30.「死別」


「すまない蒼、一人になりたいんだ」


「そっか…じゃあ、おやすみ熾凛」


「あぁ…おやすみ」


夕食の誘いを断ると蒼は少しだけ寂しそうな顔をしていた。彼女なりに気を遣ってくれていたのかもしれないが、今の灰原には全く食欲が湧かない。



————…きっとこの胸に空いた大穴をどうにかしなければ…この先を、明日を、迎える事は出来ないだろう。



確かな予感を抱きながら灰原は玄関の扉をくぐる。

そのまま靴を脱ぎ揃えることもなくリビングに直行し、道中で脱いだブレザーをソファに放り、首元のリボンを解きながら洗面所へ駈け込んでいった…。


「・・・」


…シャワーを浴び始めてから数十分。

既に浴槽からは多量の湯水が溢れ出し、ただいたずらに湯水が垂れ流されていく時間が続く一方、灰原は溢れ・零れ・惰性だせいに流れていく破綻した水の調べを背景音楽にしながら一途に自己世界へ没入する。


『———…終了致します』


やがて長時間に渡る多量の排水を感知した機器が強制的に流水を停止する。流れ続けた音楽が止まることで、ようやく灰原は自己世界から帰還し現実世界に目を向ける事となる。


「‥‥あ」


湯水がひしめく浴槽とうるさく水をすする排水口。

それを交互に見合い、猛省した灰原は浴槽の湯を使って身体を洗い、残った湯を可能な限り洗濯機に放り込んで浴室を後にした。


「・・・・」


部屋着に着替えて以降もリビングを歩き回りながら思考に没頭するが答えは得られず、掘りごたつ・ソファ・自室のベッドの順で、横になっては考え、横になっては考えて…と同じことを繰り返す。‥けれども、やはり浴室にいた時と同様にどれほど時間を掛けても胸に空いた穴が塞がる気配はない。



ピピピピッ‥‥


…そしてソファに身体を預けること四度目。

突然聞き慣れないリズムの電子音が鳴り始め、灰原は勢いよく起き上がる。見ると、音は掘りごたつの上に置かれた長方形の端末から発されていた。


「…誰だろう」


なぜだか誰かに呼ばれているような気がしてしまい、端末を手にした灰原はそう呟く。すると電子音がピタリと止み、とある人物の名前と共に端末は用件を告げる。


〈クラスメイト:紅葵蒼より連絡です〉


例の如く麗人クラウンの音声に乗せられた彼女の名前を聞き、灰原は少し動きを止める。身勝手な理由で夕食の誘いを断ったこともあり、彼女からの連絡に応じるべきか迷っていた。


「———もしもし、熾凛?」


端末の画面に手を振れてから少し経つと端末から蒼の声が発せられる。まるで彼女がすぐ近くにいるような安心感と申し訳なさが胸の中で混じりあい、灰原は大きく息を吐いていた。


「蒼‥か」


肺が凍ったような声が出るが、緊張ではない。

端末を持つ手が少しだけ震えているが、これも緊張ではない。


「どうしたんだ?」


早口であったためか。彼女からの応答がない。

数秒。それとも数分か…待っている時間が異様に長く感じ、灰原がもう一度言い直そうと息を吸うと、


「‥‥だいじょうぶ?」


たった一言。彼女はそう尋ねてきた。


「大丈夫、だ。あぁ…怪我はすっかり良くなったよ。

みん‥最上たちと比べたら俺の怪我なんて些細なものだからな…」


・・これ以降、自分が何を言っているのか灰原は分からなくなってしまった。

ただ懸命に口を動かしていたけれど話せば話すほど胸が苦しくなり、一言一句言葉を重ねるたび目が熱くなる。


「‥その‥で…だから————」


詰まった口から無理やり言葉を取り出そうとすると余計に呼吸が乱れてしまい、とうとう身体に力が入らなくなって灰原は畳に倒れ込んだ。



…自分の身体のはずなのに、自由が利かない。

…自分の身体のはずなのに、自分がなぜこうなってしまったのかも分からない。


————————ない。ない、無いない…分からない。


「分からない」は怖い。

「分からない」は恐ろしい。

見えない恐怖に心身がむしばまれていく様はまるで朝を迎える事のない永遠の夜にいるよう…。


それでも胸の内にある空洞は絶えず肥大化し、それに堪え切れなくなった自我が何かに引きずり込まれそうになる。


〈このまま眠って明日を迎えてしまえれば一体どれほど楽であろう〉


いつ訪れるかも分からない夜明けに期待しながら有りもしないまぶたが閉じていく。


〈ただ物事を享受し続けるだけの…機械的な人間で在れたならば…〉


‥‥そこから先を思うことができないまま沈みゆく思いは重さを増し、何もない怠惰な虚無の水底に落ちていく。光も重力も空気もない空間で漂い続けることに疲れた心であるが、それでもやはり人間らしくありたいと望む浅はかさを持ち合わせていたのか…涙のあぶくだけが日の当たる場所へと浮かんで—————。


「ぁぁぁああ~もう!…聞いてよ熾凛。私を…頼ってよ」


苛立ちと寂しさ。

その衝撃の波紋は涙の泡を破り、苛烈な光は虚無の海に一筋の白線を引く。


その眩しさが涙を縮こませ、覚醒の一閃を身体に奔らせると、いつしか空を揺蕩う光に吸い寄せられるように、その手は上へ‥光へ…。



「…教えてくれ蒼。———————死ぬって、どういうことなんだ?」


‥‥そして少年は初めて出会った女の子に尋ねた。




—————【死】とは何か?————と。




「———————」


・・・しばらくの沈黙があった。

初めは通信が途絶えてしまったのかと思われたが端末越しに僅かながらの人の気配を感じて灰原はひたすらに待ち続けていた。


「…熾凛、よく聞いてね。

熾凛の質問はとても難しいモノで、きっと人それぞれ‥一人一人で違うこたえになると思うから、これから言うことは全部ぜんぶ私の意見として受け止めて欲しい‥‥それでも良いのなら私の言葉を聞いてくれる?」


なぜだか分からないが解いたはずのリボンで首元を閉められたような気がした…。


「…頼む」


喉を詰まらせながら答えると彼女はこう答えた。


「——永遠にめない夢の世界に生まれること。

それが私の知る「死ぬ」ということだよ…熾凛」






《‥———場所は病室か。それとも誰かの家。もしくは血荒ぶる戦場か…。

ベッドの上で永眠する遺体があり、その周りに立つ親しき者達が涙を流す。

遺体に触れ、その肌の冷たさと肉の強張りから、人は初めて〝死〟を感じ取る———‥》


紅葵もみぎ蒼が知るこれ・・はよく見る死の場面。

誰かの死を思い浮かべる時に真っ先に描かれる風景シーンだ。


…だが、これはあくまで作り話の一例。ドラマや映画といった現実リアルの一部を参考にして作られた架空の状況や感覚であり、少し嫌な言い方をすれば典型的な死の型式パターンという枠を出ない。


人が死に、涙を流すという行為も其の人の死を実感した結果起こる反応の一つで、その過程にある「其の人の死を実感した瞬間」を問われれば誰でも違う答えが出る。


…其の人が死んだという報告を受けた時。

…遺体となった其の人を見たとき。

…葬儀が行われるときか。もしくは帰り道で其の人のことを思い出した時なのかもしれない。

けれども紅葵蒼は誰かの死を味わったことは一度もない。

故に自身が語れるのは独創的な〝死〟だけで、これもまた回答の一例でしかないのだ。



「——死ぬのは凄く痛いのか? それともずっと苦しい状態が続くのか?」


「ううん、そのどちらでもないよ。

死を迎える時はきっと…そういうものは感じなくなると思う…」


「声も…聞こえなくなるのか?」


「もしかしたら‥‥聞こえるかもね」


…髪を左耳に掛けながらそう答える。


「——〝永眠〟っていう言い方もあるんだけど。やっぱりこう…フワッと入っていくのかな…?」


「永遠の眠り…か。そう聞くと少しだけ身近に感じてしまうな」


「身近?」


「あぁ。…俺達も眠るだろう?

さすがに永遠とまではいかないが…もしかしたら知らない内にその夢の世界というところに行っているのかもしれないじゃないか」


「…意外とメルヘンチックな所あるのね」


「メル‥ヘン…?」


…きょとんとした彼の顔が思い浮かぶ。




「——————明日の志村さんの葬儀…大丈夫そう?」



思い切って蒼は明日の話題を切り出すことにした。


…それは時を遡ること一時間。ロビーでの一件でのこと。

雨崎の告白の後、保健室で見た志村の最期を最上が説明し、志村の死を全員が知ったところで最上が志村の葬儀を提案したのである。


場所は保健室。時刻は明日の朝。

クラウン氏の立会いの下で志村功の葬儀が行われるのだという…。


【葬儀‥】


【おう。志村に会いたいんだろ?】


【…うん】


誤解が混じった会話。

最上の問いに答えた灰原の顔がかなり思い詰めたものになったのは、やはり志村功の「死」という現象を目にしたことが原因なのだろう。


〝初めて見る人の死〟という部分では蒼にも共感できるところはある。

ただ灰原にとっての「死」とは未知という下敷きがあったうえで起きた現象であり「本当に分からないもの」に部類されるものだからこそ「もしかしたら志村の葬儀に行きたくないのではないか‥」という不安も蒼の中にはあったわけで…。



「あぁ。色々と不安はあるが…それでも俺は志村に会いたい。

だから、その…一緒に行ってくれないか?」


「うん…うん! もちろん!」


元気よく返事を返し、安堵と喜びで胸を撫でおろす。

しかし、息をつくのも束の間。機器から僅かに聞こえてきた音声によってその手は動きを止める事になる。


…くぅ…


「‥‥それと、本当に申し訳ないのだが‥」


「はいはい。準備するからちょっと待ってて」


「‥すまない」


通話を切り、冷めた湯呑の茶を飲み干して急いで着替える。それからエプロン片手にすぐさま玄関の扉へと向かう。


—————帰ったらもう一度シャワー浴びないとなぁ…。


そんな思いとは裏腹に、嬉しそうな笑みを浮かべながら紅葵蒼は自宅を飛び出した。







白い壁、白い天井。

窓から差し込む朝日がベッドとそれを囲う純白のカーテンを照らし、優美な空間を作り上げていた。


『皆様、おはようございます。本日はお集まり頂きまして誠にありがとうございます』


一同が保健室に入ると、黒手袋に黒のスーツを着込んだ麗人が一礼する。

いつもの白いドレスシャツとは正反対の全身黒一色の服装であったが、その顔の白さや金色髪の滑らかさがより一層映えているように思われた。


「こっちこそ朝からすいません。今日はよろしくお願いします」


彼女の服装に一同の注目が集まる中、最上秀昇ひでたかがクラウンに挨拶をする。彼もいつもと異なる服装をしており、ボンタンの代わりに通常の制服ズボンを履き、ブレザーのホックもきちんと締めている。…普段と変わらない点があるとすれば頭に掲げる緋色のリーゼントぐらいだろう。


「よろしくお願いします」


深々と頭を下げる最上に続いて灰原・蒼・雨崎・進藤、そして梶原の五人も一礼する。


『それでは‥これより管理者アンドロイド=ナノマシン:クラウンの下、志村功様の葬儀を始めさせて頂きます。皆様、どうぞよろしくお願い致します』


そう言って麗人が一度手を叩くとベッドが一台消え、同じ大きさの箱が現れる。

材質はマンションの外壁に似た白く硬い物質で出来ており、蓋が被せられていた。


「———…*———*‥」


それから蓋に手をあてながら麗人が何かを呟くと冷気を吹き出しながら箱の蓋が開き、中身が露わになる。


「 ・・・ 」


其処にいたのは制服姿の志村功であった。

両断されていた身体は元通りになっていて今にも目を覚ましそうなほどに血色の良い肌をしていた。


「…最後に別れた時のままじゃないですか」


ガタリ…と物音がして振り返ると、くしゃりと潰れた顔で涙を流す進藤が膝から崩れ落ちていた。


「おい。…?」


すぐさま隣に立っていた梶原が彼を引っ張り上げるが何かの違和感を感じ取ったのか…僅かに目を見開いたあと梶原は進藤に肩を貸していた。


『…ハイ』


進藤の言葉をどう受け取ったのか。

少し素っ気なさそうに返事をしただけで彼女がそれ以上語る事は無かった。


「…触れても大丈夫ですか?」


最上がそう尋ねると麗人は静かに首を縦に振る。

いつになく静かな彼女に少しだけ違和感を覚えたが今は最上の動きを見る事に意識を注ぐことにした。


「良い顔してやがるな」


「確かに…きれいな顔ですね」


いつの間にか棺をのぞき込んでいた雨崎が小さく言い零す。

雨崎にならい、ゆっくりと近づいて志村の顔を覗き込もうとした灰原であったが、なぜだか踏み込んではいけない境界線のようなものが見えてしまい一歩引いて蒼の隣で彼らを見守ることにした。


「…少しだけ三人の時間にしてあげよう」


「うん」


小さく囁く蒼の言葉に灰原は納得する。


「あの三人、仲良かったからね」


「そうだな」


昨日きのう保健室で進藤から聞いた話によると、三人の出会いは初日のマンションであったという。

時間で見れば灰原と蒼と同じくらいだが、世話する蒼と世話される灰原と違って対等であった彼らの方がより親密な関係であったと言える。


—————…そんな人がいなくなってしまったら俺はどうなってしまうのだろう?


彼らを見守る中で一つの不安が脳裏を過ぎる。

反射的に蒼の方を向くと何故だか彼女も灰原の顔を見つめていた。


「「?」」


互いが首を傾げ合う中、突然誰かが灰原の手を引く。


「待たせたな。行くぞ灰原」


「あ…あぁ」


最上に手を引かれて灰原は志村と対面する。

髪型は生きていた当時のまま。茶髪で癖のある毛髪は艶があり、その顔はとても健やかな表情を浮かべていた。


「…こんな表情が出来たのだな」


保健室の映像を見ただけでは分からなかったが「死」を目前にしてもなお曇りのない笑みを浮かべた志村の顔は、灰原にとって理解し難いものであった。


———————どうして…?


死の恐怖など微塵も感じさせない志村の顔は、まるで「死」そのものを克服したかのような解放感を持ち合わせていた。


〈死とは永遠に目覚める事のない夢の世界で生まれること〉


蒼の考え方を借りるとすれば、死を間際にした志村はまさに夢の世界の入り口に立ったということ。彼が「生」と〈生〉の狭間で見たもの…それこそがこの疑問を解く糸口のようにも思われた。


「…あ」


気づけば志村の手を握っていた。

棺に籠る冷気を吸った志村の手は無機質な冷たさを含んでおり、灰原の手の温もりを吸って徐々に手の表面に熱が溜まり始める。


「志村…」


その伝播しただけの一方的な温もりを灰原は志村の温もりだと勘違いしそうになってしまった。


「…もっと志村の事、知りたかったよ」


進藤の口から志村の過去を聞いた。

しかし梶原の過去を聞いた時のことを思い返すと、やはり本人の口から聞かなければ伝わらない想いがある気がして…思わず出た言葉であった。


「そうだ志村。一つ言い忘れていた」


いつの間にか進藤を担いだ梶原を連れて来た最上がニヤリ‥と笑みを浮かべながら最後の報告をする。


「仇は取ったぜ‥俺達でな」


「おう!」


「…志村君、きみの事は絶対に忘れませんから…安心していってください」


元気よく返事をする梶原とボロボロ‥と涙をこぼしながら言葉を伝えた進藤。

そして、背後をふり返ると蒼に頭を撫でられながら身体を震わせる雨崎の姿があった…。




『————それでは短い時間で大変申し訳ございませんが、これより仮葬を始めさせて頂きます。

…皆様、ご準備はよろしいでしょうか』


授業開始まで残り10分。約一時間に及ぶ志村の葬儀が終わりを迎える。

全員の目を見つめて各々の同意を得たことを確認した麗人は手袋を外して志村の頭に手をそえる。


『あなたの歩む道が…どうか明るいものでありますように』


しんしん‥と降り伝う水粒の如く静かな言葉をかけると志村功の身体は麗人の髪にも等しい金色の光を帯び、宙へと消えていく。


「志村…」


灰原が光の粒を目で追うと蒼の隣に立つ雨崎の姿があった。


〈・・・・・・〉


口に出してはいなかったため彼女が何を言おうとしていたのかは分からない。ただうつむいた雨崎の口は最期にこう呟いていた気がした。


「…さようなら、だ」


同じ言葉を囁くと一筋の涙が頬を伝う。


————————もし蒼のいう夢の世界に志村が辿り着いたのならば…。


彼の安寧と楽しさと自由を願う中で灰原は一つの空想を思い描く。



…自分たちが眠る泡沫うたかたの夢の合間でも。

…たとえそれが記憶に残らない出来事であろうとも。



その夢の世界に最上や雨崎、そして自分たちの姿があることを灰原熾凛は秘かに望む———。

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