまいたいと願っていた。



「じゃあ、次のところを……久我崎さん、読んでください」

「教科書、忘れました……」

「……そういうことは授業前に言ってください。三津根さん、教科書を見せてあげてくれますか?」

「はーい」


 三津根が机を寄せて、教科書を見えるように広げる。ただし、二人の机の間は20cmほど距離があいたままで、最近少し視力が落ちてきて洸は目を細めながら、教師に指定された箇所をなんとか読み進めていた。


「あ、ありがとう……」

「……」


 洸が呟いた小さな声に隣の少女は全く反応せず、反対側の席の少女に顔を向ける。


「ねぇ……なんであんなことしたの?私まで迷惑なんだけど」

「私にそんなこと言われても。ほら、もうすぐ1学期も終わるから、それまで我慢してよ」


 うっすら浮かべた笑顔をぐしゃりと崩して、洸は机の中に手を伸ばす。歪な形をした国語の教科書が闇の中から現れた。教科書を触る左手にはじっとりと湿った感触が伝わってきた。



 小さい頃の洸はよく食べる子だった。

 両親は洸に優しく、どちらかというと甘やかして育てていたほうなので、手加減知らずの洸は自分のことや周囲の目など気にもせずに、自身の欲求を満たしていた。引っ込み思案で恥ずかしがり屋なこともあり、友達も少ない洸はその寂しさを紛らわせるために、毎日間食や夜食をとり続けていた。

 その結果として、同年代の女子に比べて一回りも大きくなってしまった洸は、次第にクラスで目立たない存在から、浮いた存在へと変化していった。そんな洸が、好奇心と無邪気に満ち溢れた男子たちから奇異の眼差しで見られ、美しくなることへの憧れを見出した女子たちから侮蔑の言葉を受けることは、悲しくはあるが自然な流れだったとも言えた。


 ある日から、クラスメイトが自分の言葉に返事をしてくれなくなり、男子とぶつかってしまう回数が格段に増えた。クラスの女子が自分に触れた肩を他の子に擦り付ける様子や、男子が自分の上履きを校庭に投げ捨てる瞬間を目撃するようになった。そして今日、教室へ戻ってきたら教科書が何冊か無くなっていた。一人で学校中を探し回り、裏庭の花壇で泥まみれで散らばっている教科書を見つけた。


 そんな屈辱と苦痛に塗れた毎日を、洸はひたすらに耐えてきた。学校に頼ろうとしてもまともに味方をしてくれる人はいなかった。親に泣きすがろうとも思ったが、子どもを甘やかしてしまうくらい気弱な優しい母が、そんな現実に耐えられるとは思えず、洸はただひたすらに耐え忍んだ。みんなとは違う中学に進めばいい、その一縷の希望を胸に、押しつぶされそうな心を支え続けていた。


「はい、次は体育の授業ですよ。みんな移動してくださいね」


 洸の体がぴくりと震える。今日もやってきてしまった。この時間が。

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