13.「梶原 宗助 Ⅱ 」



「お~にさ~ん こ~ちら~ て~のな~る ほ~うへ~‥‥」


吸血鬼は遊びの詩を歌う。

そして歌い終わるのと同時に「いや、これは確か逃げる側が歌うものではなかったか…」と少しだけ反省をした後、前方の廊下に小さく映る少年の後ろ姿に意識を向ける。


‥‥大きな体に似合わず、背中を丸め、小走りで走る少年の後姿からは習熟度と意地の様なものを感じ、普段からそのような姿勢で行動している事がうかがえた。


だが、少年の後ろ姿を見ているうちに女は不思議と苛立ちを覚え始めていた。


「無能力」でありながら、天賦の才たる恵まれた体格を持った中学三年生の少年が内に秘めている身体能力も中学生のそれとは比較にならないものであると言える。

仮に何か一つの競技を極めれば、必ずや世界に名を轟かせる可能性を秘めた存在でありながらも、なぜあのように身を縮めているのか…吸血鬼には理解できない。


—————…では、なぜ私は少年の姿に「苛立ち」を感じてしまうのか…?

多くの血を取り込みすぎたせいで血の気が多くなっているためか…。

それとも不格好な姿から必死さが足りないと見えるからか…。

‥‥‥もしや、少年に自身を投影して哀れんでいるとでも—————?



「‥‥ふふっ」


「哀れみ」という言葉を思い浮かべた自身に対し、吸血鬼は笑う。

それは違う。あの少年の抱えるものと自分の背負ったものは大きく異なる。


…少年は他人とは異なる大きな身体に劣等感を抱きながらも何とか周囲に溶け込もうとした。

…自分は理不尽な暴力によるキズを負い、人智を超えた「力」を得たことで逆襲に走った。


この両者は不幸な境遇に置かれながらも、その過程と結末は大きく異なる。

…自身と向き合い、身の在り方を必死に考えようとした少年。

…身と心に受けたキズを全て吐き出し、その身に背負う事で「力」を振るう事を選択した自分。


いだく」事と「背負う」事は類似しているようにも感じるが、その向き合い方は全くの別物である。

劣等感に向き合って進む少年とキズから目を背けることで進んだ自分…。

これを同一視してしまうのは向き合い続けている少年に酷く失礼だ。


それでも「夫」を得るために行った間引きともいえる行為に後悔など一切ない。むしろ、間引いたことで求めていた「夫」だけを手に入れる事が出来たのだ。今頃は糸の切れた傀儡のように成り果てた【夫】に対する思いなど…微塵みじんもない。


————そんな事…あるはずもないのだ。だって、私は…今こんなにも楽しいのだから。


女は清々しい笑みを浮かべる。

…けれども、少年に対する女の「苛立ち」はなくならない。


だが、今の思考を経て、その「苛立ち」の正体には女も薄々と気づき始めていた。

女ほどではないが大きな身体と高い身体能力を有する少年も力を持った存在といえよう。ところが、その力を心のままに解放せず、平気で耐え忍んでいる事が女には堪らなく勿体ないと感じてしまうと同時に抑圧された少年の走り姿は「力」を持っていながらも日々の暴力に耐え続けていた自身の姿と…どうしようもなく重なって見えてしまうのだ…。



「…無様ですよ、少年。」


小さく呟いたつもりが思った以上に「苛立ち」が声に表れていたらしく…閑散とした廊下に女の言葉が響き渡る。その直後に少年の動きが鈍ったようにも感じられたが、再び少年は不格好な姿勢のまま歩みを進めていく。再び走り出した少年の様子に吸血鬼は溜め息をついた後、少年を追う足を少しだけ早める事にした。



…廊下には生徒と教師の死体と女の赤黒い長髪の切れ毛だけが残される————。




——————・・・—————



「‥‥た‥…た…」


少年は堪えるように必死に考え、足を動かしていた。


「…どこへ行けば逃げられるのか」

「…どうすれば、あの吸血鬼が退いてくれるのか…」と、先程までの戦闘が嘘のように少年は逃げるために身体を動かし、それほど良くもない頭を回転させていたが、少年の表情は酷く歪んだものになっていた。


—————逃げた…逃げた…逃げた、逃げた逃げたにげたにげたにげた‥‥


手足が固まったように重く、胸の芯は氷柱つららで貫かれたように冷たく、脳が圧し潰されるように痛みが少年をむしばむ。


自身を蝕む本能の声を聞き入れないように…と、少年は理性を精一杯働かせるが、生命の危機を強く感じてしまった事が悪影響となったのか少年の中に在る本能の叫びが身体に強く表れていた。


「…俺は逃げた‥‥俺は逃げた…」


堪え切れなくなった本能の叫びが言葉として現れる。


少年の頭の中にあるものは強い後悔の念と頭にこびり付いてしまった友人たちの死に顔であった。恐怖に強張り、目に涙を浮かべ、人形のように無機質で、時が止まってしまった彼らの顔が二度と戻る事は無く、自身には彼らの仇を打つだけの度胸も「力」もない。


先程のように怒りで立ち向かう事は度胸とは言わない。殊更ことさらあの状況においては無謀ともいえる。


————逃げてどうなるって言うんだ…。


本能の叫びに侵食された少年の理性が囁く。

どうせ逃げ続けたところで吸血鬼の魔の手からは決して逃れられない。

だが、戦うにも「力」がなく、この無駄に大きな身体で無様な姿を見せる事しか少年にはできない…。


「‥‥!!」


そんな中、囁く理性に気を取られていた少年は自らの過ちに気が付く。

曲がらなければならない廊下を通り過ぎ、いつの間にか逃げ道の無い…一方通行の廊下に入り込んでしまったのだ。


——————終わった…。


絶望が脳から脊髄へと伝わる中、重力に引かれた絶望が肩と鳩尾みぞおち辺りを通り過ぎると、重圧に耐えかねた身体が崩れ落ちて膝を突きそうになる。

…今から引き返そうにも吸血鬼はすでに十数m後方に控えているため、引き返せば完全に鉢合わせとなってしまう。



‥‥少年の逃げ道は一つ無くなってしまったのである。



「…ここしか…ない。」


意を決して少年は左側に構える一つの部屋に体勢を向け、そのまま躊躇ためらう事無く体当たりで固く施錠された扉をブチ破り室内へと身を隠す。


 そこは普段の授業では扱う事が少なく、主に放課後の部活動を行う際に開錠される部屋。部屋に内在する倉庫には部活動で扱う備品が数多く保管されているため、身体の大きな少年でも身を隠せそうな倉庫がいくつか存在する。



その部屋は「道」を冠することを許され、その「道」を歩む者にとっては聖なる場所として崇められる…「武道場」であった。


——————————・・・



「少年。いい加減出てきてはどうですか…」


「はぁ…はぁ…」


 少年は小さく呼吸をしながら吸血鬼の様子を窺う。

照明の有無か、部屋の配色の影響かは分からないが…教室で見た時よりも赤味が増した長髪を床に垂れ流した吸血鬼は生成した〈血〉の球体から触手のような物を生み出し、手足のように扱いながら隈なく「武道場」の倉庫を処理していく。


幸い女は入り口側にある倉庫から一つ一つ処理をしているため、少年はまだ見つかってはいない。だが、あの清々しい笑みのまま倉庫を開けては〈血〉の触手を流し込み、淡々と、着実に、倉庫を処理していく様子は見ていて末恐ろしいと感じてしまう。


————…なぜ、女はあの表情のままなのか。


まるで、そういう生物のように女は清々しい表情を続けているのだが、唯一あの表情を崩したのは少年が女の質問に答えた、…あの時だけであった。


『…私ですか、そうですね…。逆に…君には何に見えますか?』

『‥‥お前は…悲しい奴だと思う…』


…少年は教室での出来事を思い出す。


——————女の質問に対するあの返答は何だったのか…。


 少年は教室での自身の心境を思い返す。人でありながらも異形の「力」を宿し、夫である担任をはじめ、多くの生徒と教師の命を奪った〈血〉を操る吸血鬼。

そんな女の一体どこに哀れみを感じ、「悲しい」などという言葉が出たのか。全く見当は付かないが、返答に対する女の反応は意表を突かれたようなものであった。自分の思いもよらぬ一言が吸血鬼自身も知り得なかった真実を突くような一言であったのだろうか…と少年は考えるが正解は分からない。


「お次は…」


バキバキッ…と荒々しい破壊音を武道場に響かせながら、着々と倉庫を処理していく吸血鬼は次なる倉庫に視線を移す。もはや、作業のようにもなっている吸血鬼の倉庫処理は数をこなす度に速さを増していき、一つの倉庫を処理するのに十秒も掛からなくなっていた。


…このまま隠れていても捕まるのは時間の問題だ。

教室で戦った時には〈血〉の能力に少年の大きな身体を貫くほどの攻撃力は無かったが、能力を使う度に性能が強化されているのか…今では容易に扉を破壊して倉庫内に流し込まれる触手を見るに攻撃力は大幅に強化されているようだ。


少年の隠れ潜んでいる倉庫にあの大量の触手を刺し込まれれば少年に命は無い。


「ここで終わるのなら‥‥」


いっそ打って出るのはどうだろうか…と授業や部活等で扱う数々の備品に目をやりながら少年はそのような考えを抱く。


…もちろん、勝機は無い。


教室で戦った時よりも「力」を高めた吸血鬼に「力」無き少年が勝つ算段など無い。しかし、このまま何もせずに倒れる…というのは、あの世で待つ友人達に顔向けができない。最後に一矢報いるぐらいの反撃をすれば許してはくれるだろうか…と殆ど投げやりな気持ちになりつつも少年は目の前にある剣道部の備品を見つめる…。





「‥‥あと一つですか…」


最後の倉庫前に立つ吸血鬼が「やれやれ…」と溜め息をつくような口調でそう言ったが、その表情には依然として変化は見られない。


「少年。聞こえているかは分かりませんが、これで鬼ごっこは終わりです。

つかまれば鬼が渡る鬼ごっこですが、捕まえたが最後…君は確実に死ぬでしょう。

…ですが、落ち込む事はありません。

能力者を前にここまで生き延びた自分自身を君は賞賛すべきです。

まぁ、君の肉体には驚かされましたが私もそれなりに楽しかったですよ。」


感想を述べた後、間が空く。

一秒にも満たないその空白が少年にとっては数十秒にも感じ、背筋に冷たい汗が通る頃に吸血鬼は冷徹に終わりを告げる。


「‥‥さて、口上が長くなってしまいましたが…。

少年、死ぬ準備はよろしいですね。」


「‥‥‥」


当然のように少年からの返答はない。

だが、吸血鬼は沈黙を解答と受け取ったのか…すでに展開していた〈血〉の触手を一気に倉庫に流し込むことで中に潜む少年を刺殺しに掛かる。


生半可な力では少年の持つ強靭な肉体は傷つけられないからこそ、女は全神経を集中させて力の限り触手を刺し込んだのだが—————————今回はそれが仇となる。


「これは…?」


触手を刺し込んだ感触に差異を感じ、吸血鬼は首を傾げる。刺し込んだはずの触手が何かに押し返されているような強い反発感を感じ…


「…う…うう…うお…おおーーーっ!!」


…少年の低い唸り声が轟く。

身体能力に多大な可能性を秘めている少年だが、教室で女が指摘したように単調な動きしかできない上に身体を扱う技術面で劣る少年が吸血鬼に勝つ手段は無い。



しかし、それは逆に…身体的技術を求められない単調な動きと純粋な力勝負でならば…少年が負ける通りは無いという事になる。



「うおおおおぉぉぉぉぉっっっっ!!!!」


「‥‥!」


吸血鬼の顔に初めて焦りが生まれる。

完全に油断していた事もそうだが、それ以上に少年の放つ力量の大きさが圧倒的なものであり、命の危機に瀕した人間としての底力を肌身で感じ、一瞬でも怯んでしまったのだ。


「…これが火事場の何とやら…でしょうかね。」


…そう言って、吸血鬼は攻撃の反動で武道場の壁へと吹き飛ばされていった。



—————ガシャン…



「…はぁ、はぁ…。」


吸血鬼の触手を防いでいた卓球台が倒れ、身に着けていた剣道部の防具が砕け落ちる。流し込まれた数本の触手は二台分の卓球台を重ねた盾を貫き、防具にまで達していた。薄暗い倉庫の中で型の合わない防具を急いで装着したため紐の締めが甘く、攻防の最中に紐が解けてしまった時には肝を冷やしたが、触手が身体に達する前に吸血鬼を吹き飛ばす事が出来たのは不幸中の幸いであったと言える。


「‥‥よし」


命懸けで挑んだ最後の抵抗が功を奏し、見事一矢報いたことで少年は達成感を言葉にする。だが少年が達成感に浸る間もなく、突き飛ばされたはずの吸血鬼の声が少年に刺さる。


「—————それで少年。これから、どうしようというのです…?」


赤い触手の束にもたれながら吸血鬼は問う。

クッション代わりに〈血〉の触手を使った吸血鬼に主だった外傷は無く、少年の達成感は一気に泡と消える。「力」の有無がある以上、生半可な攻撃では通じない。けれでも、ここまで「力」の差を感じてしまうと自分が何と対峙しているのか少年は分からなくなりそうになる…。


「‥‥」


けれども少年は背中に差し込んでいた「竹刀」を取り出す。

本音を言えば木刀あたりが好ましかったのだが、倉庫にあったまともな武器がそれしか残されていなかった…。


「私と再び戦おうというのだね。少年。」


「‥‥」


少年は黙って頷く。

この先はどうなるのか全く予想は付かない。

数秒で命を奪われるか…それとも時間をかけてゆっくりと殺されるのか…。

どちらにせよ、殺される運命は変えられない———————。


—————どっちにしろ…選択は一つだ。


息を吸い、筋繊維に酸素を回す。丸めた背筋を伸ばし、縮めていた身体を開いて重心を下に置くように身を低く構える。


今までは大きな身体で周囲の邪魔にならないように身を縮め、誰の邪魔にもならないように気を遣ってきた。無駄に身体が大きく、不器用で、腑抜けな自分を友人達が認めてくれた。だから少年は彼らの邪魔にならないように背を丸めて、大きな身体を少しでも小さく見せようとしてきた。


‥‥こんな自分を認めてくれた彼らが周りから見て「小さく」見えないように。

「大きく」、「大きく」。彼らの姿が周りから少しでも「大きく」見えるように…。



「少しは…マシになりましたね。少年。」


優し気にそう言った吸血鬼はあの笑みを浮かべる。

少しだけ何かが取り払われたようにも感じるその笑みに少年が意識を向けると、

何の合図もなく吸血鬼は〈血〉の触手を振るい始める。



…大量の〈血〉の触手が蛇のようにうねり、風を裂きながら少年の命を奪いに掛かる。大波のように押し寄せる触手の束から少年が逃れる手段は無い。


危機に瀕した状況だからと特別何かの力に目覚めるわけでも身体能力が飛躍的に向上するわけでもなく、少年は目に見えるだけの触手を竹刀で薙ぎ払いながら、まっすぐに吸血鬼の元へ向かう。


「いっ‥‥!!」


視認できなかった触手が少年の身体に突き刺さる。

経験したことのない痛みに体勢を崩しそうになるが少年が歩みを止める事は無い。


しかし‥‥。


「足元が空いてますよ。」


「!」


触手の先にいる吸血鬼の声が聞こえ、何かが足に絡みついたのを感じた時には少年の身体は宙に浮いていた。身体の軸が安定せずに身体の自由を奪われたまま少年の視界が天井——壁——床——触手——と視界が乱回転する。


脳が揺さぶられ、状況判断も出来ないまま身体が重力で引かれるのを感じると‥‥


———————ガンッ


…鈍い音を立てて頭部に衝撃が走る。

遠く、反対側の壁際に立つ吸血鬼の姿を見た少年はようやく自身が振り回され、投げ飛ばされた事実を理解する。だが思いのほか頭部の衝撃が大きかったためか…その事実を少年の頭が理解した途端、ゆっくりと暗転するように意識が薄れ、視界が閉じ始める。


睡眠とは異なり、水中に飲み込まれていくように意識が落ちていく感覚。

だが、その未知の感覚に埋もれていく中で不思議と恐怖は感じなかった。


———————くそ…くそ…くそ…!


恐怖よりも己の無力さに対する怒りがそれを凌駕したためである。


…勝ち目がないのは分かっている。嫌というほど分かり切っている。

銃や剣を持った人間に獣が敵わないように「力」無き者が「力」有る者に勝つ道理があるはずもない。


そんな事は少年の頭で承知していたが、頭で分かっている事を現実で体験し、実感し、完全に理解してしまう事が時にはこんなにも残酷であるとは思いもしなかったのだ。


———————何のためにこんな大きな身体を持って生まれて来たのか…。


少年は生まれて初めて、自分の存在意義を問う。

なぜ、自分はこんな身体を持って生まれたのか…。

なぜ自分には「力」が無いのか…。

なぜ、自分は‥‥こんなにも生き恥を晒しているのか…。


『無様ですよ、少年。』


廊下に響き伝わってきた吸血鬼の声が脳内に響く。

それは分かっている。友も救えず、敵を討つことも出来ず…己の保身のために逃げていたあの姿は女にとっても腹立たしいものであっただろう。そんな何も持たない無能むのう力の自分があの吸血鬼に一矢報いたところで結果は変わらない。


ただ、自己満足をして残酷な現実から逃避して死ぬか。

残酷な現実を受け入れて死ぬか。


…その些細な違いでしかないのだ。


——————くそ‥‥くそ…


暗闇に意識を飲み込まれながらも少年は己の無力さと心の弱さを呪う。

『梶原 宗助』という一人の人間としての力の無さに少年は自身に対する憤怒の火種を絶えず燃やし続けるが、やがて煙へと消えていく————。




「少年。」


吸血鬼は意識を失った少年を呼ぶが返答はない。

強く頭を打った影響か…軽い脳震盪のうしんとうを起こしているらしく少年は完全に白目を剝いていた。


だが、そんな状況であっても吸血鬼の攻撃の手が緩まるはずがなく…


「起きなさい、少年。遊びはまだ終わっていませんよ。」


…躊躇なく中学生の腹部に触手を刺し込む。

意識を失っていた為か…思いのほか〈血〉の触手は奥深くに刺し込まれ、強烈な痛みに少年は身体をビクつかせて目を見開く。


「‥‥!?…っ…」


あまりの痛みに少年は声を出せずにいた。とてつもない痛みによって息を吸う事も出来ない中、おぼつかない目で吸血鬼を見た少年の瞳は絶望の色に染まる。



 真っ赤な血で染められた赤い長髪と西瓜の果肉のような淡い薄紅色の肌。

睨まれれば石像のように固まってしまいそうな大蛇の如き圧迫感のある紅いまなこ

更に赤味が増した女の容姿はアメコミ漫画で見た吸血鬼など霞んで見えてしまうほど末恐ろしく、まさに伝説に名高き邪気の祖たる赤き怪物。人の血肉をすすり、万力を振るうまことの「鬼」と化していたのである。




「目覚めましたか…」


「‥‥‥。」


痛みと絶望。

鬼と化した姿で清々しい笑みを浮かべる女を前に少年は言葉を失う。

先程まで自身の内側で轟々と燃え盛っていた憤怒の炎は静かに燃え寂びてゆく散りかけの火種となってしまい、唯々少年の心は憤怒の残り火に焼かれて憔悴しょうすいするのみであった。


「ここから血を一気に吸い取れば君は数秒で死にます。ですが、その前に教えてほしい。…少年。なぜ、私が『悲しい奴』なのでしょうか…?」


「‥‥‥。」


残念ながら、その質問の答えは少年にも分からない。

適当な答えを返したとしても目の前の吸血鬼は許してくれない。それどころか女の顔色からは拷問をしてでも聞き出そうとするような迫力もうかがえる。


「…それ…は…」


痛覚で保っている継ぎ接ぎだらけの意識の中で少年は初めて見た女の姿を思い出す。



瘡蓋かさぶたのように赤黒い長髪と瞳、血の色素が滲み出た赤い肌。

…清々しい笑みで固定された表情と〈血〉の能力で生み出された紅い棘。


人間を逸脱した外見と「力」を有する「吸血鬼」と化した女に対し、なぜ自分は「悲しい奴」と言ったのか…


「‥‥。」


「‥‥どうなのです、少年?」


二本目の触手を宙に漂わせながら吸血鬼は再び少年に問う。

今にも二本目の触手を突き刺しそうな勢いの吸血鬼を少年は今一度見るが、初めて見た時から容姿が変化しただけで何かヒントが得られるわけでもない…。


「‥‥答えなさい。少年。」


そう言って、吸血鬼が二本目の触手を少年に刺し込むために左手を振り上げた時であった。


「‥‥!」



‥‥刹那、少年の脳に閃光が奔る。

振り上げられた女の手を見た少年は気付いてしまった。今までは女の容姿にだけ目が向いてしまったが、真に注目すべきは女の容姿ではなく女が身に着けている物だったのだ。


 少年は教師で見た女の姿を再度思い出し、予想が確信に変わる。

担任がいつも着ていた男物の黒スーツを身に纏い、銀時計の付いた担任の左腕を奪った女は狂気に身を投じた吸血鬼に成り果て、仮面で固定されたように清々しい笑みだけを浮かべながら晴れ着姿でも披露するように腕を広げてみせた女。



その姿を見た少年が無意識の内に視界で捉えていたもの。

それは女が広げた腕であり、正確には広げた左手の薬指に付いていた結婚指輪であった…。





「‥‥指輪…だ」


「‥‥」


〈血〉の触手が宙で止まる。

振り上げた手も宙に留まったままであったが…その手は確かに震えていた。

瞳孔が大きく開き、指が一本入るか入らないかの微妙な塩梅で僅かに開いた口。

大きな変化としては終始続いていた清々しい笑みが完全に崩れ、呆気にとられたような人間らしい表情を浮かべていたのである。


‥‥それでも女は何も言わない。



「‥‥そうですか…それでは…」


…ようやく言葉を発したかと思えば、女は不自然な返事を返した後に宙に留めていた手を振り下ろし、太い触手が少年の腹部に突き刺さる。


メリメリ…と触手は皮膚と筋繊維を引き裂き、アドレナリンでも処理できないほどの激烈な痛みが少年を襲う。さらには追い打ちをかけるように二本の触手が一気に血を吸収し始めていた。


「‥‥ぐっ…がっ‥!!!」


太い掃除機を無理やり刺し込まれて電源ボタンを押された気分になる。

体内に流れる血が流れてはならない方向へと引かれ、急激な血圧の低下により少年の意識は一気に暗転する————。


「‥‥…!」


…黒い闇に侵食されるように視界が霞む中で女を睨みつけた少年は驚愕する。


あの清々しい笑みを浮かべるだけで、ようやくそれ以外の表情を見せた吸血鬼の顔が年相応の女性らしい…はかなげで悲しそうな表情を浮かべていたではないか。


「…ふざけるな」


担任を殺し、友人達を殺し、清々しい笑みを浮かべながら少年少女の血を奪った狂気の女は吸血鬼にまで成り果てた…そんな女が何をいまさら人間らしい顔を浮かべているのだ。


「…ふざ…けるな…」


少年は憤怒する。

「力」があり、残酷無比で化け物じみた容姿と人間を逸脱した行いに身を投じる『吸血鬼』に殺されるのならば死を受け入れられる。


だが、最後の最後に自身と同じ「人」としての片鱗を見せた女に殺されるくらいならば、最後の力で女の首をへし折ってやる———。


「ふざけるなよ…吸血鬼‥!」


少年は力強く女の右腕を掴む。

首を絞めようにも腕が思ったように上がらず、少年の大きな手は女の腕を掴むだけであったが、そのまま腕伝いに首を絞めようと女の腕を握りしめた瞬間…、




—————バシャン…



何かが弾け飛んだ。



「‥‥‥」


…大きな水風船が割れたような太い破裂音に五感と思考が一気に硬直する。

時間の感覚が大幅に麻痺し脳細胞が錆び付いたように思考が思い通りにならず、永遠にも感じられた一秒の静寂が過ぎ去った後でようやく少年は現状を理解し始める。


女の腕を掴もうとしていた少年の手は空を掴んでおり、少年の手は…真っ赤な血に塗れていた。


「何の冗談だ。これもお前の能力の一つなんだろ…?」


…そう尋ねたくなるほど少年の頭は異常事態に耐えられず停止ショートしてしまっていた。それもそのはずだ。今までの女の姿や〈血〉の能力、命を狙われる重圧感…未体験の事ばかりで心身ともに憔悴しょうすいしきっていた中学生の少年に追い打ちをかけるように少年が掴もうとしていた女の腕は水風船のように血飛沫を上げて破裂し、腕の断面からは栓を開けた蛇口のように大量の血が溢れ出したのである。


「‥‥」


…ところが、そんな様子でありながら女は何も言わなかった。

壊れてしまった玩具を見下ろす子どものような空白の瞳で女は右腕があった部分を見つめていた。


「‥‥な…何だよ。これ…」


床を侵食する血だまり。

吐き出すように血が流れる腕。

たっぷりと血が濃く付着した手…。

それらに視線を泳がせながらも少年は女に問う。



‥‥いつの間にか、二本の紅い触手は引き抜かれていた。






「‥‥‥少年。どうやら…君の勝ちのようです。」



 絶え間なく流れ出る大量の血は粛々と武道場の床を血一色に染め上げる。

生臭さと鉄臭さが入り混じった血の悪臭は場内の至る部分に染み込み、少年の嗅覚は即座に麻痺していた。


つぅ…と大量に吐き出された血の一線が武道場の外にまで流れ始めた頃に女は口を開く。その視線は天井を向いており、疲労と達成感と悲しみを折り合わせた複雑な表情で女は天を見つめていた。


「‥‥は…」


女の意図が分からず少年は困惑する。

ほんの数秒前まで勝敗は決まりかけていたはずだった。

少年の手が女の首に届いたとしても、女の首を絞め上げる前に〈血〉の触手が少年の血を吸い尽くしていただろう。


「…過度な血液の吸収に加えて、運動で血圧を上げてしまった事から貯蓄量が限界を迎えた…と言ったところでしょうか。」


自らの身体に起きた現象を女は冷静に分析する。痛みを感じていないのか特に顔を歪めるわけでも、額に汗を流すわけでもなく、ただ目の前にある事象を前に女は落ち着いた様子を見せていた。


「‥‥簡潔に言いますと少年。私の能力が暴走したようです。おそらく私の身体は数分で崩壊して血と消えてしまうでしょう。…この右腕のようにね。」


「…何とも‥吸血鬼らしい最後ですね…」と、女は無くなった右腕部分を見つめながら淡々と少年に説明する。


 限界値に近い血液を吸収した状態で過度な運動を行ったことにより女の血を保持する力が限界を迎え、その状態で少年の血を吸収したことで崩壊が始まった。

吸収した血液を保持する力をガラス容器にでも例えるならば、戦闘によりヒビが入っていたガラス容器に少年の血を流し込んだことでガラス容器が完全に砕け散り、吸収した全て血液が逆流する形で女の身体が破裂している…という事なのだろう。



‥‥一言でいえば、『これから女は死ぬ』…という事だ。


血の吸収による女の容姿の変化。

その真実は血液量の限界値を告げる危険信号のような物であったのだ。





「…少年。人の本音というのは…いつ分かると思いますか。」


あと数分で自壊してしまうにもかかわらず女は問いかけるように囁く。自壊の影響か…2m近くあった赤髪が途中から切れ始め血の泡となって消えていく。


「‥‥」


少年からの返答はない。だが女は少年からの返答を求めてはいなかったのか…独り言のように血と言葉を吐き出していく。


「…あの人とは大学で出会って、お付き合いをして、結婚をして…その過程で私は教師の道を断ちましたが、小さな塾の先生をやったり…それなりに楽しく暮らしていました…」


——————バシャン…!


左足が大きな音を立てて破裂し、右腕同様に大量の血が溢れ出す。

突然片足が無くなったことで女は転倒しそうになりながらも残った左手と右足で体勢を立て直して床に座り込む。


「‥ある時、子どもが出来た事をきっかけに私は実家に帰省し、あの人とは離れた生活を送っていました。初めの頃はあの人も仕事の合間を縫って連絡をくれていたのですが、突拍子もなく…あの人から連絡が途絶えてしまったんです。」


———————パシャン…


左耳が破裂し血飛沫が女の顔にねる。

身体の破裂は何の前触れもなく起こるため少年は気が落ち着かなかったが、女は表情を変えることなく話を続けていたため少年は内心を表に出すようなことはしなかった。


「…子どもが生まれて、あの人の元に帰ってみると…あの人は人が変わったように私に暴力を振るうようになりました。原因は全く分からないまま…その日から今日まであの人は暴力を振るい続けてきました‥‥っっ!」


——————プチンッ!


女の右目が破裂する。突然失われた半分の視界と暗闇に驚くのも束の間、女は左腕の袖で血飛沫の付いた右目の周りを拭き取りながら話を続ける。


「…人の本音がいつ分かるのか…その答えを私はこう説きます。


『人間、危機に瀕すれば本音が表れる』


人というのは追い込まれた時にこそ本音が表れるもの…というのが私の持論です。

…だから私はこの「力」を以て、あの人の本音を知ろうと…今日ここに来ました。

そして、彼を屋上付近まで追い詰めたところで私はやっと質問したんです。


『なぜ、あなたは変わってしまったのか』…と。


でもね、彼は最後まで「他の人には手を出さないでくれ」の一点張りで…結局最後まで私の質問には答えてくれませんでした‥」



——————バシャン…!


左足が破裂し、再び女は体勢を崩すが〈血〉の能力で赤い触手を発現させて体勢を支える。だが〈血〉の減少か、能力の暴走が原因か…能力で形成した赤い触手は細く、小さく…先程までの凶暴性は一切感じられない。


「…むしろ、私は腹が立ちましたよ。

私の事は無下に扱う癖に…君達や他の先生には手を出すな———なんて…。

じゃあ、私はこの人にとって何だったのか…と思った時には私はあの人を殺していました。」


そして、女は残った左腕で内ポケットから担任の左腕を取り出し、懐かしい品物でも見るように慈愛に満ちた表情でそれを見つめている。



…銀時計の付いた担任の左腕には彼女がつけていたものと同じく結婚指輪が付いていた。



「‥‥私はあの人を理解する事が出来なかった。けれども昔のあの人を、本当に愛していた彼のぬくもりを求めて私はきっと…この腕を奪ったのだと思います。」


〈血〉の触手と残った左腕を使って互いの指に付いた指輪を抜き取った後、女は何の躊躇もなくゴクリ…と二つの指輪を飲み込む。その行為に意味はないのかもしれないが、指輪を抜きとってから飲み込むまでの過程が少年にとっては至極尊いものに感じ、只々眺めているだけであった。


「‥‥これが私の答えです。私は君が思うような「吸血鬼」にはなれなかった。人を超えた「力」を持ちながらも、たった一人の本音すら分からないような無能なんですよ。私は…」


そう言って、彼女は〈血〉の触手を手足のように扱い、少年の元に近づく。


—————パシャン…


彼女の右耳が破裂し、血飛沫が少年の顔にかかる。女はそれを拭うように残った左腕で少年の頬に触れた後、…それは美しい笑みで少年に質問を投げかける。


「‥‥これからの未来。

きっと私のような「力」を持った者が世に出始めるでしょう。

今の時代はその進化の予兆ともいえる…「開花期」…とでも名付けましょうか。

信じるか信じないかは君次第ですが、私の見立てでは君が能力を得る事は無い。

…だからこそ少年。最後に問いたい。

「力」を持たず、その大きな身体しか持たない君は「力」有る者たちが生まれ始める時代で、世界で、—————『未来』をどう生きていきますか…?」


バシャン‥‥!


女の左腕が破裂する。

身体の至る部分から絶えず流れ出る大量の血に比例して彼女の〈血〉を操る能力は弱まっていた。徐々に彼女の身体を支える〈血〉の触手は薄れ始めていた。


「‥‥。」


少年は答えられない。

特に頭が良いわけでもなく、ましてや自分とその周囲の者にしか目を向けられていなかった梶原 宗助という少年が…その質問の答えを出せるはずがない。


そもそも、前提としてこの質問は間違っているのだ。


「自分が何者か」、「自分がどう在りたいのか」…という議題に対し、つちかった僅かばかりの経験と知識を以て「自己いま」を見つめ返す時期にある中学生が『未来』を語るにはまだ幼すぎるのだ。


「‥‥答えは君がこれから生きていく中で見つけていくといい。

これから君がどれだけ厳しい道を歩もうと、どれだけ道を間違えようと、…最後に振り返った時にはきっとそれなりの答えは出せるはずです。それが人生というものですからね。」


ここで初めて崩壊の兆候が表れる。

女の肌に脈のような枝分かれした亀裂が走り、赤く脈動していた。四肢をすべて失い、〈血〉の能力で生成した触手もすでに消えかかっている。


…もう限界が近いのだろう。


「さて、最後に教師らしいことも出来ましたしね。

もうこれで‥‥————あ、大事なことを一つ忘れていました…」


「なんだ。」


「‥‥少年。最後に君の名前を教えてください…」


これまで数々の質問を投げかけてきた女が死ぬ間際に尋ねたのは能力者と戦い、逃げ、最後まで生き残った中学生の名であった。


「…梶原 宗助…」


少年は女の目を真っ直ぐに見つめて答える。だが、その瞳からは目の前で頭と胴体だけになり、もう間もなく死を迎える女に対する哀れみの感情がしょっぱい・・・・・雫となって流れて落ちていた。


————目の前にいるのは吸血鬼だ。それは分かっている。


それでも溢れ出る涙を収める事が出来ず、涙が流れる理由も分からず少年は自分の心を見失いそうになってしまう。身体が大きく、不器用で、鈍臭くも気の優しい梶原宗助という少年が持つ「気の優しさ」が思わぬ方向に転じた事態に本人が気付かぬまま内側で唸る感情の波に飲まれかけていた少年を救ったのは奇しくも仇である吸血鬼であった。


「…忘れてはいけませんが、私は君の友人達を殺した能力者です。

当事者がこれを言うのは失言かもしれませんが…少年。

私を恨んでも良いですが、私への恨みだけで人生を不意にする事は無いように…」


女は吸血鬼で友人達を殺した仇だ。

〈血〉の能力に目覚め、大量虐殺を行った非道で、劣悪で、狂気に身を落とした怪物だ。けれど…それと同時に一つの人生を歩んで、苦しんできた一人の人間だ。


女の人生を聞いた少年はその真意に気付いた事で女に対する意識が大きく変わってしまっていた。


…友人たちを殺した吸血鬼としての女。一人の人間であり、子を持つ母である女。


この相反する二つの要素に頭の理解が追い付かず、少年の心が悲鳴を上げる。


けれども、脳内で生まれる電波の言葉に内在する力は軽く、本物の言葉に宿る力は重く、深い。少年の理解は吸血鬼たる女が口に出すことで終結し、感情の波は静寂を取り戻す。



すっ…と小さく鼻で息を吸った後、少年は返答を送る。


「……わかってる」


「…少年。これから君達が迎えるであろう『未来』が少しでも明るければ…私も後腐れなく地獄の業火に焼かれに行けます…」


「‥‥!!」


そう言った直後、女の身体を支えていた〈血〉の触手が消え、床に落下しそうになる女を少年は反射的に手を差し出して受け止めていた。随分と小さくなってしまった女を抱きかかえながら少年が不安な表情で女を見つめると、


「‥‥ありがとう、梶原 宗助君。

君との鬼ごっこ…悪くはありませんでしたよ…。」


精一杯の清々しい笑みを浮かべた後で女は血の泡となって消えていった。






…‥ピチャ‥‥


真っ白な左腕が血の池に落ち、男物のスーツがそれを隠すように倒れ込んだ後に女が飲み込んでいた二つの指輪が静かに波紋を刻む。


女から流れ出た血は武道場の外へと流れ出し廊下を赤く染め上げ、廊下に転ぶ生徒や教員の亡骸は血の海に浸る。やがて廊下から異臭を含んだ風が武道場に入り込んだ頃に少年は我に返る。


「‥‥‥俺は…」


少年は女の問いについて考えていた。

「力」を持たない脆弱な自分がこれからの『未来』をどう生きていくのか…。

「今」自分が何を為すべきなのか…。


「‥‥俺は…」


少年は一つの答えに至る。

正直に言えば、この選択…この答えが合っているのかは分からない。

しかし、あの女の言葉を借りるとするならば…この選択が合っているか否かは最後になれば分かるはずだ…————。



「…俺は「強く」なる。「強く」在り続ける‥‥!」



梶原は足元に転がっていた血濡れた「竹刀」を握りしめ、天井へと突き立てる。


人の持つ力が再度問われる事となる「開花期」を生き抜くためには「強く」在らなければならない。未知の「力」を持つ「能力者」に比べれば、何の「力」も持たない無能力者は淘汰されるべき運命なのかもしれないが、それでも抗い続ければ何が起こるのか分からないのが人の生きる道だと…梶原は命懸けで学び得た経験を糧に己の運命を定めたのであった。




—————少年は『未来』へ備える———————————







———————・・・——————————




 男は一人、夜道で車を走らせていた。

どこへ向かうわけでもなく…ただ誰の視線も浴びる事がない一人の空間を求めるうちに習慣となってしまった夜のドライブ。男の乗る車の助手席には赤黒く染まった竹刀が携えられ、男の首には二つの指輪が付いたネックレスが掛けられていた。

もう振るう事が殆ど無い竹刀は彼が中学時代に手に入れたものと同一の物であり、どういう原理なのかは分からないが〈血〉の能力者であった女の血が染み付いた竹刀は朽ちることも折れることもない強固な武器として今もなお梶原宗助の傍に在り続けていた。


 女が残した二つの指輪は梶原が肌身離さず身に着けていた。

死ぬ間際、あの女が言っていた〈子ども〉に指輪を返そうと、あの事件以降、梶原はずっと情報を探していたのだが三十年以上経った今でも見つけられてはいない…。


「‥‥‥‥。」


‥‥中学校を襲った「能力者」の事件は世間に大きく公開されていた。

当時は未成年であった梶原の情報が外部に流れることは一切無かったのだが、校内の数か所に配置されていた監視カメラに女が〈血〉の能力を使用していた映像が録画されていた事から政府及び警察はこれを「能力者による大虐殺事件」として世間に公表し、メディアでは「〈血〉のプロローグ」と名称づけられたこの事件を発端に世界では「能力者」による事件が活発化する事となり、世界は混沌を迎える事となった…。



‥‥あの事件から三十五年の時を経て、「力」を求め、「強さ」の深みへと進み続けた男は気が付けば裏社会を牛耳る長として君臨していた。「能力者」を素手で瞬殺するほどの強さに至った彼は「人」として「最強」を名乗る事を許されたのである。鍛錬の果てで人間が到達できる強さの頂点へと辿り着いた男であったが、そんな彼に待っていたのは「称賛」でも「敬意」でもなく、男の異次元めいた「強さ」に怯えた「恐怖」の眼差しだけであった…。


「‥‥ん…」


男は前方を見ると信号はすでに青に変わっていた。幸いにも人気ひとけがあまり多くない深夜帯であり後列の車がいなかった事もあり、男はゆっくりとアクセルを踏み込む。


「‥‥」


…男は白髪頭を掻きつつ考え込む。

生まれついて与えられた天性の肉体と長い何月をかけて鍛え上げられた筋肉を有する歴史ある肉体は齢を幾重に重ねても衰えることはなく、依然として男を「最強」たらしめていたのだが、未だに男はあの時の答えが導き出せずにいた。


『‥‥「力」を持たない…その大きな身体しか持たない君は…この「力」有る者たちが生まれ始める時代で…世界で…未来をどう生きていきますか…?』


その問いに当時の自分は「強く」なり、「強く」在り続ける道を選んだ。

だが「最強」の名を冠され、還暦を迎えた今も「強く」在り続けているにもかかわらず、この胸にある「むなしさ」は一体何なのか…と自問自答する日々が続いていたのである。




 車はいつしかトンネルに入り込んでいた。連なる山々を貫通させて出来たトンネルは気が遠くなるほど長く、天井に並立する橙色の灯りが男の顔を照らすが、その表情には未だ影が差したままで晴れる事は無い。


この長いトンネルを抜け、高速を降りた後に下道で家路につく‥‥と言うのが、男の習慣であったが今宵はその予定が大きく狂う事になる。



——————男が家路につくことは二度となかったのだ‥‥。





「————————!!」


‥‥トンネルに入り、しばらく進んだ後で大地が鳴動する。

初めは気のせいではないかと感じた微細な揺れは秒を経るごとに強さを増し、やがて異常事態だと判断した男は車を急停止させた。揺れは継続し、やがて遠くで何かが崩れるような音がした後に全ての電灯から光が消え、トンネル内は闇夜に包まれる。


「‥‥地震か…。」


突然の大地震に男は意識を切り替える。もしや「能力者」による攻撃とも考えられたが、山一つを長時間揺さぶる事の出来る「能力者」がいるとも考えられなかったために男はその考えを捨てる。


何にせよ外の状況が分からなければ判断が付けられない。男は携帯の電源を入れ、外部との連絡を図るが、電波が通らない場所にあるためか…連絡は出来ない。


「ちっ…」


仕方なく男はトンネルを逆走し、入口へと戻る事にした…。






「——————‥‥ははは。」


…悪い予感が現実に起き、既視感を感じた男は乾いた笑い声を零し地面にへたり込む。トンネルの出入り口は二つとも瓦礫で塞がれており、瓦礫を除去しても別の瓦礫が落下してきたため男の力を以てしても…この状況を打破するのは絶望的であった。


…あの地震からどれほどの時間が経っただろうか。

男の身体は痩せこけ、歴史ある肉体は完全に錆び付き、年相応の貧弱な肉体へと後退していた。空腹に腹は痛み、栄養不足で頭痛が奔る中‥‥死の淵に追い込まれた男の頭にあったのは…やはり、あの質問への答えであった。


「『未来』‥‥」


確かな死を背後に控えながらも男は竹刀を抱えながら自らの人生を振り返る。

不器用で、鈍臭くて、その癖に気は優しかった身体の大きな少年は〈血〉を操る「能力者」の女との出会いを経て「強く」在る道を志し、四十年の時を経て多くの部下を従える裏社会の支配者となり、「最強」の称号を経た。

そして、今まで「最強」で在り続けたが胸の中にある「むなしさ」の正体や女の質問の答えは未だに分からない。


「…振り返っても…結局分からねぇよ…。」


男は血の染み込んだ竹刀に愚痴を言う。だが、返答はない。

自分の道が正しかったのか…間違っていたのかも分からない。

「力」有る能力者のいる世界で「強く」在る事を選択した身体の大きな少年の行き着いた先が、このような結末で終わるなどと誰が予想できただろう。


「‥‥俺は…どうすれば良かったんだ…。そもそも…」


——そもそも、なぜ俺は‥‥「強さ」を望んだ…?

———「力」有る「能力者」を前に当時の自分が真に感じていた事は何だ…?

————何故、「強さ」を求めた? 何を持って「力」を欲した…?

—————「強く在る」事の先に自分はどんな〈未来〉を見ていた…?



【本当に俺は‥‥『未来』を見ていたのか…?】



「‥‥ゔえぇっ‥げぇぇっ‥‥!!」


内臓を吐き出しそうになる程の吐き気が男を襲う。触れてしまった考えの一つに男は自分を見失いそうになる。


「三十五年」。

この長い月日をかけて男は「力」を手に入れ最強となった。

だが、悲しきことかな。男は何のために「力」を求めたのか…「力」を求める事に没頭する中で「力」を手にした先の〈未来〉を忘れてしまったのだ。


【‥‥気づいたときには…もう遅い…】


「‥‥‥は‥‥っはははははは。俺は…おれは…おれは…」


———————何をしてきたんだっけ‥‥?


一筋の涙を流す男の脳裏に遠い過去の映像が流れる。

血だらけの友人達。光を失った虚ろな瞳で自分を見つめる屍。

「力」無く「能力者」から逃げ、絶望する自分。


『‥‥答えは君がこれから生きていく中で見つけていくといい。

これから君がどれだけ道を踏み外そうと…どれだけ道を間違えようと…最後に振り返った時にはきっとそれなりの答えは出せるはずです。それが人生というものですからね。』


 確かに答えは出た。

「三十五年」かけて「力」を手にした男の選択は…間違っていたのだ。


『…俺は「強く」なる。いや、「強く」在り続ける…!』


「何のためだ…どうして、あの日の俺は「強さ」を求めた?

どうして「力」を手に入れることにこだわり続けてきた?

誰のために、「強さ」を求めた?

誰のために、この「力」を振るいたかっ————」



———————あ…。


意識が遠のき、過去の自分に問い詰める中で男は気付く。

あの…全てを失った日に少年が心から望んだ「強さ」。

「強く」なり、「強く」在る事を魂に固く誓った少年が心から求めていたもの…それは「友」。


大きな身体で、不器用で、鈍臭い自分を認め、対等に見てくれた「友」。

「自分」という居場所を与えてくれた「友」を守るために…少年は、男は「強さ」を求めたのだ。



…しかし、その願いは初めから破綻していた。

「強さ」を求め、「力」を手にしたところで梶原宗助という人物を認めてくれた「友」が戻る事はない。男が新たな「友」を得ようとする意志や機会があれば結末は違っていたのかもしれないが、男は「強さ」を得ることに執着し「友」を得る機会に恵まれなかった。


「強さ」を求めたとしても「強さ」に意味を持たせなければ、度を越えた「力」はただの「恐怖」でしかない。

自身を見つめる周囲の目は梶原宗助という「力」を持った存在に対する恐怖のみでそれ以外の感情は入り込めないほどに「最強」の名を冠した梶原宗助という男は恐ろしいほどの「強さ」であったのだ。


男は「強さ」を求め、「力」を手に入れた。

だが、男が「友」を得る事は無く「強さ」に囚われてしまった。



【‥‥だれか…だれか…俺を止めてくれ…】


胸の内で居座っていた男の『むなしさ』。

その正体は「強さ」に囚われ、人の温かみを求めていた心の叫び。

もし彼の「強さ」を打ち砕くような存在がいたとしたら、彼が永遠に「強さ」に固執し、本当に守るべきものを見失うことはなかっただろう。



彼を止めてくれる「友」がいたならば、彼は道を間違える事は無かったのである。




…そして、男は独りで死を迎える。

やせ細った大きな身体。天が与えてくれた天性の肉体は彼を最も苦しめた悪魔の贈り物だった。この天賦の才ともいえる大きな身体さえなければ、彼が「強さ」に囚われ、孤独に生きる事は無かったのかもしれないのだから…。




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