12.「梶原 宗助 Ⅰ」


〈第一校舎〉の四階には〈ゲーグナー〉に関する資料や授業で扱う教材、娯楽本や辞書…更には料理本に至るまで…ありとあらゆる書物を保管し、生徒や教師が自由に読書に勤しむ事が出来る物静かな空間…「図書室」が存在する。


常時解放されている図書室の存在を知る者はまだ少なく、利用する者も校内では限られているため今は物寂しさすら感じさせる「図書室」だが、その室内には色とりどりの本をたずさえたチョコレート色の本棚がいくつも鎮座しており、その風景は本を宿した木々が集まる「本の森」を想起させる。


…もし、求める本を探すうちに森の最奥まで足を踏み入れてしまえば、周囲を囲む本の森に踊らされ道に迷う事もあるだろう…。


右か…左か…と進むべき方向も分からず森の中を右往左往していると、僅かに何かをったような芳ばしい香りが鼻をかすめる。


焦げた匂いにも近い…苦みと渋みを彷彿とさせながらも優しげのある香り。


すんすんっ…と、いつしか迷える者は犬のように何度も匂いを嗅ぎながら芳ばしい香りを頼りに森の中をさまよい、いつしか当初の目的すら忘れかけた頃に香りの根源は静かにその姿を現す。



森の中で隠れるように佇んでいたそれは「カフェ」と呼ばれる場所であった。




…ゴリ…ゴリゴリ…


何かを回し、砕いて削るような音が「図書室」に響く。

静かな空間を壊しかねないような音であったが、手動の鉛筆削りで新品の鉛筆を削ったような音にも近い…木と金属が擦れ合う音は聞いていて決して不快ではない。


‥‥そして、「図書室」の空間に浸透していくように小気味良い音が鳴り始めてから十秒後、突然音が止まってしまう。


‥‥————再び訪れた沈黙。

「図書室」には物静かな空気が流れるが、先程まで小気味良い音が鳴っていたせいか…逆に物足りなさを感じ始めると、


‥‥ぽわぁ‥‥


乾いた鉢植えにジョウロで優しく水を注いだような音が聞こえ、先程よりも芳ばしい香りが色濃く鼻を突き抜ける。


決して焦らず、静かに…定められた量と時間配分で細口のポットから注がれた湯は土色の細かい粉と薄茶色の紙フィルターを通ると、黒い雫となって透明な容器へ流れ落ちていく。

ゆっくりと…着実に雫は容器を満たしていき、ポットの湯が全て無くなる頃には削り砕いた粉にあぶくを含んだ厚みのある層を形成していた。


…そして、ついに工程は最終段階を迎える。


水を入れ、中火に掛けておいた鍋の中から薄い湯気を放つ白いカップと受け皿を取り出し、乾いた布巾で素早く水滴を拭き取った後、カップに黒い液体を注ぎ込む事で一杯のコーヒーが完成を迎える。



ある種の芸術品といっても過言ではない…渾身の一杯である。



 


…外側から見ると「凹」の形をしている〈第一校舎〉は三階の「食堂」部分から上階にかけてひらけた構造になっているため、食堂方面の窓際に設置された「カフェ」のテーブルからは階下に広がる「食堂」と生徒達の姿を見渡す事が出来る。


「‥‥」


「図書室」の中でも目立たない場所にある「カフェ」に生徒の姿は無い。

だが、窓際に並ぶテーブルには男が一人、コーヒーをすすりながら階下の風景を静かに眺めていた。


「‥‥あついな‥‥」


先程まで着ていた黒い外套を掛けた椅子に男は背を預け、小さく溜め息をつくように声を漏らす。

「図書室」に冷暖房は配備されているが、現段階では稼働しておらず、「食堂」にいる生徒達の多くがブレザーを着用していることから、今日こんにちの気温が高い…というわけではない。


…男が暑がりなタイプか…と問われれば、むしろ男は寒がりなタイプである。


…男の手元には白いカップに入ったコーヒーの他に一冊の本が添えられていた事から、本の内容が胸を熱くさせるような内容のものであったか…と問われれば、男が読んでいるものは生徒の名や情報が記載されている生徒名簿であり、特に胸を熱くさせるような物ではないが、生徒の名を覚えることに少しだけ頭が熱を出し始めていた…と言えば嘘ではない。



男に「あつい」と言わせたもの…。

それは男がすすったコーヒーであり、ただ単純に男が猫舌であった…という話である。



—————・・・————



「‥‥これが「食堂」‥‥」


男は「食堂」のあまりの広さに驚きを見せる。

教室のある二階から階段を上がった三階にある「食堂」は今までの階層とは一風変わった構造をしていた。上を見上げれば天井が無く、三階の中間に位置する「食堂」から上階を全てぶち抜いて作られた開放感のある空間が展開されていたのである。


「食堂」には、ポインセチアのように濃い赤色のパラソルが付いた八角形のガーデンテーブルがいくつも点在し、その周囲には数多くの出店でみせが並んでいる。


各出店の前には生徒達が並び、笑顔を浮かべる者や出店の様子をうかがう者など…食事を心待ちにしている生徒が多い事がうかがえる。


「すすんっ…」


「食堂」に漂う匂いに男は鼻で呼吸する。

その美味なる香りに意識を沈め、抱える悩みなど全て消し去ってしまいそうになると、別の刺激が男を現実に引き戻す。


「…いっ…!」


…先程から激痛と無痛の中間の痛みが頭部に継続していたため下手に男が気を抜くと、痛みの天秤が一気に激痛の方へと傾き始める。再び感じた痛みに耐えかねた男は目に涙を浮かべながら痛みの元凶たる人物を見上げる。


「‥‥いい加減離してくださいよぉ…最上さん…」


「…おう! すまんな、カジ」


梶原 宗助は自身が尊敬する男…最上もがみ秀昇ひでたかに再び懇願すると、ようやく彼は掴んでいた髪を放してくれた。放す際、さりげなく乱れた髪を直してくれるあたり、やはり彼は尊敬できる人物だと…男は再認識する。


…そもそも、なぜ彼がこのような事をしたのか…いや、する羽目になったのかは言うまでも無い。全ては自分に意気地が無い事が原因であり、彼は背中を押してくれているのだ。



『…!』

『‥‥?』


…教室前であの男と目が合った時、つい反射的に目を逸らしてしまった。


理由は分かる。もちろん、自分の中にある「誇り」や「自尊心」といった…つまらない理由ではない。ただ、単純に自分がどうすれば良いのか分からなかったのではないか…と梶原は考えていた。



…だが、それが正解なのかも男には分からない。




 

 床は白いレンガに覆われ、その上に紅い傘が付いた八角形のテーブルがいくつも並んでおり、まるで白い大地に咲き乱れる紅い花々を連想させる。上空に広がる青々とした景色も相まって、校内を見渡すことも出来る「食堂」の外観は「おしゃれ」という言葉が似合いそうな場所であった。


 元々「二」の字型で存在する大小二つの校舎。

そのどちらも外壁を黒いレンガに覆われているが、その違いとして挙げられるのは主な学校生活の場となる〈第一校舎〉の方が〈第二校舎〉よりも大きく、〈第一校舎〉の外形は一部大きくえぐれた部分が存在している事から「凹」型になっている。


「…どうやら、この「食堂」から上階にかけて抉れた部分が「凹」の部分に当たるようだ…」と灰原は判断したところで周囲を見渡しながら、改めて「食堂」の外観に感心していた。


「…あれは…?」


周囲を見渡す中、生徒達が密集する出店の中にいる人物を発見した灰原は目を奪われていた。



…揺れるは金色のシルク髪。

陽が差す屋外故に際立つ透明感のある白い肌。

橙と黄金が入り乱れるトパーズ石のような橙黄色の瞳。

細く高い鼻に桜色の柔らかそうな唇と…質の高いパーツを携える整った顔立ち…。



細い長身から際立つ胸部と張りのあるでん部により妖艶ようえんさを含んだ身体を持つ彼女だが、その妖艶性さえも彼女の「美」は軽く凌駕りょうがし、神気を帯びた彼女の「美」は妖艶さから生まれる『情欲』を軽く喪失させるほどに圧倒的な威力を誇るものであった。


……ただ、それはあくまで彼女の容姿だけで発揮する魅力に過ぎない。彼女が服装や髪形、体勢や表情に至る…些細な行動を起こすだけで彼女の「美」は天を貫き、ありとあらゆる「美」を侵略し尽くしてしまうだろう…。


そんな「美」の超越者たる彼女が担当しているのは「保健室」で生徒の治療を行う事であり、昨日「保健室」を訪れた灰原に少なからず影響を与えた人物。

まさに「保健室の麗人」とも呼ぶべき、アンドロイド=ナノマシン:クラウンが全ての出店でみせの管理を行っていたのである。




…しかし、数えれば十以上ある出店を一人で管理することは不可能に近い。

むしろ、出店が一つであったとしても五十人以上の生徒を捌き切る事すら困難だが、それを可能とするのは彼女の常識を外れた超高速移動であり、それらを巧みに利用した彼女の影たる分身が各出店の管理を行っていたのだ。


「…なんだ。あの超絶美人集団…」


「食堂」に着いて早々、出店に並ぶ生徒達から垣間見えただけで伝わってきた「美」の神気に圧倒されたのか…志村は天然パーマの茶色頭に両手を当てながら感想を述べる。

それが「美」の最高峰を目の当たりにした常人の反応ともいえるが、すでに彼女と出会っていた灰原は意外な所で見知った顔を見かけた事に驚いていた。


「‥ん? ありゃあ…保健室の姉ちゃんじゃねぇか。」


「最上も保健室に行ったのか?」


「‥まぁ、ケガした奴を運んだ時にちょっとな…。熾凛も行ったのか?」


「あぁ。昨日死にかけていた所を蒼に助けてもらって…。その後、命令権で‥‥」


「え? 熾凛、死にかけてたのかよ」


「…昨日の戦闘で「アインス」に…」


「ちょっと! そんな事は良いから早く席取っちゃいましょう。」


そういう彼女の表情は台詞とは裏腹に「ふふん」と自慢気な笑みを小さく浮かべており、それを見た最上は冷静に一言述べる。


「…いや、なんでドヤ顔…?」







「…とまぁ、昨日の戦闘はこんな感じだな。」


「…そうか…最上はすごいな。

人命救助と〈ゲーグナー〉の対処を同時に行うとは…」


「…いや、熾凛達も凄いと思うぞ。

渡り廊下を覆う程の「ヌル」に「アインス」二体…。

俺らの所は「ツヴァイ」…だっけか?

あれに手間取っていたけど、あとは「アインス」一体とか「ヌル」が数体…って感じだったな。」


「やっぱ、他の班と協力できなかったのが痛かったよな。」


「そうですね。他クラスの方々は出会って早々に別れてしまいましたからね。」


八角形のテーブルに男五人が座りながら昨日の戦闘について話し合う。


『…俺らが席取っていてやるから、女子二人は先に飯取って来な』


…と、最上の提案によって蒼と雨崎は先に出店へ向かい昼食を取りに行っている間に昨日の戦闘の事が自然と話題に上がったのだ。


 エントランスでの二人の会話から予想していたが、最上と梶原は同じ区域を担当していたようで校舎の外れにある「陸上競技場」で戦闘をしていた…という。



最上の話では「陸上競技場」は生徒達の生活拠点である「マンション」や隣に建つ「プール棟」とは正反対の場所に位置し、「グラウンド」よりも少しだけ狭い…との事らしい。



塩崎によって【ML】を勝手に決められてしまった最上は他の生徒が【ML】を探す中、校内の施設を全て探索していたようで偶然「武道場」を探索していた所で灰原達と出会ったようである…。


「‥‥。」


【ML】争奪戦の話題が挙がったにも関わらず、梶原は一人沈黙を貫いていた。

元々、灰原と最上と蒼の三人以外は梶原とは初見であったため、この状況の中では灰原か最上に話題を振られなければ梶原が話す事は無い。


それでも、あまりの静かさに灰原はもやもや…とした違和感を感じ始める。

しかし、先程教室前で目線を外されてしまった事もあり、灰原自身も梶原に言葉を掛けづらくなっていた。


だが、次第に灰原のもやもや…とした感情は膨れ上がり、ついには嫌気を感じ始めた時、唐突に最上が立ち上がり一言。


「…便所、行きてぇな。志村か…進藤、便所がどこにあるか知らねぇか?」


「「‥‥へ?」」


思わぬ問いかけに二人は変な声を上げてしまう…。

そして、三秒ほど最上の目とお互いの目を見合った後、二人は自然な流れを装いながら返事を返す。


「…さ…さぁ、どこかで見たような…。志村さんは知ってますか…?」

(どどどど‥‥どうしましょう…志村さん…っ!)


「…そ、そぉだな。確か…下の階にあったような気が…する…よな…?」

(まぁ、落ち着け。ここはとりあえず…最上の台本通りに動くしかねぇ‥‥。)


「ああ、そういえば…僕も見た気がします…。」

(…わ、分かりました。)


「‥‥な…何か俺もトイレ行きたくなっちまったなぁ…良かったら一緒に行くか…最上?」

(…とまぁ、こんな感じでどうでしょうか? 最上さん‥‥??)


「…ぼ、僕も行こうかな…?」

(‥‥ちょ、ちょっと…! 僕を一人にしないでくださいよ…!)


「お、おう! そうだな、一緒に行くか。」

(…わりぃわりぃ‥‥)


二人の内心を表情の硬さや視線から予想した灰原であったが、記憶の無い灰原でも分かりやすい二人のやり取りに比べ、最上は自然な笑みを浮かべながら返事を返す。


「…そうか! 悪いな、志村に進藤。

じゃあ、そういう訳で…しばらく席を空けるからよ。

カジと灰原、ここを頼んでも良いか?」


「…あぁ、構わない。」


「…うすっ…任せてください‥‥」


「おう! じゃあ、あとは任せたぞ!」


小さく返事をする大男に対して最上は明るく声を掛けた後、二人を連れて去っていった…。




———————・・・—————




「…俺がちょうど五十を迎えた時だった…」


三人が去って数分の沈黙を経た後、唐突に梶原は口を開く。


—————彼が死んだ時の年齢だろうか…。


突然の「五十」という数字であったが、灰原でも少しは見当がついていた。


なぜ梶原がその話題を今振ってきたのかは全く分からなかったのだが、紅いパラソル越しに何かを見つめる梶原の遠い視線に灰原は何も返答する事が出来なかった。


「‥‥俺が生きた時代、世界ってのは…おかしな能力を持った奴が出始めた時代でな…。そういう面では少しだけ「ここ」と似たような世界だった…。」


「‥‥。」


「…確か…あれは「開花期」だったか…」と思い出すように大男は小さく独り言を呟いた後、大男は話を続ける。


この世界しか知らない灰原であったが、逆に「神様ゲーム」のような【ML(マテリアル)】も【Rs(ランクスキル)】も何もない世界というものを想像してみる。


…その過程として、灰原は【ML】争奪戦での梶原との戦闘を思い出していた。


灰原は創造を駆使し、梶原は己の肉体だけで戦いに臨んだ。結果、冷静さを欠いていた梶原が敗北したが、創造を扱う事もなく肉弾戦のみで戦闘を行っていたならば、灰原の勝利は絶対にありえなかっただろう…。


「…ガキの頃に噂されていた「能力者」に当時は友人達と胸を弾ませていたものだった。まるでアメコミ漫画のような…いや、非現実的…っていうのか。そんな夢のような存在に胸を膨らませていた…」



 そこで男の表情は重々しさを増す。

「絶望」という表情とはまた違う…見開いたまなこ、眉間に寄せられたしわ

鬼気迫るような迫力でありながら…どこか寂し気で、悲しそうな…重圧な後悔の念がその顔には表れていたのである。



「…卒業を控えた十五の冬‥‥とある事件が起きた。

噂程度に騒がれていた「能力者」が俺の通っていた学校に現れたんだ…」



大きな男は自らの人生の転部となった一つの事件譚を語りだす。

男の人生を左右する事となった一つの出会いと多くの決別を生む事となった出来事…。


そして、この「神様ゲーム」に至る…梶原 宗助という男の始まりの物語を————。





~~~~~~~・・・~~~~~~~





「おーい、宗助。お前は何でそう…ドジなんだよ。」


「…まぁまぁ、宗助だって悪気はないんだよ。

他の奴より少しだけ不器用なだけだって…」


「…ご、ごめん。俺…昔から運動神経悪くて…」


「…しかしよぉ、普通ゴールの目の前でシュート蹴って外すかよ。

逆に、教えてくれよドジ。

どうやったら…あんなロケットみたいにボールが真上に飛んでいくんだ?」


昼休みが終わる十分前、友人たちに囲まれながら大きな少年はとある場所へと向かう。他の生徒と比べても二回りほど大きく、太い体を持つ梶原 宗助は成長期に伴い急激に成長した自分の身体を上手く操る事が出来ず、ひどく不器用な事から「ドジ」という愛称でも友人達に呼ばれていた。


「…じゃあ、俺らは先に戻ってるから。

チャイムが鳴る前には戻って来いよ、ドジ助。」


「…また後で、宗助。」


「…逆に、後で俺にもロケットシュート教えろよ、ドジ。」


「…う、うん。いつもごめんよ。」


梶原が返答すると他の三人は先に教室へと向かう。その理由は梶原の正確な体内時計と成長期に伴って急成長した無駄に大きな身体によるものであった。


…ガラッ…


友人たちの背を見送り終えた後、少年は校内の隅に位置する多目的トイレの扉を開ける。少年は昼食から三十分後には決まって大きい方の用を足すのだが、通常の個室トイレでは梶原の大きな身体は入らないため特別に許可をもらって多目的トイレで用を足しているのである。


…しかし、今日に限って少年の便通は良くない。

本日の給食で出た季節外れの冷凍ミカンを食べすぎた影響か…用を足し終えるのに時間が掛かりそうだと少年は即座に判断し、溜め息をつく。


——————あの担任は許してくれないだろうな…。


時間に厳しい担任の男教師の顔を思い浮かべながら、少年は下腹部に意識を集中させ始める…




ブツッ……キーンコーンカーン…



 いつものチャイムが校内に響き渡る。

古い校舎の為か…チャイムが鳴る前には決まって配線を繋いだような微弱な電子音が流れ、それを感じた生徒達は「もう授業の時間か…」「あぁ、やっと授業の終わりか…」と、授業や休憩時間の開始と終了を判別する。


チャイムよりも小さな電子音がチャイム代わりになっている…というのは何とも不思議な話だが、電子音に気づいた生徒達にとってはそれが日常であった。


 五限の開始を告げるチャイムに生徒達の多くは授業が終わった後の事を想像していた。


…ある者は帰宅後の余暇をどう過ごすか…と思いを弾ませ、

…ある者は今後の進路について頭を悩ませる。


今日を見る者、明日を見る者…。目線の異なる者同士が集まる空間を指揮するのは若い男教師…なのだが、チャイムが鳴ったにも関わらず生徒達の担任は現れない。普段から時間にも生徒にも厳しく、黒スーツと右腕に着けた銀時計が特徴的な男教師が遅刻する事に生徒達は「何か大変な事でもあったのではないか…」と声を上げ始める。


…事実、春から冬までの長い月日を経ても男教師が遅刻をした事など一度として無い。むしろ、時間にマメな男教師は大抵授業開始の五分前には教室に現れるのだが、その五分前にも現れず、チャイムが鳴った今でも男教師は現れない…。


「…明日は雪でも降るかもな…」


冬季なのだからその可能性も無くはないのではないか…と突っ込めそうな冗談を誰かが言い始めた時、ガララッ…と音を立てて教室の引き戸が開けられる。


「ようやく来たか…」と生徒達の全員が教室の引き戸に視線を集中させると、予想もしない人物がそこには立っていた。



授業開始のチャイムから十分経過した頃である…。



「‥‥失礼しますよ‥」


そう言って現れたのは、男物のスーツに身を包んだ長髪の女であった。


「‥‥へ‥‥?」


突然現れた女に生徒達は目を丸めていた。担任かと思えば、教室に現れたのは見ず知らずの若い女性で、黒が映える髪質の良い長髪を持ちながらも、なぜか丈の合わない男物のスーツを着込んだ女。不思議な格好でありながらも、どこか清々しさすら感じられる微笑みを浮かべた女に数人の男子生徒が胸の脈動を感じていた。


 初めは丁寧に御辞儀をしてから教室に入ったかと思えば「よいしょ…」と教壇の中央にある教卓に女は腰掛ける。しかし、何を語るわけでもなく…何かにひたるような面持ちで天井を見上げる彼女にどう言葉を掛けたものか…と生徒達の中で困惑の念が生まれ出した頃…


「…こほ」 「ごほっ…ごほっ」


…前席に座る生徒達が咳き込み始める。もちろん、年甲斐もなく沈黙に耐えかねて咳払いをしたわけでも…冬季における乾燥や風邪によるものではない。


その理由は女から放たれる生臭さと鉄が入り混じったような…むせ返るほどに強烈な臭いであった。


それは閉め切った教室にすぐさま浸透していき、生徒達は臭いに顔を歪め、ひどい者では吐き気を催す者まで現れ始めると、その様子を見た女は再び口を開く。


「…あらあら。そんなに臭ってます?

あの人、外食ばかりで…ちゃんと私の料理食べないから…」


「‥‥?」


まるで自分の夫に向けて言うような台詞を吐いた女に生徒達は困惑の表情を浮かべる。謎の異臭に苦しめられながらも数人の生徒が女の正体に気づき始めたのだが、女の言葉の真意を理解している者は一人としていない…。


「…ね? あなた…。」


どこか子どもに優しく絵本を読み聞かせるようにそう言った彼女がスーツの内ポケットから取り出したのは高級そうな銀時計の付いた人の腕であった。


「‥‥‥‥」


突然、女の内ポケットから出てきた人の腕と思しき物体に誰もが言葉を失っていた。取り出された腕には生気が感じられないほどの白さがあり、初めは玩具のようにも感じられた。


「本物のはずがない」、「何か本物に似せた玩具に違いない」と、誰もが本物ではないと信じ込もうと息を吞む中、前席に座る女子生徒の一人が一つの真実に気が付いてしまう。



————いつもよりも陰りがある黒スーツ。

どこか嗅いだことのある生臭さと鉄の入り混じったような臭い。

そして、いつも目にしていた銀色の腕時計は明らかに担任である男教師の物…。



「…ゃ…」


女子生徒が叫び声を上げようとするが、叫び声が響く事は無い。彼女が悲鳴を上げる間際、教卓に座る女に一瞥いちべつされると女子生徒は黙り込んでしまったのだ。


だが、別段女の目に恐怖したわけでもない。

むしろ女の眼は適度な温かみを持ち、何から解放されたような清々しい表情は教室に入った直後から変わってはいない。


…ただ、男教師の掌を自らの頬に当て、子どものように愛でていた姿に狂気を感じたのである。


「…私はですね。この時計を付けた「夫」が大好きだったんですよ。

もう片方と違って、この「夫」はいつも私を撫でてくれて、優しくしてくれて…絶対に私を傷つけない。

だから…だから私はですね。

‥‥この「夫」が欲しくて、欲しくてほしくてほしくてほしくて‥‥邪魔な部分の【夫】を取り除いたんです。」


…その言葉、その行動は常軌を逸していた。

女は自らの【夫】を手に掛けた…けれども、女にとっての「夫」は生きている。

女にとっては自分を慰めて、優しくしてくれるあの銀時計の付いた腕が「夫」であり、その他の【夫】は余計な部分に過ぎない…と女は言うのだ。


「…もう片方の【夫】はですね…。

いつも私を殴るんです。叩くんです。

「嫌だ」「止めて」「痛い」「許して」…って何度叫んでも、あの手はいつも私を殴るんです。いつも私の首を絞めるんです。いつも愛してはくれないんです。

くるしくて、苦しくて‥‥死にたくて死にたくて死にたくて‥もういっその事、首をつって死のうかと思った時、私‥‥おかしな力を手に入れたんですよ。」


そして、女が宙に手を添えると次第に赤い液体が集まり、やがて大きな球体へと形を変える。濃い醤油に長時間付けたイクラのように濃縮された深い赤の球体はルビーのような美しさを持ちながらも怪しげな空気を纏い、女の掌の上で浮いていた。


「…初めは訳が分かりませんでしたよ。

どうして、こんな力が私に宿ったのか…。

この力を持って私は何をすればいいのか…って、あの手に殴られながらも考えていました。

‥‥でも、昨日ですね。思いついてしまったのですよ。

これは私の希望を叶える力なんだって…私を愛してくれる「夫」だけを手に入れるために神様がくれた力なんだって…!」


彼女が掌を返して拳を作ると、球体から砲弾のようなものが一発射出される。

赤い砲弾は教室の後方にある出入り口に被弾すると壁のようなものを形成し始め、数秒で出入り口を完全に塞いでしまう。


この時点で出入り口を完全に絶たれてしまったのだが、その事実に生徒達はまだ気付いてはいない…。


「‥‥うっ…」


後列に座る生徒達は砲弾の破裂と共にねた赤い飛沫ひまつに顔を歪め、何人かは女の放つ異臭と赤い球の正体に気が付き、嘔吐を我慢する者もいた。


…赤い球。

…嗅いだことのあるような生臭さと鉄の入り混じった濃い臭い。

…出入り口を塞ぐ瘡蓋のような歪で黒い壁‥‥。



女は〈血〉を操っていたのである。それも…


「…あらあら。【あなた】‥血が臭いって生徒さんも言っていますよ。」


…自分の【夫】。生徒達の担任である男教師の血を操っていたのだ…。





「…いやね。私もこんな力が手に入るなんて夢にも思いませんでしたよ。」


女は黒板の上を見上げながら物静かにそう述べる。


…視線の先にあるのは額縁に収められた『自立』の二文字。このクラスの学級目標として掲げられ、丁寧に毛筆で書かれた『自立』に対し、からから…と乾いた笑い声を出しながら、彼女は言葉を吹かす。


「…はははは…『自立』ですか。

こういう学級目標って大人でも難しいものが多いですよね。

勿論、知っているとは思いますが『自立』は文字通り自分で立つって意味ではありませんからね…」


「そもそも「人」という文字は…」と教卓に座りながらも教師のような口調で彼女は流暢に語り出す。教師の妻だった…という女。もしかすれば教鞭きょうべんっていた事もあったのかもしれないが、この状況で授業のような事をする女の意図が生徒達には全く理解できない。


…むしろ、彼女の狂気に当てられて正常な判断すらできない生徒が大半であった。


「…私はね。「人」は支えて…支えられて生きる者だと思っていたのですよ。

でも、私も…あの人も…そうじゃなかった。

私は虐げられる側で、あの人は虐げる側‥‥。

つまりは獣同様に弱者と強者の繋がりしかなかったのですよ…」


 女は嘆くようにそう語るが、清々しい表情がそれを薄めてしまう。

終始続く女の清々しい表情はこの状況下では不気味でしか感じられなかったが、不思議と生徒達の壊れそうな気を保たせているのは事実であった。


「…でも、この力を手に入れた時にね。私、気づいちゃったんですよ。

どうして…私だけが…? どうして…あの人が強者で私が弱者なのか…。

初めは対等であったはずなのに…いつしか私はあの人の慰み者にされて、ただ暴力を振るわれるだけの人形に成り果てて…」


女は清々しい表情のまま涙を流す。

そして、その涙を【夫】のスーツの袖で拭き取り、「夫」の腕で器用に自分の頭を撫でる。


—————あの担任は家ではどんな姿だったのだろうか…


目の前の女に哀れみを感じた生徒達は春から今までに見た担任の姿を思い浮かべる。


…時間に厳しく、生徒に厳しく、どちらかと言えば短気な方で他の教員への当たりが強い性格だったが、生徒には一切そのような様子は見せてはいない。真面目な者は称賛し、不真面目な者には厳しく当たる‥といった厳しくも教師足り得る人物であると、生徒達は信じていたのだ。


「…でもね。おかしなことが一つだけあるんですよ。

私には強く当たるのに…。

どうして?

どうして。

どうして、どうして…どうしてどうしてどうしてどうして…」


壊れた機械のように同じ言葉を繰り返した後、彼女は本性を表す。


…清々しい笑顔の裏にある彼女の不気味さの正体。

…そもそも、なぜ彼女がこの教室に現れたのか…。

…そして、なぜ誰も教室に現れないのか…。


彼女が次の一言を言い終えた頃、少年少女は地獄を見ることになる。


「…どうして、あなた達は…ゎたしよりもあの人と対等でいれるのかなぁ‥‥?」


闇しか見えない歪な瞳。

邪魔な【夫】を取り除いた事で得た清々しい笑みしか残されてはいない虚ろな表情…。


血濡れた男物のスーツを着込み、銀時計の付いた腕を「夫」と捉える女は…もうとっくの昔に壊れてしまっていたのだ…。




‥‥その数分後、鮮血で覆われた教室に一人の少年が現れる。

他の生徒と比べて身体が大きい割に鈍臭く、気の優しい…梶原 宗助であった。





ブツッ…キーンコーンカーン…


「‥‥なんだ…これ…」


…五限の開始を告げるチャイムが鳴り、無理やり用を済ませて多目的トイレから出ると廊下に何人かの生徒や教員が倒れていた。


「…しっかり…!」


抱き起こしてみると、生徒も教員も身体は何かが抜け切ったように異様に軽く、肌白で、全員に息は無い。死体に触れたことが無かった少年は手当たり次第に覚えたての心臓マッサージを施すものの誰も息を吹き返す者はいない…。


「…一体…はぁはぁ…何が…?」


呼吸を荒立て、訳も分からず少年は周囲を見渡す。

トイレに入っていた数十分の間に校内で何があったのか…少年は考えるが悲鳴や大きな音も聞こえなかった為に原因は分からない。ただ、何かから逃げるように倒れ込む生徒の姿もあったことから、少年は「何者かの襲撃があったのではないか…」と推測を立て校内の探索を開始する。



…担任の死体を見つけたのは、それから五分後であった。



「…先生…」


屋上へと続く扉の前に担任の男教師が酔いつぶれるようにへたり込んでいた。

当然のように息は無いのだが、他の生徒や教員と違う部分は大きな外傷があり、いつも銀時計を付けていた左腕と着ていたスーツが無くなっていたのである。


「…?」


そこで少年は一つの違和感に気付く。欠損した左腕の先からは一滴も血が垂れていないのだ。今までの生徒達同様に担任の身体も異様に軽く、また肌も生気を失ったように白かったのだが、依然として彼らの死因が何であったのか分からない。


————まるで吸血鬼にでも襲われたみたいだ…。


少年は洋画で見たような黒マントの吸血鬼を思い浮かべながら、震える身体を奮い立たせて自分の教室へと向かう…。




‥‥そして、両者は教室で対面するに至る。



「————おや、君は…。そうか、多目的トイレにいたのは君か…。」


「……」


棘のような形状をした太く赤い流動体を生徒に刺し込みながら女は振り返り、教室に現れた最後の生き残りに声を掛ける。


すでに少年の存在は感知されており、わざと生かしておいたような言い方をした女の言葉は少年の耳には入らない…。


ただ少年は教室に転がるクラスメイトや友人達の亡骸に目を奪われていた。失った者の数の多さ、目の前で起きている事への理解の遅れ…。

少年の精神は視界に映る「現実」に付いて行けなかったのである。


…だが、そんな少年の返答を待つまでも無く、女が勢いよく棘を引き抜くと小さな風船から大量の血飛沫ちしぶきが霧散する。


「…ふぅ…」


女はシャワーのように身体から溢れ出る鮮血を浴び、気持ち良さそうに吐息を吐くと…教室一面を赤く染め上げていたはずの大量の血が一気に彼女の元に集まり始める。樹木が大地から水分を吸い上げるように彼女が教室中の血を吸収し終えると、彼女の長髪は床に散乱するほどの長さに成長していた。


更には、血を溜め込んだ影響か…髪色や瞳が瘡蓋のように赤黒く変色し、体表には赤い血管のようなものが表出していた。


「…さて…最後のデザートは貴方だけですね…。」


舌なめずりをする蛇のように女は舌を振るわせ、折れんばかりに首を捻りながら少年を見つめる瞳は狂気に満ちていた。血濡れた瞳からは怪物じみた殺気しか感じられず、女の姿と男物のスーツも相まって、その姿は洋画で見たような吸血鬼と重なるものがあった。


「…お前は…何なんだ…」


恐怖を押し殺しながら少年は吸血鬼に問う。

本当は「お前が殺したのか…」と問うつもりであったが、それは目で見ればわかる事だと…冷静に囁いた少年の本能が別の質問を導き出したのである。


「私ですか。そうですね…逆に、君には何に見えますか?」


晴れ着姿を見せるように女は腕を広げて自らの醜態を晒す。

女の言った「逆に」という一言に数十分前まで話していた友人の口癖を重ねてしまい、少年は酷く顔色を悪くした。


「……」


…目の前にいるのは正体不明の存在。

敢えて、それが何者であるかと問われれば、少年には「吸血鬼」と答えるしかないのだが、しばらく目の前で腕を広げている女を見つめた後、少年は自身でも思いがけない返答をしていた。


「‥‥お前は…悲しい奴だと思う…」


「…は…?」


圧倒的に優勢であり、先程まで笑みを浮かべていた女の顔に初めて亀裂が走る。女にとって目の前の少年はわざと生かしておいた最後の獲物に過ぎず、自身を差し置いて「あの人」と対等な関係を築いていた憎み、恨むべき対象に他ならない。つまり女の考え方で表現するならば、目の前の少年は虐げられるだけの脆弱な存在に過ぎないのだ…。


「‥‥ふふ。ふふふふふっ、いいでしょう…少年…」


残酷に、冷徹に、辛辣に…吸血鬼はその殺意を少年に向ける。


左右に生成した二つの巨大な血の球体を太い棘に変え、女が手を振り下ろすと同時に棘は射出される。本来は棘一本でも事足りるのだが、少年の言葉に苛立ちを覚えた女は無意識の内に二つの棘を射出していたのである。


「—————死になさい」


静かに女は言葉を残し、その死に様を見届ける。

…他の生徒同様、ただ何の抵抗も出来ずにこの少年は死ぬ。苛立ちに身を任せて一撃で殺してしまう事に女は少々の後悔を覚えたが、どうせ一人の少年にそう時間は掛からなかっただろう…と一人納得した後、女は背を向けてその場を立ち去ろうとする。


—————この後は…どうしたものか。


女は自問自答するが、答えは出ない。

「…いっその事、世界でも壊してしまおうか…」と考え、自分の悪役ぶりに少しだけ笑みを浮かべた途端、女の表情は一変する。


「‥‥待て。吸血鬼…」


教室に響くのは少年の声。


声変わりを終えたばかりの年齢にもかかわらず、重々しさすら滲ませるような低い声に女は少しばかり背筋に冷たいものを感じていたのである。


「‥‥少年。君は‥‥本当に中学生ですか。」


背後を振り返り、少しだけ動きを止めた後で女は少年に問う。


射出した棘によって少年の身体は確かに傷つけられたが、死には至っていない。


…では、致命傷に至ったのか…と問われれば、それもまた異なる。


射出された二つの棘は確かに少年に着弾した。壁をも貫通する棘の威力は常人であれば、容易に死に至るもののはずなのだが、少年の身体には僅かな傷しかついてはいないのだ。


「…痛て…」


……破れた制服から顔を覗かせるのは、中学生が有するには不釣り合いなほど分厚く、重厚な筋肉の集合体。細胞レベルで常人とは全く異なる筋肉を持って生まれた少年の身体は成長期に伴い、さらなる進化を得ていたのである。


太く、強く、重く、頑丈…強靭なその肉体は少年が生まれ持った唯一の才能であり、少年が物心ついた頃から嫌い続けていた自身の短所であった。


「…俺は‥こんな身体が大嫌いだった。

無駄に大きくて、ごつくて…動くのがつらかった。

でも…こんな俺でも認めてくれる人達がいた。こんな俺でも認めてくれた人達だったんだよ!」


気の優しい少年は初めて怒りを露わにして激昂げきこうする。


自分を認め、自分の居場所を与えてくれた…大切な存在を奪った吸血鬼。

初めて出会う未知の「能力者」に加え、女の放つ狂気から恐怖で埋め尽くされていた感情は友を思う少年の怒りで満たされ、吸血鬼と化した女に向かい少年は体勢を整え、下半身に体重をかけて数秒‥‥少年は初めて暴力を振るう事に自らの肉体を行使する—————。




—————・・・————




「…いやはや…君には本当に驚かされますよ。」


「‥‥はぁ…はぁ…」


吸血鬼は笑いながら大きな少年を見据える。初めは少年の持つ強靭な肉体に驚かされたものだったが、蓋を開けてみれば戦闘においては素人であったのだ。


『‥‥うわあぁっ!』


『‥‥くそ…!』


『…当たれ…!』


…喧嘩慣れしていない事が丸分かりの体当たりだけを繰り返す少年の攻撃は単一で見極めやすく、カウンターで容易に攻撃を与える事が出来た。それでも、少年の持つ強靭な肉体故か…吸血鬼の攻撃は中々通じなかったのだが、戦闘開始から三分…ようやく攻撃が通じ始めたのである。


「…さて…お遊びもこれまでです。無駄に体力を消耗する君と違い、こちらはだいぶ能力の扱いにも慣れてきました。だから…これでおしまいです、少年。」


言葉通り、女の血を扱う能力は精度と威力を増し始めていた。

膨大に蓄えた血を際限なく、湯水のように使いながらも自らの能力でそれを回収できるために吸血鬼の武器に限度は無い。


「…くそ…くそ!!」


少年は自らの力の無さに腹を立てて拳を床にぶつける。

今まで喧嘩すらした事のない少年はがむしゃらに突っ込むだけで強靭な肉体の持つ機能を半分も生かし切れてはいない。


女の言う通り、無駄に体力を消耗しているだけに過ぎないのだ…。


———————このままじゃ…確実に殺される…。


絶望する中、少年は怒りで上塗りしていた恐怖に再び襲われる。


…相手は〈血〉を扱う「能力者」。


対してこちらは何の能力も持たず、自分の身体すら上手く扱えない無能力者。そもそも、前提として少年に勝ち目など無い事は…明白であったのだ。


「‥‥畜生…!」


少年は教室を背にし、一目散に駆け出す。

幸い教室の入り口付近に倒れたことで容易に逃げ出す事は出来たのだが、それは少年にとって苦汁を飲まされる決断であった。



…友の仇も討てず、少年は逃げ出したのである。



「…あらら、逃げてしまいましたか。少し大人気無かったでしょうかね。」


不敵な笑みを浮かべながら吸血鬼は無防備に背後を見せて逃亡する少年の後ろ姿を見つめる。


「…それにしても「吸血鬼」ですか。これでは本当の「鬼ごっこ」ですね。」


少年の姿が見えなくなってから三十秒ほどの時を経て吸血鬼は行動を開始する。



生死を分ける究極の鬼ごっこ。

二人の最後の戦いが幕を開けたのであった…。


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