汚れた水面と人形姫

 濁った緑の水面が深月の眼前に広がる。済んだ初夏の青空と決して混じらないやさぐれた不良のような、汚れとゴミに塗れたボロボロの水底。


「うわぁ……汚いですね」


 それを興味津々に覗きこむ一人の少女と、そんな変な光景をプールサイドに体育座りで眺める深月。日陰に座っているというのに、熱を吸い込んだ地面は深月の温度をじわじわと上げていく。


 さっき、水泳部の誘いを断ったばかりの深月が、どうして校内の片隅にあるプールサイドにいるのか。それは10分前にさかのぼる。



 蓮菜からの誘いを断り、家に帰ろうと階段を下りようとした深月は偶然にもいくつもの教材を運ぶ担任教師に遭遇し、たまたま目をしっかりと合わせてしまい、タイミング良く担任がふらついて持っていたものを床に落としてしまったため、「手伝いましょうか?」という言葉をかけざるをえなくなってしまった。

 道中、担任の彼女が担当する現代文の中間テストの結果を褒められつつ、教材ビデオを視聴覚室に運んだ深月は、ちょうど視聴覚室の右側の廊下の先にプール棟があることに気づいて、立ち寄ってみた。


「あ……」

「……あなたが私と同じ入部希望の人?」


 そして、プール棟の入口で、深月は一人の女子生徒と出会った。


「いや……違うけど」

「どうして、ここに?」

「えっと、まぁ、なんとなく」

「ふぅん……そうなんですか」


 丸みを帯びた目に細く整った眉。薄い唇から覗く小さくて真っ白な歯。人形みたいに小さく整った顔は、自分と同じ女子高生のそれなのか、と深月に自分の容姿について悩ませるくらいに綺麗だった。


「あなたは……」

「一年の久我崎くがさきこうです」

「私は朱鷺乃深月。私も一年生。久我崎さんは、水泳部に入るの?」

「そのつもりでここに来ました。先輩に呼ばれて放課後ここに来て、と」


 となると、彼女は自分の意思で入部を考えたということだろう。しかも、今の部活を辞めてまでの決意で。


 須江川高校は部活動にも重点をおいている。そのため、全生徒は何かしらの部活動に所属することが義務付けられている。一度退部した場合も、1ヶ月以内に次の部活に入るようにと学校から促される。一年生ももちろん、5月の中旬にはどこかの部活への入部を求められる。あくまでも強制ではないのだが、学校側も『勉学と部活の両立』とか『部活所属率100%』などと謳っているせいで、適当に出来ないのだ。

 つまり、6月上旬の今、洸が水泳部に入部するということは、入部二ヶ月にして早くも退部したということになる。部活が盛んである以上、先輩後輩の関係を含む人間関係は日々の学校生活の中で無視できない。部活での人間関係が原因で、友情や恋愛に影響が出たり、トラブルに発展したりする例も決して少なくはない。


「先輩がもう一人入部希望者がいるって言っていたので、てっきり朱鷺乃さんのことかと思いました」

「あぁ……それは、なんというか、その……」


 蓮菜も水泳経験者の自分なら入ってくれると思い込んでいたのだろう。深月には全く非はないが、少しだけ残念そうな顔の洸を見ると、罪悪感が芽生えてしまう。


「なにか事情があるんでしたら無理して言わなくていいんです。私はただ水泳をやってみたいと思っただけですから。まぁ、早く部員が集まって部活に昇格できれば嬉しいな、とは思いますけど」


 部活として活動し、学校から活動費を給付されるためには5人以上の部員と顧問が必要となる。よくありがちなこの条件は須江高にもきちんと設定されている。ただし、民族学同好会のような部活未満の団体でも部室だけは用意してもらうことができるようになっている。


「あっ、プールサイドの鍵、開いてますね。先輩が開けておいてくれたんでしょうかね?」

「かもね」

「じゃあ、私は先輩が来るまでちょっと見ています」


 そういうと、洸は太陽が照らすプールサイドへ一歩踏み出そうとして……、そこで、「あっ」と声を漏らすと、踏み出した足を引き戻し、上履きに指をかける。扉の横に『上履きのままプールサイドに入らない』と貼り紙があった。学校のプールサイドはゴム製の滑りやすい床である。上履きのままだと特に滑りやすくて危ない。さらにいえば、屋内プールなどタイルを使用しているところで土足入場など持っての他である。


「あつっ……」


 直射日光に延々と照らされ続けたプールサイドは鉄板……とまではいかないが、思わず足を跳ね上げてしまうほどには熱くなっている。ここを素足で歩けというのは結構つらい。土足禁止なのが実に悩まされる。


「葉っぱに、これは藻……?それに、野球のボール?なんか、いろいろ浮いてますね。あ……虫の死体」

「開く前のプールはだいたいこんなもんだよ」


 中学一年のとき、入部した水泳部で汚れたプールを見たことを深月は思い出していた。最初は「こんなの綺麗にできるのか」なんてため息をついたけど、水を抜いてゴミを攫って、デッキブラシで根気強く掃除をしたら、よく知っているとおりの水色のプールに様変わりした。あの時の妙な達成感。部活の仲間と一緒にやり遂げた一体感。それを思い出して、深月は虚しくなった。なにせ、彼女はそれを自分の手で投げ捨てたのだから。


「わわっ……ここ、高いですね」

「飛び込み台だから……って、危ないよ」


 気づけば、洸が真っ白にコーティングされた飛び込み台に上っていた。といっても、床から30cmほど離れた小さな台の上。そこに収まる肌白い小さな両足。


 純白なステージの上に立つ、セーラー服姿の少女。風にはためくスカートと靡くロングヘア。右手と左手でいたずらに動き回るそれらを優しく押さえる。まるでCMのワンシーンにようなカットに、深月は小さくため息を漏らす。よく見れば、洸は顔だけでなく、体も人形みたいだった。スラリと伸びた細い手足。それでいて、体のラインは女性らしい緩やかな曲線をあちこちで描いている。違うクラスだから気にならなかったのかもしれないが、同じクラスだったら女性同士だとしても、度々視線を向けてしまうに違いない。

だけど、自分から話しかけることはないのだろう。それは人付き合いが好きじゃない、という理由だけでなく、彼女の綺麗さにどこか近寄りがたい、触れづらいものを感じてしまうからだった。それこそ、触れたら壊れてしまう脆い人形のように。


なんて、深月が物思いにふける一方、当の洸は飛び込み台の上で体を前に折り曲げていた。どこからどう見ても飛び込みのポーズだ。


「飛び込みっこんな感じですよね...って、わわっ!?」

「ちょっと!?」


深月は慌てて立ち上がったが、時すでに遅し。大きく傾いた洸の身体は澱んだ深緑の水中へと大きく音を立てて、吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る