21.「ディボルグ Ⅶ 」


 つい数十分前まで砂煙に包まれていたグラウンドには濃い白煙はくえんの塊が鎮座しており、風に吹かれても崩れることのない重圧な煙は白煙の牢獄ともいえる強固さを誇り、閉じ込めた者の感覚を鈍らせていた。


「…はっ…はっ…」


牢獄にある影は三つ。そのうちの一つは頭の突き出たシルエットが印象的で、白煙の中で絶えず動き回っている事から他の影と比べても一番目に付きやすい影であった。


「‥‥」


そして、その影に反応するように蠢くのは歪で大きな影。

他の二つとは異なる形状をした影は無作為に腕や尾を振るうことで白煙を掻き乱していたが、白煙の牢獄は一向に形を崩す気配はない。


「———————」


白煙の中で二つの影が各々行動を起こす中、三つ目の影は手に棒状の物を握りながら白煙に紛れて息を潜めていた。その視界には常に歪な影を捉えており、煙の中を漂うように歪な影へと接近する。


一歩…一歩…と徐々に距離を詰め、やがて音も気配も感じさせぬまま歪な影の元へと流れ着くと、手に持っていた棒を振るい柄頭えがしらに付いた黒鳥のくちばしを食い込ませると、影は再び煙となって消えていった…。


「※◇▼△…◆◆——————————————!!!」


憤慨ふんがいの咆哮が牢獄の内で鳴動する。






「————も、最上もがみさん、落ち着いてください」


赤・白・黄色…と色とりどりの煙の花を咲かせ続ける最上秀昇ひでたかの背に手を当てながら進藤岳人がくとはある事を尋ねる。


「では、最上さんは撹乱かくらん、僕が攻撃という役割にしましょう。

それと…一つだけ確認したいことがあるのですが…」


「ん、なんだ」



「その…粉末化させたチョークは最上さん自身や他人に悪影響を与えますか?」



‥‥所持者が【MLマテリアル】に干渉できる範囲の制限。【RsランクスキルLvレベルと創造時に付与される資源リソースの関係など「神様ゲーム」は事前に開示される情報が少なく謎が多い。


創造/想像イメージ】力で【ML】から武器を創り出す…というゲームらしい一面もあれば、所持者が【ML】に干渉する範囲に制限が掛けられているなど妙に現実的な面があり、二つの面を分ける境界の線引きが曖昧な事から進藤自身も明確に理解していない点が多い。



…しかし、そうは言っても「神様ゲーム」が始まってから二日。


後々説明があるとは思われるが、そういった重要な情報は出来る限り早めに開示されなければ困る事もある。

「知らない」という理由だけで簡単に死と直結する世界ならば、この問題も早い段階で確認して知っておかなければならない。



そして、昨日と今日の戦闘から進藤が抱いた「神様ゲーム」の問題点。

それは「【ML】・【Rs】の影響を所持者本人と他の生徒も受けるのか…」という点である。


 これは昨日と今日の戦闘を比較すると分かる事だが、「神様ゲーム」における〈ゲーグナー〉との戦いは個人戦ではなく団体戦が多い。

ましてや今日のようなゲーグナーと生徒が入り乱れる乱戦状態であれば、自身の攻撃が誤って他人に被弾してしまう…という事態が出てきても何ら不思議ではない。


もしも、その事態が生まれるのならば、それは「神様ゲーム」そのものを崩壊させる要因となってしまうのだが…。



「そうだな、少し視界が悪くなる以外は特に…。

まぁ、吸っても咳き込まないってのに妙な違和感があるぐらいだな」


「…視界だけ、ですか」


————どうやら、そのような事態は事前に回避されているようですね…。


「…でしたら問題はなさそうですね。

最上さん、一つ作戦があるのですが宜しいでしょうか?」




「味方の【Rs】の影響はある程度は受けない」という情報を聞いた上で進藤が立てた作戦。


それこそ粉末化させたチョークを煙幕に代用した白煙の牢獄であり、無限に複製できる…という最上の【Rs】を利用したものである。


多重に張られた白煙の牢獄にディボルグを閉じ込め、チョーク独特の匂いと煙の濃密さで対象の感覚を鈍らせながら、おとり役の最上がディボルグの気を引き、戦鎚を持った進藤がディボルグに攻撃を与え、徐々にダメージを与えていく…。


これが主な作戦の内容に当たるのだが、それでも牢獄内で発生する白煙の視界不良は最上と進藤の視界も低迷させてしまう事から、その対応案として最上はディボルグに赤チョークの粉末を付着させることを提案する。


これにより付着させた赤チョークの粉末を少量ずつ複製させれば、白煙の牢獄内でもディボルグの位置を把握できる目印として作用するだけではなく、囮役の最上と攻撃役の進藤の二人にとっても大きな利点となり得る…。






「———、———」


作戦を開始してから二度目の攻撃を終え、白煙に身を隠していた進藤は再び呼吸を整える。


空気を白に染め上げられたこの環境下では気流の流れが眼に見えてしまう為、呼吸だけでディボルグに居場所が感知される可能性がある。そのため普段通りの呼吸が出来ず、動きも大きく制限されてしまうのだが、それでも失敗さえしなければ確実にディボルグにダメージを与えられる利点メリットは大きかった。


「…はっ———はっ———…」


その一方で、荒い呼吸が目立つ最上の気配は進藤でも容易に察知できた。身体の疲労も限界を迎えているはずなのだが…男の足は一度も止まる事は無く、見事に囮役をこなし続けていた。


「◇◆!!」


ガガガッ…と地面を削る足の音と短い咆哮が聞こえ、その身に付着した赤い薄煙と歪な影の動きを確認してから進藤は三度目の攻撃に向けた進撃を開始する。


「———、———…」


呼吸を小さく整え、慎重に足を踏み出してディボルグとの距離を詰め始めると、進藤の視界が一気に曇り始める。


「‥‥」


それでも進藤が動きを止める様子はない。

急な視界不良はディボルグから流れてきた白煙によって煙の濃度が濃くなったため。


…そう事を理解していた進藤は特に心を乱すことなく、淡くなってしまったディボルグの影と目印の赤い薄煙を目指して進撃を継続する。


「…?」


しかし、そこから数歩踏み出したところで進藤は違和感を抱き始める。

それほど時間が経ったわけでもないが、歩み続けても濃い白煙の波から抜け出せないのだ。


——————これは何かの偶然か…。


そう疑問を抱きながらも進藤はディボルグの位置を再確認する。

足音は無く、視界不良のため薄れてはいるが付着させた赤い薄煙や歪んだ影に動きはない。先程の咆哮から推察するに、単純に怒り狂って大規模な攻撃をしただけ…と仮定できるが、実際に自分の目で見てみなければ真実は分からない。


「———、———」



そして、進藤は進撃続行を決断する。

目標が、これは紛れもなく好機であり、彼の努力に報いる機会でもある。


既に限界を迎えている彼の体力をかんがみても恐らくこれが本作戦最後の攻撃となるだろう…。


———————だからこそ、ここで決めなくては…。


…その使命感こそが彼の足を再び進めさせた主な要因にあたる。

しかし、その中には「昨日の失態を挽回したい」という思いが隠れ潜んでいるのだが、この環境下にいる男にそれを知る術はない。




‥‥白煙の牢獄。

それは亜種体ディボルグに対抗すべく進藤が打ち立てた作戦ではあり、囚われたディボルグの感覚は狂わされ、二度の攻撃を無事成功させていた。

まさに進藤岳人の作戦は功を奏したともいえるのだが、この作戦の欠点に気付けなかったことが進藤の命運を分ける事となる———。




「————…っ」


あと少し…と右手に持った鎚の柄に左手を掛けた瞬間、背後から熱風が覆い被さる。


反射的に進藤は手に持った鎚の柄を盾に変換しながら振り返るが、その視界が背後からの煙の流動を捉えた時点で正体不明の攻撃が進藤を襲う。



バギンッ‥‥!



盾への変換が終了せずに攻撃を受けた創造物。

それは盾としての効力を発揮することも無く容易に砕かれ、更には振り返る動作の合間に攻撃を受けたことで身体の側面から全身へと衝撃が伝播でんぱする。


「がっ…あ…」


初めに防御した右腕が折れ、攻撃の勢いに押された肘が肋骨に食い込み内蔵を圧迫する。


骨は軋み、衝撃に耐えきれなかった骨は内部から崩壊。…折れた骨が内臓を破裂させるまであと僅か————というところで、右肘が脇腹を抉るように滑り流れ、進藤の身体は牢獄の外へと吹き飛ばされていった。





…———進藤岳人の見過ごした作戦の欠点。

それは周囲を白一色に染め上げた「白煙の牢獄」という閉鎖空間にいることで発生する冷静さの欠如であった。


それらは閉鎖空間にいることで発生した精神負荷により熱の籠ってしまった本能の反発によるものであり、時折訪れる濃霧の目隠しが其れを助長させたのである。


理性と本能で一致しなければ、人間の中の「自分」はずれてしまうもの。

自分の命が掛かった状態で閉鎖空間に身を置き、呼吸すらも自由に出来ない不自由な状態が続けば精神への負荷は計り知れないものとなる。、呼吸が乱れてまともに動く事すら出来ず、人によれば発狂しても不思議ではない状況とも呼べる…。


 それでも進藤はそれらの欠点を理解した上で作戦を実行した。

それは例え欠点があったとしても「自分であれば乗り越えられる」という確たる自信があった為で、現にここまで進藤は一度もディボルグの反撃を受けることなく二度の攻撃に成功した。それは十分に立派な成果を出したと言っても過言ではないだろう。



…では、なぜ進藤岳人は失敗したのかと問われれば、進藤岳人は常人以上であってもただの人間であった———というだけ話である。





だが、真に恐るべき抜群に高いディボルグの戦闘の才である。


対峙した相手の動きを取り入れ、戦いを経るたびに向上する戦闘技術。

本能的なものだけではなく、経験を積んだことで飛躍的に上昇した直感の鋭さ。

この世界に現れてから数時間と経っていないにもかかわらず、亜種体ディボルグの成長は著しいものであった。




~~~~~~~~~~~~~・・・~~~~~~~~~~~~~~~~~




「—————…◇」


白煙の牢獄に囚われた当初、ディボルグは白煙を掻き消す事にのみ意識を注いでいたが、戦鎚による二度目の攻撃を受けたことでディボルグは新たな行動に移る。


「‥‥◇◆!!」


一体どのような経緯かは分からないが、突如その場から跳躍したのである。

「腕や尻尾でのぎ払いといった横の攻撃が通じないならば、縦からの攻撃はどうか…」と、思考したわけではなく、それは如何なる雑念も介入しない直感である。


「‥‥」


その跳躍は容易に白煙の牢獄を突き抜け、その身は地上十mの高さに到達する。

眼下には一点の穴が開いた白亜の雲が鎮座し、渦巻く煙が開いた傷口を塞ぐように牢獄の屋根を編み始めていた。


「◇◇」


跳躍が終わり重力に従った落下が始まると、ディボルグは背後へと身を反らす。

宙にもたれるように倒れる頭部の動きに合わせ、弾みをつけた尻尾が空へと向き始める。


戦鎚の攻撃によって背部と腹部の装甲は砕かれたが、それによって本来のしなやかさを取り戻したディボルグの体は頭部、尻尾、頭部、尻尾‥‥と交互に重心を入れ替えながら落下し、幾度もの回転を経て振るわれた尾は白煙を深く穿うがつ事となる。


…それが着地点にいた男に偶然直撃する事となったのは、視界不良の中で進藤が地面から噴き上がった歪な砂煙と滞留した薄紅色の残影をディボルグだと誤認していたためである。




~~~~~~~~~~~~~~・・・——————————————————




「———————…はぁ…はぁ…」


自らの【Rs】によって発生させた白煙の牢獄の中、ディボルグに付着させた赤い薄煙を中心に最上は周回を続けていた。


———————《走り続けること》《攻撃は避けること》


この二つを自らの身体に言い聞かせながら囮役に徹する最中、短い咆哮と共に視界にもやが掛かり始めた事で最上は気を引き締め直す。


「‥っ‥」


視界の靄はディボルグが行動を起こした合図。

すぐさま最上は目印の赤い薄煙に視線を移すが、こちらに目印が近づく様子はなく、むしろ遠ざかるかのように目印は消えかかっていたのである。


「?」


薄れていく赤煙に最上は違和感を抱く。

視界に靄が掛かった瞬間、最上はディボルグに付着させた赤チョークの薄煙の複製量を僅かに増やしているため最上の位置からはディボルグの位置が容易に把握できる。


ただし、それはあくまで「ディボルグが自分の方へと接近していること」が前提となるため、赤煙が薄れていく‥ということはディボルグが進藤の方か、または違った方向へと進んだことになる。


「‥‥どこだ」


いつ現れるかも分からないディボルグを警戒し周囲を見回すが、誰の足音も聞こえず気配も感じられない。

手でもやを振り払おうと試みるが、その程度で煙が晴れるはずはなく…やがていつまでも滞留する靄に最上が疑問を抱き始めた頃に異変は起きた。



バギンッ…。



何かが割れたような音の後、最上の真横を何かが通り過ぎる。

まるで弾丸の如く飛んでいった飛来物は白煙を大きく裂き、難攻不落であった白煙の牢獄は二つに裂かれ、崩壊を始めていたのである。



「ぃ…」


そして、最上は確かに見た。

自身の真横を通り過ぎた飛来物…それは煙の中で息を潜めていたはずの進藤岳人の姿であった。


「進藤っ!」


白煙を切り裂き、校舎とは正反対の方向へと飛んでいった進藤は地面と平行に宙を滑る。やがて高度を落とし始めた身体が地面に触れた瞬間、石切りのように土の運河を数回跳ね、ようやく肉体は動きを止める。


「…」


…倒れた進藤は手足一つ動かす様子はない。


離れた場所に立つ最上には、その意識の有無すら把握することは出来ず、駆け寄りたくとも後方に控えるディボルグがそれを許してはくれる保証はない。


「◇◆——————————!」


…ところが、崩壊した白煙の牢獄から現れたディボルグは最上の予想とは裏腹に天へと咆哮を轟かせていた。


それは歓喜の咆哮か…目の前でたたずむ自分には目もくれず、勝利の雄叫びを上げるディボルグの余裕のある様子を見た最上は大きな誤解に気づく。




 そもそも視界不良とはいえ、なぜ亜種体ディボルグを前にした自分が無傷でいられたのか…。


 なぜ、ディボルグの攻撃を一度として避けることがなかったのか…。




それはディボルグにとって、先程までの戦いが最上と進藤の二人との戦いではなかったため。つまりは白煙の中での戦いが全てであったのならば、その行動にも納得がいくものがある。白煙の中で行われたディボルグの攻撃は囮役である自分を狙ったものでは無く、ただ煙を払っていただけに過ぎなかったということになる。


「…のやろぉ…」



…初めから最上は敵や獲物として見られてはいなかった。

確かに最上には進藤のように戦闘向きの【Rs】も、梶原のように卓越した戦闘技術もなく、ディボルグからすれば、万に一つにでも己が目の前の弱者に負ける道理はない…と、そう理解していたのだろう。


「舐められたもんだな…」


…であれば、答えは至って単純なもの。

あの調子づいた獣に最上秀昇という存在を教え込んでやればいい。


身体はボロボロで勝算は全くと言って良いほど無いが、これは梶原と進藤が命懸けで繋いできたたすきが自分の所にやって来ただけ———たったそれだけのことに何をおくする必要があろう。


ただ自分はたすきを受け取って走り続ければ良いだけなのだから…。




「…◇?」


コツン…と頭部に当たったチョークに首を傾げながらもディボルグは男へと視線を向ける。


「やっと…こっちを見たな」


投げ終えた姿勢で最上は初めてディボルグと目を合わせる。


劇場で聞いた話とは違い、目の色は白。

梶原を救出した時よりも体長はやや縮んでおり、進藤の攻撃によって砕かれた腹部と背からは黒い毛のような肌が露出している。

そして、手足に生えた鋭利な爪、頭部から生えた巨大な刃と尻尾の先に付いた大筒…。



見るからに戦闘に特化した武具を携えた亜種体ディボルグと自身を比べ、両者の間に開いた圧倒的な戦力差を理解しながらも男はこう述べる。



「そいつは果たし状の代わりだ。ここからは…俺が相手に


そう言って進藤へと背を向けた男はディボルグに向けて走り出す。


…今一度言うが、最上秀昇ひでたかに勝算はない。

主だった武器は無く戦闘技術も無い上、体力は既に底をつき、もはや策を巡らす知力すらも残ってはいない。


ゲーグナーとの乱戦、怪我人の救助活動に加えて梶原の救助に進藤との共闘…と、若返ったとはいえ、これらの行動で蓄積された肉体的・精神的な疲労は十代後半の一般男性が耐えられる容量ものではない。



…ここで膝を突き、為す術もなくディボルグにやられたとしても、誰も彼を責める事は出来ないだろう。なぜなら人としてのはかりで見れば、それが許されるほどに彼の為した功績は大きく、偉大なものであり、間接的に彼を追い詰めてしまった彼らにそのような事を言う資格はないからだ。


それにもし彼が倒れてしまったとしても、それが多くの人を救った英雄の最期‥となれば、彼の名誉ある死に多くの者は心打たれ、拍手喝采を迎えながら英雄たんは幕を閉じるだろう。



しかし、そのようなことは絵空事えそらごとの英雄譚でしか起こり得ない。

どれほどの偉業を為したものでも「人」である以上は窮地きゅうちに追い込まれれば足掻あがき、長く生きようと無様をさらすもの…。


観客が飽きて帰ってしまうほどに果てしなく続く無様な喜劇は、最後の観客が帰った途端に終わる一人劇…いや、一人稽古として終わりのだ。



「うらぁっ!」


投げ込んだチョークから濃い煙幕を発生させ、走り出した勢いのままに最上は飛び蹴りを仕掛けると、再び視界を奪われたことでディボルグは為す術もなく攻撃を受ける。


「‥‥」


進藤の攻撃によって装甲を失い、体が縮小したためか…その身は軽々と地面に倒れるが、尻餅しりもちをついた程度でダメージはない。


そして何事もなかったかのように、するり…と起き上がると、起床後の準備運動でもでもするように軽く尾を振って羽虫を払いのける。


「ふぶっ!」


避ける間も無くディボルグの攻撃は最上に直撃する。

幸いにも当たったのは尾先の大筒ではなく、尾そのものであったため半身の粉砕骨折は免れたが、払われた最上の身体は軽々と打ちあげられていた。


「…ゔ…」


少しだけ宙に浮いた体が地面に打ちつけられた瞬間、バチン…と風船のような破裂音が脳内で響き、疲労による極度の頭痛と吐き気をともな倦怠けんたい感が最上を襲うが…、


——————《あきらめるな…》


その言葉を胸の内で唱え、男は立ち上がる腕と足に力を籠める。


「もう無理だ、止めてくれ」と細胞の全てが叫んでいるような感覚に陥りながらも細胞全てに残った力を絞り出すように身体を起こす。


「はぁ——‥——はぁ——‥——」


今にもし潰されてしまいそうなほどに切迫した呼吸を繰り返しながら何とか立ち上がると、再び男はディボルグへと駆け出し、ディボルグへと拳を振るう。



「ゔゔゔゔ…ゔあああっっ!!」



それは叫びでもなければ気合の掛け声でもなく、言葉にも出来ない…ただの悪あがき。


振るう拳の一つ一つは最上の全身全霊を込めた魂の一撃である。

しかし、もはや狙いを定めることすらままならないのか‥度々たびたびディボルグの硬い装甲に拳をぶつけては皮膚がけ、内と外で出血を起こした拳は赤黒く染まる。



ぴちゃ、ぴちゃ…と男の拳から跳ねた血は地面に不格好な水玉模様を描き、未だ乾ききる前に重ね塗られた赤の水玉は更にの不格好さを大きく目立たせていた。


「…ぅぅぁぁぁああああっ!!!」


…ようやく拳の動きが止まったかと思えば、男は最後に装甲の無いディボルグの腹部へと膝蹴りを決めたのだが、…そんな男の足掻きなど意にも解さず、何の感情も抱かないままディボルグは男の身体を切り裂くのみであった。


「‥‥あ‥‥」


その腕の振りに合わせて体中の電源を全て落とされてしまったような感覚に陥り、男はおかしな声を上げる。


そして、空へと飛び立ったように視界が上へ傾くと、いつしか身体は仰向あおむけに倒れていた。


「‥‥」


何かが頭に当たった気がしたが、不思議と痛みはない。

それどころか電源の切れた身体は言う事を聞かず、眉の一つも動かすことが出来ない。


やがて何やら生暖かいものが自分の胸から背中へと流れ、背面で徐々に広がっていくのを感じ取ると身体は妙なを覚え始める。


こそばゆい…といっても、それは身体中を掻きむしりたい…といった感覚とは異なり、両手で自身を抱いて擦りたい…という寒気を感じた時の感覚に近いものがある。


おそらく、それは体の内と外で異なる温度を感じているためであるが、流れ出るものが適度な温度を含んでいるせいか‥恐ろしいまでの眠気が男を襲い始めていた。



ギシャリ…ギシャリ…



「・・・」


僅かに残った聴覚が地面を削る音と固い装甲の擦れる音を拾うが、もう男の体は動かない。辛労に辛労を重ね、大量の血を流して倒れる男の身体は今にも朽ち果てそうな様子であった。


「・・・ごふっ」


そのとき思わず咳き込んだことで偶然にも視界が開く。


その僅かに開いた暗く狭い視界で男の目が捉えたものは、空であった。



…快晴の空に漂うのは一片の雲。

…風にあおられれば今にも消えてしまいそうなほどに小さな雲。


たったそれだけの何の変哲もない風景であったが、今まで幾度となく見上げてきた空は歪んだ男に始まりの呪文を唱えさせることとなる。




【————《 ぼくはね あきらめなければ なんでもできるんだ 》————】






「…?」


背後から異様な気配を感じた途端、獣の体が動きを止める。

それはディボルグ自身の意志によるものではなく、ピクリ…と尾の先から伝導した痺れによって体が自動的に停止したもので、その感覚は大男との戦いの中で感じたものと類似するものがあった。


「…◆」


そして、ようやく背後へと振り返った直後に獣は殴り倒されていたのである。

当然、殴られたこと自体は大した事ではないのだが、背後に立っていた存在を目にすると、獣の中で驚きと焦りの混ざった複雑で不明瞭な感情が芽を出し始めていた。




…これまでのディボルグから見た最上秀昇という存在は、今までの相手の中でも貧弱な力しか持たず軽くあしらう程度で淘汰とうたできる者…と捉えていたのだが、自身と相手の力量の差も理解できない上、最上が無意味な攻撃を仕掛け続けたことを見限ったディボルグは、結局自らの手で止めを刺したのである。



「※…◇▼?」


しかし、獣は知らなかったのだ。

自分が相手にしていた存在が、どのように生きたのか。

…————————いや、どれほど恐ろしい生き方をしてきたのかを…。



「—————。」



獣の前に立っていたのは最上もがみ秀昇ひでたか

緋色の髪で編まれたリーゼント頭が特徴的で、自己よりも他人を優先する優しい男。

肝心な場面で不運に見舞われることもあるが、決して他に責任を転嫁てんかしない真面目な男。

そして一言で言い表すならば、男である。


…だが、そこに具体的な説明を加えるとすれば、その諦めの悪さは本人の精神的な持久力や頑丈さに由来するものでも、辛い出来事や幾多いくたの苦難を乗り越えた事で得た蓄積による屈強な精神力でもない。




…その根底にあるのは、常軌じょうき逸脱いつだつした自己暗示能力である。



 本来、自己暗示とは一時的または中期的な思い込みによる精神面の向上・維持による潜在能力の覚醒であるが、最上の自己暗示は習慣化され、確立した思い込みであり、毎日行う歯磨きのように日課の一部となったものである。


…ここまで聞けば、それは素晴らしいものなのかもしれないが、長期的に度を超えた力の行使が続けば人間に備わる怠惰たいだと強欲が其れを鎮静化させようとするもの。


それでも休息を与えられなければ精神は崩壊し始めるものなのだが、最上は崩壊する精神すらも凌駕するほどの自己暗示…否、呪いの力を手にしたのである。


《あきらめなければ 何でもできる》


それは生前の彼が幼少時に出会った一冊の絵本から見出し、彼の数奇な人生の中で育て上げらた呪いの言葉。


あきらめない男…最上秀昇とは不可能を可能にする男ではなく、不可能を可能へと捻じ曲げる男であり、狂人的な自己暗示による意志命令の体現化こそが最上秀昇の根源ルーツである。





「ゔゔゔゔああああっ!」


倒れたディボルグに馬乗りになり、人のものとは思えないほどの声を上げながら男は潰れた拳を振るい、ミシッ…と骨が砕けるような音が出ていても拳が止まる気配はない。


「◇◆…□!」


潰れた拳、切り裂かれた身体…。

そんな壊れた身体になっても殴るのを止めない男の姿は、獣の目にはどう映っていたのかわからない。


…だが、そこで初めて獣は男の攻撃を拒む。

今まで敵とも思わなかった男を急いで体から引き剥がすと、間髪入れずに刃の爪を男の身体へと突き刺したのだ。


「ゔぐ…」


爪が皮膚を押し裂き、筋肉を断って、内臓を突き貫く。

そして爪が背面へと突き出ると、男の身体は強力な電流を流されたように痙攣けいれんして動きを止める。


「□…◇※‥‥」


息を切らしたような声を上げながら獣は素早く爪を引き抜き、倒れた男を見ながら僅かに後退する。


その行動の真意は男の攻撃に怯んだからではない。

取るに足りない貧弱な存在であったはずの男がまとう奇々怪々な空気に獣が「恐れ」を抱いたからである。



…かつて獣は麗人との戦いで「死」の感覚を抱いて敗走したが、この「恐れ」は死を予期したものではない。

人の意志に気圧けおされた事による「緊張」であり、それこそが先程感じた不明瞭な感情の正体であった。



「◇…◆!」


けれども、それを解する知性は獣には無い。

ただ目の前の外敵を討ち滅ぼさんとする戦闘本能に従い、獣は男との距離を取ると両腕を地面につけて大筒の砲身にエネルギーを収束させ始める。


そこに今までとの違いがあるとすれば、この砲撃は怒りによるものではなく、確実に敵を殲滅せんめつするために放つ必殺の一撃であり、麗人に破れた亜種体ディボルグが放つ最大にして最強の砲撃である。



——————《あきらめるな》…《あきらめるな》・・・《あきらめるな》



砲身に集まる熱源を見据えながら貫かれた身体を起こして男は進む。

切り裂かれた上半身や貫かれた腹部からは大量に血が流れ出ており、このままでは命に関わる状況であったが、それすらも気にも留めず男は暗示を掛け続けていた。



「◆◆———————————!!!」


獣の叫びと共に銃口から巨大な火球が放たれる。

そのあまりの熱量に砲身は焼きつぶれてしまったが、それを犠牲にしてでも放たれた直径3mの巨大火球は決して避けようのない攻撃であった。



「あきらめて…たまるか…!」


血を吐きこぼしながらおぼれるように言うと、男は迫り来る巨大火球に向けて最後の拳を振るった。



…小さな太陽とも呼べる灼熱しゃくねつの火球。

触れたもの全てを焼失させるほどの熱量を有した獣の砲撃を防ぐ術はない。






…―――――だからこそ、それを断ち切る者が現れるとは誰も予想は出来なかった。





「な‥‥」


自身の目を疑った。目前まで迫っていた強大な火球が二つに両断されただけではなく、目の前に剣を握る男の姿があったのだ。


「…待たせたな。最上」


燃え立つほむらのような髪に純粋な黒い瞳。

固い話し方でありながらも少年のような笑顔を見せる男の登場に最上の目からは思わず涙がこぼれていた。



…自分の命が助かったからではない。

紅葵もみぎ蒼が倒れた事で精神的に塞ぎ込んでしまった男、灰原熾凛さかりの再起を信じて走り続けた自身の思いが報われたことに男は涙したのである。



嗚呼。信じる事を、あきらめなくて良かった…と。



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