空を見上げれば、いつだって君がいる

つかさ

プロローグ

私だけがいない夏

 水飛沫が激しく舞い散り、滑らかな手足が現れては消えていく。無数の波紋で水面は揺らぎ、不可思議な模様をつくっていた。まるで絵画を眺めるように、集まった多くの人たちが巨大な会場の中心部を見つめている。


「いっけー、行け行け行け行け、笹川!おっせー、押せ押せ押せ押せ、笹川!」


「せいっ!せいっ!せいっ!せいっ!……そーれっ!」


 会場のあちこちから、少年少女の気合の入った掛け声が聞こえる。無数の声は重なり合い、壁や天井に反射して、あちこちへと飛び跳ねていく。反響したせいでぼやけたフレーズたちが、いびつだけどどこか心を奮い立たせるような合唱へと変わっていく。


 彼ら彼女らはジャージや制服を着て、メガホンを片手にありったけの情熱を声に乗せ、階下にある大きなプールへと注ぎ込んでいる。水の上ではその声援を背に受けて、全身全霊で少女たちが泳いでいた。時に激しく、時に静かに、誰よりも先に何かを掴み取るため、呼吸を荒げ、その手を前へ伸ばす。一挙手一投足にありったけの自分をこめて、どこまでも懸命に。


「……」


 その様子をプールから二十メートル以上も離れた一番後ろの席で一人の少女が眺めていた。ちらりと、視線をずらす。大人も混じった十数人の男女が視線を遠くの一点に向けて、大声をあげている。少女はぎゅっと唇を結び、くるりと後ろを振り向いてその場を去っていった。

 決着がついたのか、会場に歓声が響きわたる。高く掲げられた電光掲示板には、泳いだ選手の名前と、その横に着順が表示されていた。1、2、3……と、数字が表示されていく。全ての選手が泳ぎきり、先ほどまで荒く揺らいでいた水面はその役目を終え、音も立てず段々と平穏を取り戻す。次のレースに出場する選手が現れ、会場はまたざわめきはじめる。少女の姿はもう、そこにはなかった。

 


「あっつ……」


 7月初旬。すでに夏一色の東京。外に出た瞬間、ぶわりと額から吹き出た汗を少女は乱暴に腕で拭い、地面に払った。数滴の汗がアスファルトに垂れ落ちてその色をわずかに変えるが、あっという間にその痕跡も無くなっていく。長く伸びた髪の毛がドライヤーのような熱風によって無造作に煽られる。鬱陶しそうに髪を押さえつけ、少女は会場の方へ振り向く。


 『ジュニアオリンピック 東京都予選』


 立てかけられた看板に記された文字を読んで、少女は軽くため息をつく。後悔がない、と言ったら嘘になる。

 いや、これは仕方のないことなんだ。たまたま運が悪くて、偶然悪いことが重なって、残念な結果になってしまった。ただ、それだけ。これで誰かが不幸になるわけでもないし、誰かが死んでしまうわけでもない。今後の人生が大きく変わってしまうことだってないはずだ。気持ちを切り替えよう。そうだ、帰ったら勉強しないと。もう後半年で高校受験だ。これからたくさん勉強して、明日からは塾も通って、レベルの高い学校へ行って、いろんなことを学ぶんだ。思いつく限りの諦めの言葉を小さな心の中に連ねて、少女はぐっと拳の握り締め、前を見る。


「あ、れ……」


 こんなにも日差しが強いのに。雨が降ってきたようだ。頬にひんやりと冷たい温度が伝わる。つーっと真下へ垂れていくそれを、汗をぬぐったその手で擦る。けれど、雨粒は拭っても拭っても一向に拭き取れない。たくさんの雨粒は頬を渡り、腕へと伝う。どうしようもなくなって、握った両手を開いて顔を覆う。誰にも見られたくない。こんなひどい顔。神様にだってさえ。


「なんで、なんで」


 真夏の太陽が容赦なくアスファルトを照らしつける。零れ落ちた水滴を誰の目にも触れさせないように。

 蝉の鳴き声がけたたましく木霊こだまする。少女の嗚咽をかき消すように。


「なんで、私だけ泳げないんだよぉ……」


 十五の夏、少女は大好きだった世界から、一人置き去りにされてしまった。

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