一枚の写真

「どうして私に?というか、どうして私が?」

「水泳に全く興味がない人が、放課後にプールに足を運ぶなんてこと考えられますか?」

「だとしても、私が水泳上手かどうかなんてわからないでしょ」

「朱鷺乃さん、見たじゃないですか。私がプールでどうなっていたか」


あぁ...と深月は改めてあの時の光景を思い出す。


「じゃあ、香原先輩に教わればいいんじゃない?水泳部作ろうとしてるわけだし」

「でも、教わるならやっぱり上手な人に教わりたいじゃないですか」


 にこっと笑顔を向ける洸に、あっ、と何かに気づいた深月は目を細めて正反対の疑いの眼差しを向ける。


「私のこと、知っててやった?」


 表情を変えずに、はい、と頷く洸に、深月はひとつため息をつく。


「香原先輩に言われたんです。『プールの前で待っていて。後で、全国レベルのすごい子が一人でここやってくるから』と」

「それで、ついでに上手いこと二人きりになって、部活に入るよう勧めて、って言われたんでしょ」

「はい、そんなところです。本当は私の家に来てもらってお話しようと思ったんですが、それより先に朱鷺乃さんかた家に来るよう勧められたので」


 だからといって、あそこまでやる?という呆れた気持ちに、もう一度ため息をつく。


「そもそも、私がプールにやってくる可能性なんて...」

「香原先輩が言ってました。『その子は水泳が大好きだから、私が話を持ち出したら間違いなく気になってこの場所に来る』と。それと押しに結構弱いから、とも」

「あの人め...」


 スクールで一緒に水泳をやっていた頃、蓮菜はやたらと深月に話しかけてきた。小さい頃から人付き合いがそんなに得意でなかった深月が適当にあしらおうとしても、蓮菜は懲りずにしつこく何度も深月に接していた。結局、深月は蓮菜と会話せざるをえなくなり、赤の他人以上の関係を構築することになった。それもあって、深月は蓮菜が苦手なのだが。そして、一緒にいた一年で蓮菜は深月について、あることを理解していた。


 朱鷺乃深月は、泳ぐことが大好きである、ということを。

 

「それでも、私は水泳はもうやりたくない」


 深月は洸から顔を背け、唇を真一文字に結んで、いまだ変わらない柔和な彼女の笑顔から自身を遠ざける。綺麗だと感じたその顔を、今は見てはいけないような気がした。ただでさえ、すでに自室という自分の領域に踏み込まれているのだ。おまけにここまでの行動の理由もネタばらしをしている。

それなのに、何も動じないということは、洸には何かあるに違いない。深月を水泳部に誘う口実が。


「でも、朱鷺乃さんに水泳を教えてもらいたいのは本当なんです」


その笑顔に似て、これまで不快感を一切感じさせなかった洸の声色がわずかに変わる。川のせせらぎみたい透き通った声の中心には、か細い芯が1本、通っていた。


「これ、見てもらえますか?」


深月の背けた顔の前に、何かが現れる。スマホの画面だ。右下に小さな亀裂が入ったスマホには、一枚の写真が表示されていた。水浸しになった床の上で、同じようにびしょびしょに濡れて立ちつくしている女の子。べそをかいているのか、顔はひどく歪んでいた。


「...これ、誰?」

「私です。小学6年生の頃の」

「うそ...」


洸の言葉に深月は明らかな疑いの声を小さく呟いた。

画面の向こう側で立ち尽くす女の子は、とてもふくよかで、顔はおかめの画面みたいに表面が膨らんでいた。袖から飛び出した腕と長いスカートから突き出た足は、今の深月と比べても太いようにみえた。

とても今、自分の目の前にいる美がついてもおかしくない少女と、この丸々と太った子が同一人物だなんて、深月は理解出来なかった。


「笑いたくなりますよね。まるで豚みたいに太っていたんですよ。昔の私」


洸は全く変わらない笑顔と柔らかな声で、ふふっと小さく息を漏らした。

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