10.「誓い」



『‥明日の午前九時。各教室へ集合するように…』


 低い男の声が校内に流れる。


塩崎のものとは全く異なる冷たい声は闇夜に溶け入るように消え、言霊に染み付いた…どこか不機嫌そうな空気だけが校内に取り残された。




 「第一校舎」を後にした男女は初めて出会った「マンション」へと戻っていく。


陽の元では明るく映えていた白い建造物は一転して、夜空の足元では夕焼けにも似た優しい黄橙(おうとう)色の華を咲かせており、その疎(まばら)らに咲いている外観は帰宅する生徒達に安心感を抱かせる。


‥‥ピッ‥‥


付属の端末に〈生徒手帳〉を読み込ませると、軽快な電子音が鳴り、ガラス扉が開け放たれる。


ガラス扉を潜ると、視界には多くの生徒達が〈エントランス〉内に配置されているソファに腰かけ、談笑する風景が広がっていた。



――これはきっと…命の危機を乗り越えたからこそ見られる風景なのかもしれない…。



改めて生きて帰ってきた事実をしみじみ…と感じながら談笑する生徒達の傍を通り過ぎ、二人はエレベーターへと向かう…。







「じゃあ、準備が出来たら…」


「あぁ、すまないな。疲れているのに…。」


灰原が頭を下げながら謝ると、彼女は「気にしないで…」と言って、灰原の部屋の隣にある扉を開けて帰宅する。


「隣の部屋だったのか‥。」と、内心少し驚きながらも灰原は扉を閉めて革靴を脱ぎ始める。


「ふ~。」


…玄関に靴を並べ、リビングに入った途端に灰原は大きく息を吹き出していた。



本音を言ってしまえば、リビングから左手のソファとテーブルのある応接間か…、右手のオープンキッチンから見える畳の空間(スペース)で横になりたいところだったが、そこをぐっ…と堪えて、灰原は左奥隅にあるバスルームへと向かう。



—————事前に室内を調べておいて良かった…。


疲れた頭で部屋を探索した事を思い返しながら、浴室の壁にある端末のスイッチを押すと浴槽に湯が溜まり始める。


…機械単体であれば、操作に苦労していたであろうが、ある程度の文字やイラストが描かれていた事もあり、知識の無い灰原でも難なく操作できたのである。


湯を張っている間に灰原は脱衣した衣服をテンポ良く洗濯機に放り込みながら、

「保健室」で出会った麗人、クラウンに言われたことを思い出していた。



『…破損した衣服は各階付属の廃棄物回収口(ダストシュート)にお入れください。』



麗人にそう指示されたが、「記念に保管しておきたい…」と灰原がダメ元で頼んでみたところ、ある事を条件に許可をもらう事が出来た。


『畏まりました。それでしたら、必ず各部屋にある専用液を散布してから保管してください。』


「専用液…?」


灰原が専用液の「所在」について尋ねたところ、


『はい。適切な処理を行わないと、制服の防御機能が失われてしまいますので…』


…とクラウンの説明があった後、〈マイルーム〉の自室に専用液がある事を教えてくれた。


―――――防御機能…?


専用液の詳しい効能は分からないが、「保存液のようなもの」と判断した灰原は彼女の言っていた事を「保存液を散布しなければ「衣服」としての機能が失われる…」と受け止めていた。


…しかし、破れたとはいえ、この世界で初めての一日を過ごした制服に愛着すら感じて初めていた灰原は今日一日の出来事を思い出しながら洗濯機のスイッチを押すと…


「…!」


唐突に洗濯機の蓋を開け、灰原はブレザーの胸ポケットをまさぐり始める。



〈生徒手帳〉の抜き忘れを心配したためであったが「分かりやすい場所に置こう…」と〈生徒手帳〉を畳スペースに置いていた事を思い出し、再び洗濯機の電源を入れる。



 ピピピピッ…


そうこうしている間に浴槽には適度な湯が張られ、入浴可能のアラームが鳴る。

浴室の扉を開けると、すでにセットされていた入浴剤が湯に混ざり込み、小さな泡(あぶく)が無数に浮かぶ薄い橙色の湯が浴槽に溜まっていた。


心なしか…甘酸っぱいような匂いが鼻をくすぐってくる。


「‥‥。」


入浴の手順はよく分からないが、初めに洗剤のようなもので身体を綺麗にするのだろう…と大まかに予測を立てながら浴室に入り、シャワーの前にある椅子に座り込む。


浴室から入って左手に並ぶ透明なケースに「シャンプー」、「トリートメント」…等の名前入りのボトルが置いてあったため、灰原は名称から用途の分かる「ボディシャンプー」を使い、身体から洗い始める。



…だが、「トリートメント」の用途だけは分からなかった事から、灰原はそれを全身に塗り込み効能も理解できぬままシャワーで洗い流していた…。




「すぅ…。」


甘酸っぱい香りが鼻を潜(くぐ)り抜ける。


…人はなぜ湯に浸かる前に息を吸うのか…。


気合を入れるような行為は身体の疲労を末端へと移動させる為か。はたまた、何かの儀式めいたものなのか。理由は定かではないが、疲労感に比例して快楽を求める本能が引き起こした反射的行動ともいえる。


‥‥チャプ…


片足を入れた直後に小さな泡は足に密着すると、足の芯に入り込むように湯の熱が伝導する。


「ふぅ…」


ぷつぷつ…と足に付いた泡の破裂を感じながら、もう片方の足を踏み入れて吸い込まれるように全身を湯船に浸らせると、身体の芯にある疲労感が一気に殻を破り始める。


「‥‥はぁ~」


灰原は浴室の天井を眺め、大きな吐息を漏らす。

吐息と共に殻を破って溢れ出した疲労感の開放と共に強張った筋肉が緩んだことで身体に流れる血の巡りが改善され始める。


じんわり…と暖められた血流が脳を刺激することで安らぎを感知した脳は本能の求めていた快楽の因子を身体中に行き渡らせていた。


「‥‥」


自然と目を閉じ、脳が送る内的快楽と湯の効能が与える外的快楽に身を預けていたが、しばらくすると意識が遠のきそうになる。


—————いっそ、このまま眠ってしまおうか‥‥。


疲労が搾り取られていく身体に比例し、重くなっていく瞼と遠のいていく意識。

僅かに残った意識の片隅で諦めかけた途端、睡魔から灰原を救う福音が鳴る。


‥‥ピンポーン…


「…!」


突然の音に灰原は身体をビクつかせる。


何事か…と思ったのも束の間、浴槽の壁にあるモニターに人影が映し出され、モニターのボタンが点滅し始める。点滅したボタンを押すと、ブブッ…と僅かに電子音が流れ、画面の向こうにいた人物が声を上げる。


「熾凛?」


金色交じりの長い茶髪を持った彼女が少しだけ髪形を変えた姿でモニターの中に映っていた。金色交じりの茶色い長髪はゴムで一纏めにされ、ゴムから飛び出した丸みを帯びた髪束が何かの尻尾のような形状をしていた…。


「‥‥」


 声で誰なのかはすぐに分かった。


しかし、画面越しで見る彼女の姿に何か胸をくすぐられるような感覚があり、その正体を思案していたため、知らぬ間に灰原は無言を貫く形を取ってしまっていた。


「熾凛~…」


「マンション」は防音設備がしっかりしているため、あまり声を抑える必要もないのだが…律儀にも声のボリュームを抑えながら名を呼ぶ彼女の姿にどこか愛おしさのようなものを感じ、灰原は急いで返答することにした。


「すまない。今、部屋を開けるから先に入ってくれ。」


灰原はモニターにある鍵マークのボタンを押すと、開錠の音がモニターに流れる。

事前の下調べで浴室のモニターやリビングにある小さな電子端末で自由に扉を開閉できる事はすでに確認していたが、実際に使ってみるとその機能性の良さに誇らしさすら感じてしまう…。


「じゃあ…お邪魔します。」


小さな声で彼女がそう言ったのを最後にモニターの画面は途切れ、同時に人の気配を灰原は感知する。


トッ…トトッ…と、どこか探るような足音が聞こえ、灰原は急いで浴槽から立ち上がり浴室を後にする。



色々と驚いた影響もあり、睡魔に襲われていた灰原の眼はすっかり覚めていた…。





―――――自分だけの空間がある‥というのは何と安心できるものか…。


リビングに入った直後にしみじみ…と感じていた灰原であったが、浴室を出た後に蒼の姿を見ると、「帰ったら誰かがいる…というのも存外に悪くはないのでは…?」と思い直す。


「あっ…。」


灰原の気配に気づいた蒼とキッチン越しに目が合うと、彼女は軽快に声を掛けてきた。


「…お疲れ様。へぇ…男子の部屋着はそんな感じなんだ…。」


上下に視線を動かして灰原の服装を観察した後、彼女は感想を述べる。


制服姿とは一転し、灰原の着ていた衣服は灰色のパーカーに黒のガウチョという…わたり幅の広い七分丈のズボンが特徴的な服装であった。


「…部屋にあったものを適当に選んだのだが…。どこか変だったか?」


あまりにも彼女が物珍しそうに見つめるものなので、灰原は心配になってしまう。

灰原に美的センスはないが、つい半刻ほど前に「美」を超越した存在と遭遇した影響もあり、灰原は妙に「人の外見」へと意識が向いていた。


「…ううん。変じゃないよ。ただ身軽そうだなぁ…って思ってさ…」」


灰原の格好を確認するため、キッチンから出てきた彼女はパスッ…パスッ…と、スリッパ音を響かせながら一纏めにした髪束を揺らして近づいてくる。


白いワイシャツに蒼色のスカートを履いた彼女の服装は制服姿にも似たものを感じたが、たった二つの要素がそれらの外見を全く別の物へと昇華させていた。



一つは先程からチラチラ…と揺れる尻尾のような髪束。

そして、もう一つは…白いワイシャツの上に着けていたワインレッドのエプロンであった…。


「…そうか…」


言葉に詰まる。

目の前に立つ彼女に何と声を掛ければ良いのか。何と言葉で表現したものか…と灰原は必死に考えるが、彼女はキッチンに戻っていってしまう。


「…。」


黙ってその後姿を見つめていると、こちらを誘うように大きく揺れる髪束に感化された灰原は彼女の背に言葉を掛けていた。


「…蒼は…その…似合っていると思うぞ…。髪型とか…エプロン姿とか…」


徐々に視線を床へと下ろしながら、ぽつり…ぽつり…と灰原が不器用な感想を述べた後、再び彼女の方向へ視線を戻すと彼女は歩みを止めていた。


「…蒼?」


返答もないまま数秒固まる彼女に灰原が声を掛けると、ようやく彼女は灰原の方を振り返る。


「あはははっ。何それ…褒めるの…下手すぎだよ‥‥」


笑い声を出したかと思えば、消え入るように言葉を消していく彼女は固い表情になっていた。


「…すまない…。」


頭に手を当てながら、灰原はそっぽを向く。


灰原にとって、彼女の固い表情は全く予想していなかった反応であったのだ。


言葉足らずであることは灰原本人も自覚をしていたのだが、実を言うと、灰原自身も彼女に何を伝えたかったのか…全く分かっていない。


おそらくだが、これは本能と理性の合致が付かず、本能が求めた言葉や感情の正体を自身の理性が知り得なかったことで起きた「本能と知性の不一致」によるものではないか…と、灰原は推測する。



…だが、実際のところは灰原に「人の外見を褒める」という経験が無い事が大きく関係している…という事実を灰原は見過ごしていた。



—————何というか…失敗してしまったな…。


再び部屋の天井を見つめながら反省する中、キッチンに向かった彼女の顔が感情の噴出を押し留められずに大きく崩壊し、抑えつけていた表情が露わになっていた事を彼女の背後にいた灰原が知る由もない…。


「~~~~!!」


ピピピッ…と炊飯器のアラームが鳴り、蒸気口から蒸気が噴出する…。





 ミネラルウォーターの入ったペットボトルを二本テーブルの上に置いた後、灰原は座布団を敷いて畳スペースに座り込み、テーブル下にある空間に足を滑らせる。一度も腰掛けたことが無かったために見落としていたのだが、リビングの床から一段高い位置にあるこの畳スペースは中央のテーブル下が窪(くぼ)んでいる「掘りごたつ」となっており、同時にキッチンと畳スペースの間にあるバーカウンターの腰掛けとしての役割も担っているようだ…。


「…お腹減ったなぁ。あ…お水ありがとうね。」


「すまないな…このくらいの事しか出来なくて…」


彼女が食事を運んでくる最中、テーブルに置かれたミネラルウォーターに気が付くと、灰原にお礼を述べる。


食事の作法はもちろんのこと…、食事に対して、どの食器を使うのかも分からなかった灰原には、事前の調べで試飲していたミネラルウォーターを用意するのが精一杯であった。


「全然いいよ。それよりも早く食べちゃおう。」


両手で支えていたお盆から灰原の分の食事を手渡し、自身の食事をテーブルに置くと、彼女は畳スペースの隅にあった座布団を敷き、テーブル下に足を滑りこませ、灰原と向かい合う形で座り込む。




灰原の目の前に置かれた食事は白米の上に野菜や肉が入った栗色の濃いスープをかけたもので、「カレーライス」と呼ばれるものであった。



「…すんすん…」


灰原は初めて見た栗色と白の創造物に心を鷲掴みにされていた。


鼻を刺激するスパイスの香り。ホワ…ホワ…と立ち上る湯気。

栗色と白…さらには橙・黄・茶…と目を引く色合いを持った食物の数々…。

嗅覚を中心とした数多の刺激は一目で灰原の心を射止めるほどの魅力を有していたのである。


「さぁて…じゃあ、頂きましょうか。」


そう言うと、おもむろに彼女は両手を合掌させたので、それに倣(なら)って灰原も急いで合掌をする。


「…ふふ」


その様子を見た彼女は小さく微笑むと、すっ…と息を吸い込み食事の開始を告げる。


「いただきます。」


「…い、いただきます。」


一テンポ遅れて、灰原も彼女の後に続く。



「…?‥‥?」


「ふふ…」


カレーライスにスプーンを挿入しようとするが、どこから食べたものか…とスプーンを左手にカレーライスの周囲を見回す灰原の様子を彼女は温かい目で見守っていた。


モチャ……


やがて、空腹に耐えかねた灰原はスプーンを突き入れ、すくい上げたものをそのまま口に押し込み、咀嚼しようとするが、


「はふぅ…ふぅ…」


想像以上に口に放り込んだ炊き立ての白米が熱を内包していたため、灰原は息を吹き出し、必死に口呼吸で白米を冷やそうとしていた。

それは本能による反射の為か…初めの深呼吸と同じように灰原は意識せずにその動作を行っていたのである。


「‥‥ふぅ…」


吐息で口内の熱を放出し、適温まで冷やした後、灰原は咀嚼する。

炊き立ての白米は一粒ごとの形状を舌で感じられるほどの硬さを有しながらも、決して顎が疲れるほどのものではなく適度な噛み応えを残しており、カレーのルーに絡まっても米本来の硬さが損なわれる事はない。


まさに「カレーライス」のために計算された炊き具合…ともいえる。


口内の内容物を冷やす過程で感じていたスパイシーな香りを放つカレーには一口大に切られたジャガイモ、人参、玉ねぎと粒々の牛挽き肉が入っており、それらの食材がルーに煮込まれ旨味が溶け合ったことで完成された「カレー」は灰原に強い衝撃を与えていた。



【「初めての食事」×「空腹」】という最大級の要素が掛け合わさった事で生まれた雷(いかづち)の如き伝達力と破壊力のある衝撃波は的確に灰原の脳核へと到達し「満足感」ともいえる重厚な快楽因子を弾き出す。


 玉ねぎは舌でほぐせるほどに柔らかく、一口大に切られた人参とジャガイモは噛むと内側からほくほく…とした食感があり、十分な食べ応えがある。各野菜がそれらの利点を生かしながらも適度な「辛さ」を持つルーと絡み合うことで野菜本来の「甘さ」を強調していた。



…しかし、「カレー」に含まれるのは野菜のみにあらず。



何を隠そう…この「カレーライス」の鍵を握るのは粒状の牛挽き肉である。

一粒の大きさは疎(まばら)らだが、極小でも十分な旨味を有している牛挽き肉。肉の小型爆弾ともいえる牛挽き肉の粒々がルー全体に散らばり、混ざり合うことで均等に旨味が流布され、「カレー」の旨味レベルを格段に引き上げる。



…辛みとスパイスの利いたルー。甘さと食べ応えを持つ野菜。

…旨味の中核を担い、全体の旨味を格上げする牛挽き肉。

…そして、それらを支える「カレーライス」の為に炊き上げられた白米…。




…食材の調和。料理に適した調理法によって作り上げられた「カレーライス」は初めての食事の上に最も重要なスパイスともいえる「空腹」を携えた灰原にとって、初めて感じた至福の時であった。


「あ…」


気がつくと、すでに皿の中は空になっていた。


夢中で食を進める中で男は味覚の罠に捕らわれ、「食」という行為に没頭していたのである。


「‥‥」


寂しそうに空いた器を眺めながら、ミネラルウォーターのキャップを開けて飲み込むと口内の旨味が薄れ、僅かに残ったカレーライスの後味だけが口内に置き去りとなる。


口惜しそうに空いた器を眺める灰原を正面から見ていた蒼は、何かしてあげなくてはならないような庇護(ひご)欲にも似た衝動に駆られてしまっていた。


「おかわり…。もう一杯食べる?」


何となく呟いた一言に目の前の男は想像以上の反応を見せていた。


食べ終わった直後、しゅん…と縮んだ頭頂の耳のような髪はピン…とした張りを取り戻し、尻尾でも生えていれば、きっと千切れんばかりに振っていそうな喜びに満ち溢れた表情で男は返答を返していた。


「…いいのか?」


自分の表情が分からない男は感情をひた隠すような声でそう答えたが、その表情と言葉の不一致さに蒼は笑いそうになるのを堪えながらも返事を返す。


「うん…もちろん…」


空の器を二つ持ち、彼女はキッチンへと向かう。


…実を言えば、彼女も物足りなさを感じていた所があったのだが、男の手前で自分だけがそれを求める事も出来ないため制限を掛けていたが、身の内から溢れ出てい

た男の素直さに感化され、彼女も素直になることにしたのである。



「‥‥はい熾凛(さかり)、お待たせ。」


「ありがとう。」


再び彼女が持ってきた器の中身は先程とは注ぎ方がやや異なっていた。完全に白米がカレーの湯に浸かり、比でいえば2:1といったところのカレーと白米のバランスであったのだ。


————これでは白米の粒々感や食感が損なわれるのでは…?


…疑問に思いながらも一口食べると、その疑惑は一瞬で消え去っていた。


確かに若干の柔らかさは増したが、それでも本来の食感に大きな変化は無い。

むしろ、大量のルーと綿密に絡み合うことで感じる牛挽き肉と白米の感触だけで舌は踊り、飲み込むことで喉はその粒々感を愉しんですらいる。


 カチュ…


ミネラルウォーターの蓋を再度開け、水を一口含むことで口内環境を一度リセットさせると灰原は食事を再開する。二杯目を食べた時に学習したことだが、口内をある程度までリセットすると次に食べたものの味が色濃く感じるのである。



食べては飲み、飲んでは食べる…。



それを繰り返しているうちに灰原は見事に二杯目を完食していた。


「‥‥ふぅ。」


スプーンを器に添えて、男は至福の吐息を吹き上げる。

舌に残る旨味の残留から今まで感じた味を思い出しながらも満足感に浸る姿に彼女は一声掛けていた。


「…美味しかった?」


「‥‥美味しい…?」


突然の言葉に男はきょとんとした表情を浮かべる。



「美味しい」という味覚の表現を表す言葉を知ってはいたが、それがどの状況で扱えばよいのか判断が付かなかったのだ。


「その…何と表現したらいいのか…。この言葉の表現が適切なものかは分からないが、蒼の作ってくれた料理は‥‥「すごかった」。


だから…何だろうな。俺は…これをまた食べたいと思ったのだが、その感情を「美味しい」と表現するのか‥?」





 言葉はわかる。言葉も読めるし、書くこともできる。


しかし、どれを「美味しい」と表現するのか灰原は知らない。言葉自体はわかっていても、言葉の使い方を知らない…という曖昧な知識の欠損が灰原の身に起きていたのだ。


 「美しい味」と書くその言葉の使い方を灰原はまだ知らない。


今は他人が使う言葉を見聞きすることで言葉の意味や使い分けを理解している段階であり、発展途上の灰原は自分が何を知っていて、何を知らないのか…という線引きですら明確になってはいないのだ。




「…うーん。改まって言われると…そうね…」


彼女も何か意表を突かれた面持ちでありながらも、灰原の問いに対して熱心に考えこんでいた。


「美味しい…おいしい…うーん…」と両腕を組みながら考え込んだあと、



「食べて、こう…ビビッと来たもの…かな」



…と少し自信なさげに彼女は答えた。


―――――それは何とも大雑把ではないか…。


…と内心突っ込んでしまいそうにもなったが、言葉を説明する以上…また別の言葉を重ねなくてはならない。その別の言葉を灰原が分からなければループが生まれてしまう事から、彼女なりに考えて答えてくれたのだろう…と灰原は推測した。



彼女の言っていることは存外にも的を射ていたようで、灰原の感じたあの衝撃の事を彼女が示しているのならば、灰原にも理解できる。


「‥なるほど…では、こう言い直さないといけないな…」



 納得も出来た。

一つの言葉を学習し、灰原は何の違和感もなく言葉を振るう。

先程の「すごい」とは違い、しっかりと理解した言葉の意味を反復しながら、灰原は再び彼女に感想を述べる。


「凄く美味しかったぞ。蒼」


「…どう致しまして…」


「…?」


感想を述べた灰原を前に顔を下に向ける彼女。その姿に灰原は首を傾げていた。

今日(こんにち)交わした彼女との会話の中で幾度か同じ場面になる事があった。

その状況を理解できないことに対し、自身の記憶の有無が関係しているのではないか…と灰原は疑問に感じながら、ただ小刻みに揺れる彼女の髪束を眺めるばかりであった…。





「…蒼。食事を終える時は何と言うんだ?」


「えぇっと、こうやって手を合わせて…」


「む…」


二人は再び合掌の姿勢を取り、彼女は食事の終わりを告げる。


「ごちそうさまでした」


「…ごちそうさまでした。」


一テンポ遅れて灰原も彼女に倣復唱する。彼女は立ち上がって、


「じゃあ、片づけをしましょうか」


…と、空いた器とペットボトルを持ってキッチンへと向かったので灰原も彼女の背を追ってキッチンへ向かう。キッチンには食洗器が配備されていたが、「せっかくだから…」と彼女は手洗いで食器や調理器具を洗い始め、灰原はキッチンタオルを片手に彼女が皿を洗う様子を眺めていた。




 初めての食事、果たされた二人の約束。


あの戦いを乗り越えたからこそ、迎える事の出来た至福の時間に灰原は大きな価値を感じながら、蒼が洗い終えた食器を拭いていると、


「…ありがとね。熾凛」


「…何がだ?」


突然、お礼を述べてきた彼女に灰原は疑問を唱える。



…食事を作ってくれた彼女…命を救ってくれた彼女…ここまで一緒にいてくれた彼女…。


—————礼を言うのならば、こちらであるはずなのだが…。


彼女にお礼を言われるようなことはあっただろうか…と、灰原は今日(こんにち)の出来事を思い出していくが全く見当が付かない。


「…ほら。あの人型が出てきた時に…」


「…あぁ、あの時の…」


数時間前の出来事を思い返した途端,灰原は顔全体に熱を感じ始め、顔を覆いたくなるような衝動に駆られていた。今日(こんにち)の中で抱いた感情の一つに類似するようなものがあったが、【願望】を持っていなかった灰原が感じた周囲と自己を比べた事で抱いた「モノの有無」…疎外感による気恥ずかしさとは全く異なる「それ」は紛れもない慚愧(ざんぎ)の感情であった。



【———だから、俺は…『俺を知るために戦う』———】



————…今にして思えば、なんと恥ずべき行為であったか…


自身の放った言葉、行動に対する後悔の念を深めながら、灰原は顔を沈め始める。

あれだけの事を言っておきながら彼女に助けてもらった手前、灰原にとってはあまり追及されたくない事柄であった。


「…熾凛が「願い」を言ってくれた時…私思ったの。


『…私、至らなかったんだなって…。』


…ただ、このゲームに参加して生き残ってさえいれば良い…と初めは考えていたけれど、あの先生が言った通りなんだなぁ…って。」


「‥‥!」



彼女の言葉に灰原は驚愕(きょうがく)する。


灰原にとって「彼女」という人物は、長い人生を歩んだことで得た知識や技術を持ち、様々な経験を経て、この「神様ゲーム」に参加している存在である。


間違っても、記憶の無い空虚な男を前にして、自身を「至らぬ」と宣(のたま)うほど彼女に落ち度はない。

彼女がどういった経緯で〈ゲーグナー〉という一つの命を奪うことに躊躇(ちゅうちょ)していたのかは定かではないが、その「迷い」の顕(あらわ)れは決して彼女が至らぬからではない。


彼女の優しさゆえに誘発的に顕れた「迷い」とは即ち彼女の本質であり、彼女を「紅葵 蒼」たらしめている個性の一つである。彼女本来の個性を一体誰が咎められようものか…。





そして、灰原は教室での出来事を再び想起する。


『己の【願望(ねがい)】を叶えたければ戦え』


それはチュートリアルを説明した後に言い残したあの人物の言葉。

どういった意図を持って、その言葉を言い残したのか…灰原には到底分からないが、あの言葉は多くの生徒達に「何か」を伝えたかったような言葉であった…と考えられる。

「何か」の正体は全くもって分からないが、あの人物にとって「神様ゲーム」を通して参加者である生徒達に何かしらの「意義」のようなものを考えさせたかったのではないか…。


【この「神様ゲーム」という世界によって、生前の自分を取り戻そうと迷走した梶原(かじわら) 宗助】


【あの人物の言葉によって、【願望】への欲望を制御できなかった進藤 岳人(がくと)】


 【そして、あの人物の言葉を真に受け止め始めた紅葵(もみぎ) 蒼】



「神様ゲーム」初日にして、精神的変化が見られた三名を見たことで灰原はその予測に現実味を感じ始めるが…その全ては灰原の想像に過ぎない話である———。





「…これから先、怖い事や乗り越えなくちゃいけない事がたくさんあるのかもしれない…」


キュ…と水栓を締めて、彼女は灰原に顔を向けると意外な一言を告げた。


「…だから、私決めたの。熾凛みたいに頑張ってみようかな…って!」


屈託のない柔らかな笑顔で彼女はそう言った。


「…熾凛みたいに…」


 あまりの衝撃に彼女の言葉をそのまま反復していた。


彼女が灰原に与えるものはあっても、自分が彼女に与えられるものなど何も無く、ただ、不器用なりに自分の身体で示すことしかできない。あの時、彼女が立ち上がれたのは彼女自身が決意しただけであって、元々の決意の顕れは彼女の中に内在していた為に、灰原の成果…といわれると、事実は大きく食い違ってくる。


———彼女は一体…自分のどこを見て、そのように決意したのだろうか…


———俺が無意識の内に彼女に何かを与えていた、とでもいうのだろうか…



灰原にとって彼女の言葉は、どう受け止めれば良いのか…全く分からなかった。


「‥‥‥‥」


熱を帯び、沸き立つ感情。


パチリ…パチリ…と温かい感情の泡(あぶく)が弾けるような感覚に灰原は表情が緩みそうになる。

理性は未だに彼女の言葉に対する疑問を打ち立てているが、本能は彼女の言葉に「喜び」という感情を抱いていた。その相反する理性と本能に対し、どのような反応を見せれば良いのか…灰原には見当が付かなかったが…、


「‥‥あ…ありがとう。」


…とにかくお礼を言うことにした。


「じゃあ、そろそろ行くね…。」


「あぁ。今日は本当にありがとう。色々助かったよ。」


————…今日一日の中で、どれだけ彼女に助けられたか…。


今日一日の中で受けた数多くの恩を思い出しながら、頭を下げて彼女にお礼を述べる。


こんなことしか今は出来ないが、いつか彼女の助けになれる時があれば…この身に持てる全てを賭して、それに応えるとしよう…と、灰原は胸の奥にあるモノに刻み付ける。


「どういたしまして!」


右腰に手を当て、左耳に髪を掛けながら彼女は「ふふーん」と自慢気な笑みを浮かべていた。



—————この笑顔を守れたら…。



そう思えるほどに彼女の自慢気な笑みが大きな価値を有していることを今日の観察で灰原は知っていた。


初めは「癖」のようなものだと考えていた彼女の笑みは実を言えば、彼女の心に迷いや葛藤…などといった負荷(ストレス)が無ければ表れるものであり、言わば彼女の精神状態が安定している事の「証明」ともいえるのだ…。



「‥じゃあ、また明日の朝に…」


「あぁ、また明日…だ。」



「ふふ」となぜか二人は笑いあった後、彼女は扉を開けて帰っていく。



扉が完全に締まり切るまで灰原は彼女の背を見送り、ガチャリ…と扉が閉まった途端、何かが瞳に込み上がってくるような感覚に陥る。



「‥‥???」


突然、視界がぼやけ始めた事に灰原は混乱するが、ぽとり…と何かが落ちると同時に視界は一気に良好になっていた。


「‥‥なんだ…これは…?」


床に零れ落ちた一滴(ひとしずく)の正体を灰原 熾凛(さかり)は知らなかった。

意図せず瞳から零れ落ちた「涙」と呼ばれるそれは人の感情によって生み出される心の雫。


灰原が流した一滴の涙は単(ひとえ)に孤独によって生まれた「寂しさ」が内から流れ出たものであり、人の存在と「ぬくもり」を知った事で生まれた心の飢餓感の顕れである…。






 夜空に浮かぶのは満天を覆う程の小さな星々。

その中から、ひっそり…と顔を覗かせる三日月は静かな面持ちで大地を照らす。

月下に並ぶ薄桃色の木々は微風に吹かれて、心地の良い子守唄を天へと送り届けていた。


「…やはり…ここは良い景色だな…」


バルコニーに配置されたラタンビーチチェアに寝転がり、夜空を見上げていた灰原は静かにそう呟く。心に小さく開いた空白感に対し、どうすれば良いのか…と疑問を晴らすためにこうして横になっているのだが、全く思いつかない。


「…俺は一体誰なのだろう…」


夜空に向けてそう呟く。もちろん、返事は返ってこない。


考えても…考えても…答えは出ず、小さな憤りだけが溜まっていく。



「【ML】…」


ふと、灰原は夜空に右手をかざし【ML】を想像すると、「竹刀」がその手に顕現する。どうやら、学内だけではなく「マンション」内でも【ML】の使用は制限されてはいないらしい。


【ML】を握って【創造/想像(イメージ)】を組み立てると、「竹刀」の殻は夜空へ

と消え、灰色の刃と半透明な柄を有した「両手剣」が創造される。



————…少し練習でもしてみるとしよう…


チェアから起き上がり、両手で剣を構える。



氷の如き半透明の刃と花のように美しい螺旋を描いた柄を持つ塩崎の「レイピア」。


進藤が持っていたナイフの刃とレイピアの持ち手を合わせた「両手剣」。


そして、それを巨大化させた「大剣」…と、今日行った創造の復習をしていると不思議なことに心の空白感は閉じていき、徐々に瞳が重たくなってくる。


「‥‥ふあぁ…」


不意に出た欠伸と共に灰原は気が抜けてしまい、【ML】を消失させて自室へと向かう事にした。




 バルコニーから右奥。

ソファとテーブル、そして壁にモニターが掛けられている応接間を通り過ぎ、自室の扉を開く。


適度に寝転がれるような広い床、大きなベッドにクローゼット…とシンプルな部屋の内装に灰原は少しだけ安心感を抱きながら、浴室から持ってきた破れた制服をハンガーに掛け、クローゼットの中からクラウンに指示されていた専用液を取り出す。


「…このぐらいか…?」


専用液を満遍(まんべん)なく吹きかけ、クローゼットに破れた制服を収納した後、灰原はベッドに倒れ込む。


そのまま睡魔に導かれるままに灰原は瞼を閉じてしまいそうになったが、土壇場でベッドに付属のモニターに触れ、アラームを設定する。


「…よし」


時刻を七時に設定したことを確認し、瞼を閉じると同時に灰原は深い眠りにつく。



一日中動いた身体は入浴によって疲労感を開放し、食事によって栄養を補給した後、睡眠によって心身の回復を行う…。



目に映る視界。耳を通る音。鼻を潜る匂い。そして‥‥初めて出会う人。



未知で溢れたこの世界で刺激を受け続けた灰原にとって、主に精神面での疲労が起きかった事だろう。



好奇心。寂しさ。不安。無知。気恥ずかしさ。焦燥‥‥と、一日の中で数多の感情の渦に飲まれた灰原の心は成長を促され、何とかその全てを吸収しようと試み始めているのであった。





「神様ゲーム」の初日がこれにて終了する。


記憶の無い身でありながらも、紅葵 蒼と出会いを元に自身の「名」と【願望】を得た彼は、同時に記憶の無い今の「仮の自分」と、この世界で生きていく根源ともいえる「生きる柱」を意識していくことになる。


それが今後、空虚な男に如何なる影響を与えることになるのか…。

眠りについた男はまだ知り得ない。



…だが、彼が自分自身と向き合うことになるのは、そう遠くない話である‥‥。

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