青臭い出会い

洸の姿が視界から消えて、3秒。そこで深月は初めて状況がおかしいことに気づく。


洸が浮き上がって来ない。


プールの深さはだいたい1m30cm。女子でも足をつけば立ち上がることは簡単だ。いくらなんでも溺れるはずは……そう、深月も思っていた。しかし、いきなり水に飛び込んでしまった場合、水温の低さに心臓麻痺を起こしてしまうこともある。

 今、このプールにいるのは二人だけ。洸の話から察するに後に蓮菜が来るのだろうが、それを待っているわけにもいかない。しかし、そもそもここは学校のプール。川や海だったら、一般人が助けに行くのは危険極まりないが、足は着くし、冷静に対応すれば問題はないはず。ならば、深月の選択肢は一つしかない。


 プールの淵に腰を下ろし、靴下に包まれた足を水につける。気温が高いとはいえ、プールの水はまだ冷たい。ぞわりと寒気が足から身体全体へ伝わっていく。


「ああ、もう!!」


 大きな音を立てて、ゴミまみれのプールの水を胸に叩きつけ、床についた右手を軸に捻った体を水に浸ける。戸惑う心とは裏腹に、それはすんなりと深月の侵入を受け入れた。一歩、二歩と滑らないように慎重に進む。

 肩下まで浸かった深月は洸が落水した地点まで進む。塩素と磯臭さが混じった嫌なニオイと、張り付く制服が段々と邪魔になる。それでも自分がやるしかないのだ。


その時、何かがガシッと自分の足首を掴んだ。


「ひいっ!?」


今度は、左の太ももにべたりと張り付いた感触。深月は身動きを取ることも出来ず、棒のように立ち尽くす。けれど、ボコボコと目の前の水面が泡立ちはじめでようやく、この状況が理解できた。洸の手だ。

 続けざまに右腰、左腹部、右脇下に感触が伝わる。そして、水面を貫いて汚れた細い手が伸びて、深月の左肩をがっしりと掴む。底を映さないくらい濁った緑に白いセーラー服の輪郭が浮かびあがる。


「……ぷはぁーっ!」


 長い髪を顔中にだらりと垂らしたお化け、もとい、洸が水中から顔を出す。呼吸はひどく荒いものの、深月の体を掴む両手には力がこもっているし、髪の間から見える顔色も問題なさそうだ。


「あり、がと……」


 すると、洸の上半身が急に前へと折れ曲がる。当然、そのまま目の前に立つ深月へともたれかかる形となる。人形みたいに細い洸の体は思ったよりも重くて、柔らかい。制服越しに洸の鼓動と温度が伝わる。びしょ濡れの制服が体にぴったり張り付いているせいで、その感触はまるで深月自身のもののように思えた。それが、なぜだかちょっと心地よい。


「無事で、良かった。てっきり、溺れたのかと思ったよ」

「上に上がろうと……必死に、手と足を動かし……たんですけど、全然体が浮かばなくて……」

「そういう時は、何もせず力を抜けば勝手に浮くよ。それに、ちゃんとかけば普通に水面に出れるはずなんだけど。……もしかして、泳ぐの下手?」

「はは……私、泳げないんです。全然」

「泳げないのに水泳部入ろうと思ったの?」

「泳ぎ方……教えてもらえると思ったので」


 それもそうだ、と深月は空を仰ぐ。どこまでも、突き抜けていきそうな青い空だけが見えた。

 顔を下ろすと、もたれかかった頭を元に戻した洸がいた。髪の毛を軽く左右に払うと、ガラス細工みたいな小さな瞳が現れた。繰り返し深月は思う。洸は人形のよう。顔、髪、手、足、肌、ありとあらゆるパーツが観賞用として作られている、そんな気がするほどに綺麗だった。


「あのさ」

「はい、何ですか?」

「久我崎さん、き……」


その時、生ぬるい夏の傘が深月の顔面を通り過ぎていった。洸から漂よう鼻につくキツい臭いを引き連れて。


「汚くなってるし、早く上がろう。それに、すごく臭いし」

「あぁ……本当ですね。ふふっ、朱鷺乃さんも……臭います」

「いやっ、これはプール全体が臭いだけで……」


 深月は水に浸った制服を引っ張って、臭いを嗅ぐ。


「くさ……」


 十分、アウトだった。


「でも、全身汚れてる久我崎さんに比べれ……うひゃあっ!?」


 突然、深月の顔面に水飛沫が襲い掛かる。濡れた顔を擦りながら目を開けると、洸が口を抑えながら笑っていた。


「ふふっ。これで朱鷺乃さんも一緒ですね」

「一緒って……。ちょっと!もう……」


「二人とも何やってんの!?勝手にプール入っちゃ……ていうか、そんな汚いとこ入ってたらまずいって!早く上がってー!」


 慌てた声と表情で蓮菜が必死に呼びかけていた。


「上がりましょうか」

「そう……だね」


 初夏の大空が、ギラギラした金色の目と真っ青な大口をこれでもかというほどに大きく開いて大笑いしていた。プールサイドの壁の向こう側から聞こえる生徒達の喧騒が二人を揶揄するかのように、深月の耳に木霊する。


「……うっさい、ばーか」


 誰にも聞こえないように、深月は空に向かってそっと呟いた。

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