18.「ディボルグ Ⅳ 」


バリンッ‥‥!


第一校舎二階に下りた直後、脳内に流れ込んできた声と校舎に伝わる微細な振動を感知した男は思わず廊下の窓ガラスを破壊していた。




「…何を…」


振動を感知してから窓の破壊に至るまでの手際の良さに思わず笑ってしまいそうになる。


とっくに忘れ去っていたと思っていた自衛の習慣がこんな形で再発したことに彼自身も不意を突かれていたのだろう。砕け散った窓ガラスの破片をしばらく見つめていると、焦げた土の匂いが男の正気を現実へと戻す。


「‥‥あれは…」


…割れた窓から見えるのは噴き上がる砂塵により茶色く曇りがかったグラウンド。

そのため他の生徒の姿は見えず〈ゲーグナー〉の姿も確認する事ができない。


「‥‥」


———〈ディボルグ〉、【飛行能力】。

———そして、食堂からの脱出とグラウンドへの降下…。


先程聞こえた(いや、流れてきたと言うべきか…)麗人の声から情報をまとめ、男は壊した窓ガラスから距離を取る。

そしてある程度の距離を取ったかと思えば勢いよく前進し、



「———————…」


…着水するかの如く綺麗な放物線を描いて窓から身を投げた男は真っ逆さまに地面へと落下する。


けれども、その顔には恐れも焦りもなく冷静に自らの【ML】を現出させていた。


木の板に鉄の四足。

更には物入れにフックまで付いたそれを地面に突き立てるように構えて板上に身を預けると【ML】は殻を破るようにその外皮が結晶化し始める。


木と鉄の材質を持ったそれは男の【創造/想像イメージ】に従って形を変え、【Rs】に属した創造物へと変化する。


持ち主の望むままに形と材質等を変更する事ができる想像力の具現化…「創造」。

想像力が武器となる「神様ゲーム」ならではのシステムであるそれは知識、技量、力…と使い手次第でありとあらゆる可能性を導き出す。


「‥‥っ!」


創造物と校舎の黒壁が接触し火花が乱れ咲く。


金属と石壁が互いを削り合い、キリキリ…と音を立てながら男は着々と落下への道を進んでいく。グラウンドへ向かう最短ルートを選んだ結果…男はこのような行動を取る事になったが、その心中に僅かながらの悪戯心があったのは言うまでもない。



窓からグラウンドに向かう——という学生当時であれば決して出来なかったことが今ここで果たされているのだから…。



「…っ」


地面との距離が迫る。

短い距離のため落下の速度が完全に無くなる事はなかったが、着地に支障が出ない程度に軽減することはできた。


「よいしょっ」


地面との距離を測り、創造物を【ML】ごと消失させると同時に男は壁を強く踏み蹴ると、宙返りをしながらも姿勢を崩すこともなく男は華麗に着地を成功させたのであった。


「…!」


地上に降りたことでより濃くなった焦げ臭さと多数の人の気配を感じ、体勢を整えた男はすぐさま砂塵の山へと駆けていく。


これ以上、見知った者を死なせないために…—————。





——————————————・・・————————————————





『緊急連絡————ディボルグが———飛行能力———グラウンドに降下…』


ガチャガチャ…と鎖と南京錠による金属音が廊下に鳴り響く。

腹を撃ち抜かれた薄紫うすむらさき淑女しゅくじょをかかえて保健室に向かう道中、突然頭に流れ込んできた麗人の声に最上もがみは足を止める。


「…ん。何だこりゃ…」


「…天の御声みこえ…でしょうか」


「んなわけあるかよ。…というか腹撃ち抜かれたのによく喋れるな…」


「あぁ、これはですね…」


「いや、やっぱいい。怪我人は安静にしてろ」


「くふぅ…」


食い気味に会話を切った最上に淑女は頬を赤らめ生暖かい吐息を吹く…。

腹撃ち抜かれたにもかかわらず流暢りゅうちょうに言葉を返す彼女に思わず最上は会話を続けてしまいそうになっていた。

アドレナリンだとか…そのあたりの脳内物質が出ているためだろうと、彼女が怪我人である事を改めて自覚し直すことで最上は保健室へと急ぐが…落ち着く間もなく訪れた震動が再び最上の足を止める。


「何が起きてんだ…」


彼女の身体をかかえ直しながら最上は異様な緊張感を抱き始める。


校内に現れたという亜種体ディボルグ。

そのたった一体の生命に脅かされ、翻弄ほんろうされゆく生徒や教師陣。


「これから自分たちが何と戦うことになるのか…」と最上秀昇ひでたかは自らが立つ場所、そして自らがこれから歩む道に初めて不安を抱き始めていた。


最上もがみさん」


「…あぁ、すまんな」


抱きかかえた薄紫の淑女に呼び掛けられた最上は、我に返り保健室へと向かい始める。


グラウンドからマンション前。そして校舎の谷を越えて第一校舎の玄関をくぐったところで不意に最上は淑女に質問を投げかける。


「‥‥ん? そういえば何で俺の名前知って…」


「まあ、これは失礼を…。

わたくし、Aクラスのバナティ=カウラ=レチョフ…と申します。」


「バナ…?」


「ふふっ。好きなように呼んで頂いて構いませんよ」


「…」


どこか上から目線でありながらも決して不快には感じない。

まるで年上の女性に小馬鹿にされている時のような上手く掌で転がされているような気もしたが、その不思議な魅力を秘めた眼からはそういった人間味を感じることはできない。


「実は私、魔法使いなんです。」


…と言われても信じてしまいそうなほどの謎のカリスマ性を持つ彼女、バナティなにがしという存在は教祖や教会の女性神父、巫女といった常人とはやや異なる役職が適任と思われるような雰囲気を作り出していた。



「着いたぞ」


…ようやく目的地へと辿り着いた最上。


両手は塞がっているため不作法ながらに足で保健室の扉を開こうとすると、タイミング良く保健室の引き戸が開き、白衣を着込んだ麗人が姿を現す。


『ありがとうございます、最上様。どうぞこちらに…』


「…お、おう」


その顔を見て最上は改めて麗人の美しさを再認識する。


普段の依然とした美しさとは異なり、どことなく気落ちしているようにうつむく彼女の顔に奥ゆかしさを感じてしまっていたのである。


もし、そんな表情で傘も差さず雨粒にその身を濡らしていたならば駆け寄るより先に写真機カメラを探してしまいそうな…人の善性すらも忘れさせてしまいそうな危うい美しさを持つ彼女を前にした最上は、再び自身の心の帯を締め直すのであった…。


「急患だ。腹を撃ち抜かれたらしくてな。すまんが、彼女のことを頼んでも…」


『はい、後はお任せ下さい』


慎重に淑女をベッドに寝かせ、事情を説明した最上はグラウンドに戻ろうと保健室の入口へと足を伸ばす。


「最上さん」


「…どうした」


すると、ベッドに寝かせた淑女バナティ某に名を呼ばれ、最上は思わず足を止めてしまう。その魅惑的な声色にあてられたこともそうだが、そこはかとなく寂しさのようなものを感じてしまい反射的に振り返ってしまった…というのが、もっともな見解と言える。



「ここまでありがとうございました。どうかお気をつけて…」



「…———————」



【—————その哀愁に満ちた声と言葉に最上の視界には別の風景が映り込む。


降りしきる雪の中、月日を経た冬用の制服に身を包んだ彼女が緋色のマフラーに沈み込むように縮こまる。


寒い時期にもかかわらず短く切られた彼女の髪がマフラーからやんちゃにはみ出す姿に男が気を取られている合間…蕾が膨らみ始めた桜の木を見上げていた彼女は男の目を見据えながら言葉をつづる。



『…今までありがとう。身体に気を付けてね、最上さいじょう』—————】




「————あぁ、お前も…死ぬんじゃねぇぞ」


知らずにそう返答していた事に気が付いたのは最上が保健室の扉を閉め切ったあとのことであった…。




『…では、怪我の治療を始めましょうか』


最上秀昇が去った後、白衣に身を包んだクラウンはベッドに横たわる淑女に向き直り、最上が巻き付けたであろう制服ブレザーを慎重にほどき怪我の具合を測りに掛かる。


何かしらの医療的知識があるのか…それとも偶然なのかは分からないが、彼のこういった処置にクラウンは素直に感心していた…。





~~~~~~~~~~~~~~~・・・~~~~~~~~~~~~~~~~




〈———頼む! こいつを助けてやってくれ!!〉


…昨日の〈ゲーグナー〉襲来の際、腕を切断された生徒を背負って運んできたのが最上秀昇であった。


『少し前に聞いた声の人だ…』と思いながらクラウンは最上の元へ向かう。


【ML】争奪戦の終了間近に訪れたBクラスの梶原宗助。

彼と共に保健室前まで来ていた男子生徒が最上であったことを彼女は理解した。


『…急いでこちらに』


肘と手首の中間辺りから腕を切断された男子生徒はショックで意識を失っていたが、切断面は大量の氷が入った袋に浸っており、傷口付近は出血防止も兼ねた二本のベルトできつめに固定されていた。


『…ツヴァイ…』


切断、という傷からクラウンは武装体〈ゲーグナー〉ツヴァイの姿を思い浮かべ、『恐らくはツヴァイの習性を学ぶ前に対峙してしまったのでしょう…』と怪我に至るまでの経緯を予想しながら表情を曇らせていた。


彼女の行う「治療」は身体の時を戻す‥といった規格外のものではなく、その一端は対象の自然治癒能力を驚異的に高めることにある。

もちろん傷の再生も不可能ではないが「零から壱を創る」事と「一から二を造る」のは大きく異なるもので…この生徒の完治には大量の時間を要することが予測された。


『…分かりました。あとは…』


意識のない男子生徒をベッドに寝かせる彼に言葉を掛けようとすると、彼は手に持っていた箱を差し出してきた。


「それと‥こいつの片割れだ! 後は頼む!」



がらがら…と音を響かせながら差し出された直方体の箱。


それは「家庭科室」にあるはずのクーラーボックスであった。



『…あ、ありがとうございま…』


それを受け取った彼女がお礼を言い終える間も無く彼は保健室から去っていた。そこからせわしなく廊下を鳴らす革靴の音が無くなる頃、ようやく麗人は我に返る。



————なぜ、彼が「家庭科室」の場所を知っていたのでしょう…。


彼女は思案する。


まだ「神様ゲーム」が始まってから【ML】争奪戦、授業…とそれほど時間は経っていないはずなのに、なぜ彼は家庭科室の場所とそこに在る物の場所を正確に知っていたのか…。



『(…そういえば、一人だけ異様に【ML】登録の早い生徒が…)』


クーラーボックスのロック部分に手を掛けながら彼女は一つ思い当たる節を見つける。


もし彼が最初に【ML】を登録した人物で、争奪戦の間に校舎内を探索していた…という事ならば辻褄つじつまも合う。




早期に【ML】を決定し、校内の探索を行う事で戦場の環境を把握。

そして切断された腕の完璧な応急処置を施した上に——————…


〈こいつの片割れだ! 後は頼む!〉


‥‥そう言って突き出した彼の腕には浅い切り傷が刻まれていた。


「切り傷」。

つまり、それはツヴァイの斬撃によって受けた傷であると考えられる。

ツヴァイの特徴としては攻撃範囲内にいるものには攻撃し、それ以外には関心を示す事は無いのだが…残念な事に生徒達はその情報を知り得ない。


腕を切られた男子生徒もツヴァイの特性を知らずに接近し、初撃で腕を刈り取られてしまったのだろう。


ただ、ここで生じる疑問点としては腕を切られた生徒を見ている彼が怪我を負っている…という事にある。


彼が運んだ生徒は腕を切られた男子生徒のみで他に被害者はいない。

ツヴァイの動きは攻撃範囲内に入った対象に対しては素早いが、通常の移動に関しては非常に遅いため腕を切断された生徒を見た瞬間に退避すれば他の生徒の被害は抑えられるだろう。


…それでも彼はツヴァイの切り傷を受けていた。


もしかしたら何かに引っかけたのかもしれないが、傷が新しいものであったのは事実。ツヴァイの攻撃を受けたという事は彼がその攻撃範囲内に入った…という事を意味するのだが、その理由が分からない。


「攻撃範囲内で気絶した生徒を救うため」であれば、その生徒と最上秀昇は絶対に助からない。


その理由としては…攻撃範囲内に入った対象の危険度、生命反応が消えるまでツヴァイが攻撃を緩める事は無く、彼の体格で人を背負ったままツヴァイの攻撃を逃れるのは不可能だからだ。


—————では、何のために彼はツヴァイの攻撃範囲内に侵入したのか…?


クーラーボックスの中身を見ると、ぎっしりと詰まった氷の中に紅い鮮血と肌色の物体…男子生徒の切断された腕が入っていた。


『‥やはり』



彼が怪我を負った理由は、攻撃範囲内に入って切断された腕を回収したため。

腕程度ならばツヴァイの攻撃範囲から奪取することも可能だが、やはりツヴァイの攻撃速度を前に無傷で脱する事は出来なかったのだろう。


それでもツヴァイの攻撃をくぐり、腕を回収した上で生還を果たした。まさに偉業を成し得た人物といっても差し障りはないだろう…。


——————もしかしたら、彼は凄い人物なのかもしれない…。



保健室の麗人、クラウンが最上秀昇に抱いた最初の感情は「尊敬」であった…。





~~~~~~~~~~~~~~・・・~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~




「いえ、その必要はありませんよ」


『‥‥』


クラウンが腹部に巻き付けられた制服を取り払った途端に淑女は麗人の目を見据えながら静かにそう述べる。


その不思議な瞳に籠った違和感と彼女の傷口を見た驚きが合わさり麗人は固まってしまう。


「驚かせてしまったのならば申し訳ありません。

…ですが勿論、最上さんに嘘はついていませんよ。私は確かに腹を撃ち抜かれて瀕死の重傷を負っていました…」


そう言って彼女は器用に立ち上がり、その異様な姿に麗人は言葉を失う。


左側は首に影を落とす程度に短い薄紫の髪、だが右側は胸部にかかるほどの長髪…という半短髪、半長髪という曖昧な髪型をしている。

その眼には謎の魅惑めいた妖しげな灯が燈っており、彼女の着用している【ML】と思しき衣服がそれを助長する。


その身に纏う衣の名は「拘束衣」。

着用者の行動を制限するために作られたそれは明らかに生徒の動きを制限するものであるとして教師陣で封印することを決めたのだが、その管理をしていたのは確か…


『…しのぶ様…』


———————偲という人物においてはそれなりに信頼を置いていたのだが…。


頭を押さえながらクラウンが落胆した様子を見せると、淑女は思い出したかのように訂正を加える。


「…あ、因みにこれは担任の…そう、塩崎先生にお願いしたら快くくださったのですよ」


『‥塩崎…劉玄…』


麗人の心中に怒りが込み上げるが「何の理由もなく彼が生徒に危険を及ぼすようなことはしないだろう…」と僅かに残った優しさが冷静に判断を下す。



「私なら…大丈夫だろう…と————」


そういって拘束衣に身を包む彼女は腹部に下ろしていた両腕を上げて再び傷口を露わにする。



『(そういえば…)』



…その刹那、麗人の脳内にある情報が流れる。


【亜種体に対抗できる生徒が数名いる】


それは亜種体ディボルグの出現後、文化棟に生徒を避難させた偲からの情報であった。


偲本人は生徒が何の手傷も追っていない亜種体と戦う事は反対している事から、単に教師陣の情報共有のために行った情報提供であるが、その中でも単体で亜種体を倒せる生徒の名を彼女は偲から伝え聞いていた。



【…その生徒の名は〈バナティ=カウラ=レチョフ〉。

昨日の【ML】入手時点で教師陣を超える力を手にしたAクラスの生徒だ。】



『…あなたが…』


破れた拘束衣の腹部から見える細い腹部。


その白く透き通った腹部に傷と呼べるものは何一つ付いていなかったのだ。


「……と言われたのは意外にも初めてかもしれませんね…」



今しがたまで己を抱いていた男の言葉を思い出し、薄紫の淑女は愛しむような笑みを浮かべてそう言った…。






——————————————・・・————————————————



「何だよ…これ」


ぽつり…ぽつり…と降り出した雨粒のように歩を進めながら最上秀昇は呟く。

保健室から急いでグラウンドに戻ってきてみれば、そこにはさんたる光景が広がっていた。


一種のモニュメントのように散在する岩々。

地に張り付くように倒れる生徒達。

そして、ひときわ目立つのは天に向かって噴き上がる砂柱であった。


「…皆は無事なのか…」


その場で思わず膝をつきそうになるのを堪えながら最上は周囲を見渡すが、友人たちの姿を見つける事はできない。


「———はっ———はっ」


無意識の内に呼吸が乱れ始める。

「分からないこと」がこんなにも不安で、苦しくて‥‥恐ろしいものだとは知らなかった。


自分がどうすべきなのか…。これから何をすべきなのか…。


今まで出来た事ができず、ただ茫然ぼうぜんとその場に立つことしかできない。


———————俺は、こんなにも無力だったのか…。



人間は孤独にならなければ気付かないことがある。

見知った者も見知った風景もない、新しい環境に立つことで異なる面が見えてくる。


世界に在る自己という存在の小ささと、その力の矮小さを…。




〈いった…〉 〈おい、しっかりしろよ…!〉 〈‥‥‥。〉



「…!」


変わり果てたグラウンドの光景と孤独に打ち震える最上であったが、流れ込んできた弱々しい声に我に返る。


「どうした。一体何があったんだ」


…そして、気付けば倒れている生徒の元に向かっていたのである。


「突然、何かが落ちてきて…」


女子生徒が肩を抑えながら視線を砂柱の方へと向ける。

既に数分経過したためか…砂柱は風に紛れて掻き消えつつあるが、地表に残った土煙が舞い上がり継ぎ足された真新しい砂柱が天へとそびえ立つ。


「〈ディボルグ〉…っていうやつか…」


女子生徒に釣られて最上も視線を再び砂柱へと向ける。

けれども、しゃがみ込んだ女子生徒の視線に合わせたためか低姿勢ローアングルから砂柱を見たことで最上は新たな被害を発見する。


「あれは…」


流星が大地に刻んだ黒点。


それは強く刺し込まれた星と地の会合を証明する黒き烙印か…。

巨大な鉛筆を捻じ込んだかのようなくぼみが大地に刻まれていた。


それを刻みつけたのは保健室に向かう道中に聞いた亜種体ディボルグである事は確定なのだが、肝心のディボルグの姿は見当たらない。


まだあの窪みの中に身を潜めているのか、地表に薄く漂う土煙に紛れているのか…詳細は分からない。


「…考えてもしょうがねぇよな…」


自らの取るべき行動を定め、最上は女子生徒を抱えて保健室へと向かう。


「よっしゃ。今は「全員を助ける」。今はそれだけだ…!」


そう決意を改め行動し始めた男に対し、抱えられた女子生徒は冷静に一言…。



「…あの…自分で歩けるので下ろしてもらっても良いですか————。」






 砂柱の中枢。

グラウンドの中央に開いた直径20mの大穴の中心に獣はいた。


あの超越者から逃げおおせた達成感と初めての飛行による興奮。


それによって自分がなぜここにいるのかも分からなかったが、何とか身をよじりながらも体勢を立て直し、肩部に生えたストロー状の装甲に再び意識を集中させる。


…とは言っても、それは意識的に勢いよく息を吐くようなもので肩から一気に蒸気を噴出させると、体は数十秒の内に獣の体はくぼみから脱していた。


「‥‥!」


砂柱と共に上空へと上がった後、目にした光景に獣は驚愕きょうがくする。


その広大な地表やそびえ立つ建物。見た事のない風景や建物‥といった目下に広がる未知の風景に心打たれたのか…と言われれば無論そうではない。


視界に映っているのは地表に散在するとある物。

他にとってそれは無価値なものではあるが、現在の獣にとっては非常に都合がよく最も求めていたもの…といっても相違ないほどの価値を秘めていた。


「…◇◆ッ…」


笑うように喉笛を震わせ、湿った牙を露わにする。

頭部を覆っていた装甲は超越者によって剥がされ、黒毛の生えたような地肌を晒す獣は内に芽生えた純真な心を正確に形作っていた。




‥‥生あるものは「飢え」る。飢えるからその飢えを満たそうとする。

それは「食」に関するものだけではなく欲し、満たしたいという…生あるものが求めて繰り返される渇望と満足のスパイラル。


勿論、人間や動物といった「生物」という枠組みのみならず「植物」にもそれは確かに存在する。


には「飢え」を表現する手段がないだけで生物と同様に自身のを操る事ができれば、かれらも盛大に「飢え」を表現してくれるだろう。


だが、そうなってしまえば地震や雪崩といった天変地異が起き、かれらは徒党を組んで人類に戦争を仕掛ける事は間違いない。


兎にも角にも「もっと綺麗な空気を吸わせろ」だとか「お前ら、もっと静かにしてくれよ」といった苦情を叫ぶことは必須なわけで、

「雑草の奴が何したっていうんだよ。…というか「雑草」って一括りに…」と仲間思いの優しい奴が現れて案外ほっこりするかもしれない…。




「□□◇———」


飢えに対し、それを満たすものがある。

自らの器を満たすものが目と鼻の先に現れた時、そいつは一体どんな顔をするだろうか。


更には、それが偶然訪れた幸運によるものだとしたら…?



きっとそいつは…脳汁が溢れ出るほどに興奮した事だろう。



「□◇■■■——————っっ!!」


獣は大きく口を開きながらグラウンドに降下する。

砂柱の土煙を喰らうことすら意に介さず、たった一つに狙いを定めながらただ真っ直ぐに目標へと飛んでいく。当たり前のように地表に佇む生徒達など目もくれない。


狙いは一つ。飛び散った瓦礫に紛れて静かに倒れる骸や未だ生き延びている生命体…〈ゲーグナー〉に向かって獣は自らの牙を剥け、本能の思うがままにその強靭なあぎとで獲物を噛み喰らう。


クチャッ…と羊羹ようかんにかじりつくようにヌルを噛み千切り、

バリバリ…と焼き菓子でも頬張るようにアインスやツヴァイを喰らう。


味がどうなのかは獣にしか分からないのだが、そのむさぼり喰う様には見ている者の空腹感を満たしてしまう程の勢いがあり、胸やけすら感じてしまう…。



「‥‥げふっ…」



…それとも、それは恐れを抱いた自身を認めないためのまやかしか。

胸の中央にこびり付いた取ってもとれない黒い重油に男は思わずげっぷを吐き出していた。



 2m近くあるその身長に加えて、鉄板でも入っているのでは…と疑われるほどに分厚い筋肉で覆われた天性の肉体は、鍛錬という努力によって研磨され始めた夢の原石。未だ発展途上にあると言われても信じられないほどに大男の身体には卓越された生気がみなぎる。


刈り上げられた後頭部と三つの山を築くように練り上げられた髪型ときつめにギラめく眼光。そして、分厚いたらこ唇…と威圧的な面相を構える男の手には生前の彼が死ぬまで持ち続けた血濡れの竹刀に似た黒き竹刀。


不斬きらずの刃を持つ刀。【Rs】「屍那畏しない」。


それを杖代わりにして立ち上がる大男の様子は奇妙なものに思えた。



「…昼飯食いすぎたか」


そう独り言を零しながらも大男の額には一筋の汗が流れていた。



…唐突に流れて来た保健医の声。

その数秒後、空を引き裂くような爆音と共に生まれた強烈な風圧よって地表に在るものは吹き払われた。大半のものは其の第一波で吹き飛ばされたが、巨大な体躯と重量を持つ大男はそれに耐えた。


そして、続く第二波は大地の一部であった巨大な岩々を連れた暴風であるが、これを無傷で乗り越える事は流石の大男にも出来なかったわけで…。


小型投石器による砲弾にも近しい岩石砲をかすめた影響で男は上半身…詳細にはあばら骨の右下部分である仮肋かろく部位に亀裂が入っていた。


…而して、これは筋骨隆々の梶原宗助であったからこそ被害である。

常人が同程度の砲撃を受けていたならば内臓ごと右下腹部を引き千切られ、砕け散った肋骨が呼吸器や脊髄、心臓に突き刺さる事で死亡は必須であっただろう…。



人ならざる…と云っては失礼だが、強靭な腹直筋と腹斜筋。強固で図太い丈夫な骨。その肉体が彼を救い、彼を再起させるに至ったのである。



———————あれは何だ…。



「食す」というのが人の特権だとするならば、「喰う」というのはそれ以外の生物が有する食の特権。


礼儀作法も食への感謝も内在しない只々喰らう獣の姿はおどろおどろしく、下手に気を害せば取って喰われてしまわれそうなほどのいきおいがあった。


「□■□■‥‥」


‥‥ぐちゃ…バリバリ…


大地に落ちた獣が他ゲーグナーを喰らい始めてから数十秒も経たずに体に変化が表れ始めていた。


「□◆◆◆‥‥」


ヌルの捕食によって黒インクが白い紙に浸透するようにじわり…と四肢と尾が生え始め、アインス・ツヴァイの捕食によって頭部から塗装されるように白い装甲が全身を巡る。


頭部からモヒカンのような巨大な刃、手足には鋭利な鉤爪。

そして、尾先にはアインスの代名詞ともいえる巨大な大筒が装備されてゆき、…やがて白い装甲が尾以外の全身を覆う頃には大半のゲーグナーが喰い尽くすされていた。


「‥‥っ」


頭部と胴体しかなかった獣に猿人のような尾と手足が生え、それを守るように白い装甲が体を覆う…という進化の軌跡にも類似する変化。


「食」という生命活動を通して体を変異させる〈ゲーグナー〉という存在に梶原は僅かに圧倒されてしまう。


「未だ知らず」と書いて【未知】。


その本当の恐怖を男が初めて思い知った瞬間であった…。



『…お前に任せるぞ』



…けれども、この獣を倒さなければ戦いは終わらない。

身体の不調があるとはいえ、みすみす獣の捕食を許してしまった責任を取らなければ彼に顔向けができない。


幸いにも他のゲーグナーを捕食してくれたおかげで邪魔が入る事は無い。

ただ、この獣にのみ意識を集中させればよいのだ。


「よしっ。いくか…!」


その大きな手で両頬を打ちつけ身体に喝を入れた後、荒々しく息を吐きながら獣の元へと向かう。


「!」


数歩向かっただけで獣は接近する男に体勢を向ける。

原初のヌルと同じ円らな目をしているにもかかわらず、その紅き目には獰猛な肉食獣に通ずる捕食者の風格と殺気が宿り、今にも襲い掛かってきそうな気迫を全身に纏わせる。


「‥‥」


しかし、大男はそんな事では動じない。


その身は十代後半にまで後退してしまったが、中身に宿るは「最強」を冠された男の魂。


後悔と絶望の果てに得たその称号に男が満足する事もなく、最たる強さを得た先の未来を道に刻むこともなく死んだ哀れな魂はたった一つの敗北と数少ない理解者によって救われた。





~~~~~~~~~~~~~~~~~・・・~~~~~~~~~~~~





「———そうか…。色々…本当に色々と…大変だったんだな‥‥」


昨日の夜。

最上秀昇の部屋で夕食をともにした後で、この世界に至るまでの道のりを初めて語った時に彼は涙を流していた。


「ごめんな…別に憐れんでいるとか…そうじゃねぇんだけどよ…」


そう声を震わせながら流れ出るもの全てを必死に抑え込もうとする彼の姿に誘発されて梶原本人も涙を浮かべてしまうほどに彼の漢泣きは格好良いものだった。


「……」


自分の人生を初めて人に語ったものだから長々と雑に話し込んでしまったが、それでも彼は一言一句聞き逃す事もなく必死に理解してくれた。


—————こんな不器用で、鈍臭くて、一人孤独に死んだ男の話をここまで聞いてくれる者がいただろうか…。


「ふんっ!」


武道場での愚行を改めて後悔しながら男は自らの頬に鉄拳の制裁を与える。そのあまりの威力に吐血しそうになるのを堪えていると、彼は心配した表情で男の顔を見つめていた。


「…けじめです」


「そ…そうか…」


男の意外な行動もあってか…彼から流れ出ていたものは完全に引っ込んでいた…。




「なぁ、。俺も成功者ってわけじゃねぇからよ。あんまり人にとやかく言うつもりはないけど…」


「…は、はい!」


彼の雰囲気が一段階引き締まったような気配を感じ、頂いた氷袋を頬に強く押し当てながら姿勢を正して彼の目を見つめる。



「俺も…その、なんだ…。もう死んでるんだよな」



「‥‥」


「人間、本当に驚いたら何も言えなくなる」と、どこかで聞いたような台詞が脳内で流れた後に男は心中で「その通りだ」と肯定していた。


言葉の唱え方を忘れてしまったように舌が回らず、声帯を震わせることができない。


‥‥見事なまでの絶句である。



「まぁ、だから…ってわけでもないんだけど…。

自分で選び、進んだ道ってのは一つの財産なんだよ。

その結末がどうであれ、選択と継続と決意を通して作られたお前の人生ってのは最高に面白いものだと俺は思う」



「‥は…はぁ…」


正直、彼のいった言葉を不出来な頭で理解する事は出来なかったが、訳も分からないままに視界が悪くなり始めていた。


「…え」


気付けば止めどなく流れる塩水に男自身が困惑していた。


———————こんなに泣いたのはいつ以来であったか…。


そんなことを思いながら男は白シャツの袖で涙を拭うが、栓を抜いたビール樽のように涙が止まる気配はない。


拭いても、拭いても止まらぬ涙に男は焦り、ひたすらに袖口を濡らす。


彼の言葉に泣いたのか…と自問自答するが、彼の言葉を理解できてはいない。


どうして涙が止まらないのか。どうしてこんなにも胸が熱いのか…。


「…え…あれ…あの」


しどろもどろになりながら足掻くように涙を拭い続ける男は不意に彼へと視線を向ける。


急にこのような事になって困っているはずだ…と思い、謝罪しようと口を開こうとした途端に男はある事に気付く。


…彼の姿が見えないのだ。


「…最…上さん…?」


姿は見えないものの背中に確かなぬくもりを感じた男は背後に視線を送ると、背中をこちらに預けていた彼は目と両耳を塞ぎながら天井に顔を向けていた。


「…聞こえてるか分かんねぇが、ここには誰もいねぇよ…


「……え…?」


彼の行動の意図が読めずに男はきょとんとした顔で彼の背中を見つめるが、何も見えず何も聞こえない彼は次の言葉を最後に黙ってしまった。


「…ここでは「最強」である必要はねぇんだからよ。

自由に生きようぜ…互いにな」




—————あぁ、そうか。


男は自身の身に起きた謎の現象に納得する。


彼の言葉は頭では理解できない。

お世辞にも戦闘一色に染まりきった不出来な頭であの言葉を理解するなど到底不可能だ。


故に答えは単純明快。


彼の言葉は男の理性に響いたのではない。

胸に感じた熱がそれを誇示するように彼の言葉に籠った言い表しようのない「重さ」が魂に響いたからこそ男は涙したのだ。


「おれ…一生、ついていきます。最上ざん…」


男の言葉は彼には届かない。

けれども、その思いだけは彼の背中へと渡っていった。





~~~~~~~~~~~~~~~~・・・~~~~~~~~~~~~~




「俺…やりますよ…」


黒き竹刀を握りしめ、男は大地を蹴る。


「最強」の名はもう要らない。

ただ己の信じた道を突き進み、大切な友を守れる『力』さえあれば、…それ以上は何も望まない。



「◇■■◆—————————————っっ!!!!!!!!」


「づあああああぁぁぁ—————————————っ!!!!」



獣の咆哮と大男の叫びが地上を鳴らし、両者は激突する——————————。


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