1.人魚姫は泳げない

突然の訪問者

朱鷺乃ときのパイセンー。麦茶お持ちしましたー。どうぞ」

「ありがと」


 学ラン姿の生徒がコップに入った麦茶をすーっと差し出す。朱鷺乃と呼ばれた少女はぎこちない手つきでそれを受け取り、喉に通す。6月上旬、すでに気温は真夏日に到達しようとしていた。少し汗を吸った袖が肌にじんわりと触れて少し気持ち悪かった。

 麦茶を差し出した生徒は彼女の対面に座り、かばんに閉まってあった一冊の文庫本を取り出した。朝顔がプリントされた水色のブックカバーを見ると0.01度くらい涼しくなった気がする。


「朱鷺乃パイセン」

「なに?」

「パイセンはどうしてここにいるんですか?」

「どうしって……私、ここの部員だし」


 今二人が対面しているこの空間は、図書準備室。図書室の掃除用具や卒業アルバムなどの普段申請がないと閲覧できない蔵書が置かれ、さらに文化祭や体育祭の小道具がそこかしこに放置されている歴史ある須江川高校の教室兼倉庫のうちの一室。

 そして、須江川すえがわ高校(通称:須江高)民俗学同好会の部室でもある。


「こんな部員もろくにいない貧弱同好会にいたら、大切な高校生活、無駄にしますよ」

「お気遣いどうも」


 その言葉をお前が言うのか。という気持ちを抑えつつ、深月は窓の外へ顔を向ける。灼熱の怪光線を人間たちに浴びせ続ける太陽の下で、今日も生徒たちが放課後の部活動に励んでいる。人がまばらなのは昨今の熱中症問題を受けて、屋内練習や活動縮小をとっている部活が多いからだ。

 須江川高校は学業と部活の両立を昔からモットーに掲げているため、部員や保護者、そして、教師達に対しても安全・健康やモチベーション、さまざまな点を考慮しながら学校活動を展開している。この対策も一部からは反対意見もあったが、いざはじめてみると屋内ならではの練習方法や普段消極的だったミーティングを実施することで、部員の発想力向上や人間関係の改善に思わぬ効果をもたらした。

 とはいえ、文化系で部員も少ない部活未満の同好会に所属している深月には全く関係のない話である。


「パイセンは何かやりたいことないんですか?」

「無いからここにいるんでしょーが。後、パイセンやめて」

「まぁ、特技も特徴もなさそうな感じですよね。パイセンの見た目って」

「失礼な。私にだって……」

「あるんですか?」

「絶賛募集中」

「そうでしたか」


 チャームポイントは一つもない。派手すぎず、地味すぎず、太すぎず、細すぎず。ごく普通の容姿。勉強には自信があるけど、教科によってまちまちだし、自分より頭が良い人はたくさんいる。


「空は良いよねー。いろいろ人気が出そうな容姿で」

「好きでこの姿になったわけじゃないですよ。まぁ、得するところもありましたけど」


 大塚空おおつかそら。深月の眼前で中途半端な読書に耽るこの生徒。もう衣替えの季節だというのに学ラン姿で、それなのに汗一つ垂らしていない不思議な体質。ショートヘアに端整な顔立ちと小柄な体型。深月も初めて見たときは性別と年齢を疑った。女子の多い部活にいったら、女子生徒たちからチヤホヤされそうだ……などと深月は思っていたが、当の本人は自分の容姿についてあまり良く思っていないようだ。


「二人とも、こんにちは」


 図書準備室の扉が開き、一人の生徒が入ってくる。肩下まで伸びる髪の毛とふくよかな胸が特徴的なセーラー服姿の少女。しかし、深月は比較的平らな上半身を見ると、”少女”という呼称が変に思えてくる。どこが少ないのか、どこが。


「お疲れ様です。籐堂とうどう先輩」

「お疲れ様です!先輩!」


 テンション高めで挨拶をしたのは空の方である。にこやかな表情にさらに笑顔を足して、読んでいた本もどこまで読んでいたかなど気にせず、パタンと閉じて、籐堂の顔を見つめている。


「今日も暑いですよね。麦茶、用意します!」


 空は机の上に置いてある銀色の魔法瓶と紙コップを手に取り、焦げ茶色の液体をコップに流し込む。彼女が席に着くタイミングで目の前に鮮やかな手つきで麦茶をセッティングする。その間、5秒。


「ありがと。大塚くん」


 柔和な笑みで飲み物を受け取った彼女は空をじっと見つめながら、コップに口をつける。そこだけなぜかスローモーションで、ツヤとハリのある桃色の唇が真っ白な紙コップにゆっくりと覆いかぶさっていく。見つめられている空の方を見ると、


「……っ!」


 頬を真っ赤に染めた空があからさまに顔をそらしていた。いけないものを見てしまったかのように。いやいや、ただ飲み物飲んでるだけでしょ、と深月はツッコミたいところだったが、場の雰囲気に流されて言葉は喉元へと引っ込んでしまった。


 籐堂紅葉とうどうもみじ。高校二年生。二人の先輩であり、二人が所属する民俗学研究会の部長である。先述のとおり、容姿と振る舞いがどこか大人びていて、温和な性格と柔らかい口調はどこかミステリアス夏は雰囲気も漂わせている。


「朱鷺乃さん」

「は、はい」


 麦茶を少量流し込んだ紅葉は深月に呼びかける。思わず、深月は声が上ずってしまう。深月は決して彼女が嫌いではないが、接するときはどこか緊張してしまう。年不相応に大人びた彼女がちょっと苦手だった。


「今日ね。朱鷺乃さんにお客さんが来てるの。もちろん、ここの生徒ね」

「私に……ですか?」


 深月はまた髪の毛を二度三度撫でる。考え事をするときの癖だ。


「そろそろ来ると思うんだけど」


 ドンピシャのタイミングで部室の扉が開いた。


「おー、いたいた!ねぇ、紅葉。そっちの子、だよね?」

「えぇ、そうよ」


 束ねたポニーテールが一揺れする。廊下を走ってきた反動だろう。少し荒めの息づかいで、女子生徒が紅葉に確認をとっている。


「はぁーっ!ほんとにいたんだね。良かったー!ねぇ、深月みつきちゃんだよね?あー、身長も少し...だけど伸びちゃって、もう。覚えてる、私のこと?いやー、まさか、この学校に来るなんてさ。思ってなかったら、ビックリしたよー」

「あっ……」


 出会い頭の切れ間のないトーク。深月は困惑した表情で聞き流した後、バツの悪い顔を浮かべた。いや、正確には浮かべてしまった。なにせ、この学校ならと思っていたからだった。


香原かはら、さん……」


 かすれるような声で漏れた呼びかけに、彼女、香原蓮菜かはられんなは笑顔で頷いて、


「ねぇ、私と一緒に水泳部、やらない?」


 そう言った。

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