9.「笑顔」


白い床、白い壁、白い天井。

白いベッドに白いカーテン‥‥。


医療器具と思しき不可思議な設備や医療品に至るまで白く、「白」への拘(こだわ)りしかないような…白い部屋とも呼ぶべき「保健室」には、この世のものとは思えない…溢れんばかりの「美」を内包する一人の麗人が存在する。




まるで雪のように解けてしまいそうな透き通った滑らかな肌質と白い肌。

細く高い鼻、艶やかな桜色の唇。

目頭と目尻、上下のまつ毛に至るまで完璧に造形された眼。


質の高いパーツが黄金比のバランスで配置された「麗人」の顔は、すでに存在するだけで「美」という概念を軽く凌駕し得る領域に達していた。



 髪色は金色(こんじき)にも近い薄めの橙黄(とうこう)色であり、右肩から垂らしている幾数にもウェーブが掛かった髪束を構成するシルクのような光沢を持った毛髪は直に触らずとも滑らかな髪質であることは明白であった。


前髪部分は左右で異なる造りをしており、左側はサイドの髪と共にそのまま下ろし、右側部分は少しボリューム感を持たせる形でウェーブが掛かっているが、右肩から下ろしている髪束とは巻き具合がやや異なり、こちらは一束でまとめ上げられた巻き方となっている。


背面から見る彼女の髪形は左耳の裏から襟足を覆いながら右耳に向かって「し」の字を描く形で丁寧な編み込みが施されている。右サイドの髪は右耳の下を潜る曲線(カーブ)を描き、右側の襟足部分で編み込みの毛先と合わさることで残った後ろ髪を結ぶ役割を果たしている。右サイドの曲線を描いた髪束は、その造形美と髪質も相まって、イヤリングのような装飾品にも思えてしまう…。



 服装は、白肌を露出させるように首元が大きく開いたタイトな白いドレスシャツと、細長い足を強調する八分丈の灰色スキニージーンズ、黒底の白革靴…それが彼女の普段着である。


長身である彼女の身体のラインがはっきりと分かるような服装は妖艶さを滲ませるために邪なる感情を抱くはずなのだが、「麗人」の「美」はそれすらも超越し、見た者の心が魅了の領域を出ることはない…。


 しかし、惜しくも「保健室」に立つ彼女の正装は、その普段着姿を覆い隠すように【白衣】を着込む事で完成する。


通常のものとは違い、腰から下にダークブルーのスカートが付属している異色な【白衣】姿と普段着姿を比べれば、ゆったりとした【白衣】を羽織った彼女のボディーラインが表に出ることはない…。


だが、【白衣】のスカートが麗人の新たな魅力を引き出していたのである。


シフォン生地のロングスカートは光によって透けるように見える材質であることから、光の加減によってはタイトなジーンズで覆われた美脚の陰影を覗かせる…。


…スカートで覆われてはいるが、光の加減で薄っすらと透けて見える美脚の輪郭…


その危なげな魅力は一種の誘惑味を匂わせ、普段着姿で見る美脚とは異なる魅力を生み出していたのである…。



 ただ、そこに在るだけで見る者全ての心を射止める「美」を超越し得た者。

まさに「保健室の麗人」と呼ぶに相応(ふさわ)しい彼女に向けられる生徒達の感情は「称賛」や「憧れ」、「好意」…等、主に彼女の美貌に向けられたものが大半であったが、唯一他の生徒とは全く異なる感情を向ける者が一人いた。


「‥‥」


焔の如き前髪と獣の耳のように逆立った黒髪が特徴的な男は麗人の姿を前にすると、その美貌に魅了される事すらなく、ただひたすらに好奇心に満ちた目で彼女を見つめていた。


そこに一切の曇りはなく、「知りたい」という無意識の知識欲が混流する視線…。

この世にある事象の一切を疑わない…「好奇心」を剥き出しにした黒く純粋な瞳…。


『‥‥!』


「美」という概念すらも全く理解していない無垢な瞳に対し、麗人は心を揺さぶられる。


心を奪われた…とは全く異なるものだが、普段の彼女が決して抱くことはない悪戯心にも似た感情を「保健室の麗人」に生み出させたのは灰原 熾凛(さかり)という人物が初めてであった。


『…初めまして灰原様。アンドロイド=ナノマシン:クラウンと申します。』


互いに数秒の沈黙があった後、麗人は自らの名を述べる…。





—————・・・—————



『負傷者は「保健室」に行くように』


〈ゲーグナー〉との終戦を告げる電子音が流れて少し経った後、放送で流れた塩崎の【絶対命令権】によって負傷者は自動的に「保健室」に運ばれる事となった。


人型〈ゲーグナー〉の砲撃によって受けた傷は蒼の【Rs(ランクスキル)】「EXTRA(エクストラ)」の治療のおかげでほぼ完治していたが、【絶対命令権】による「負傷者」の対象となってしまったようで…気が付けば灰原は「保健室」に移動していた。



「‥‥」


【絶対命令権】による意識の停滞があった後、灰原の意識が回復すると、目の前に金髪の女性が立っていた。


 蒼や雨崎の髪とも全く異なる髪質、白い肌に発達した身体…。

 担任の塩崎と同じ「大人」であるが、あの塩崎とは違った真面目な雰囲気…。


「目の前に立つ女性を一体どのような言葉で表現したものか…」と灰原は頭の片隅で思案しながら、まじまじ…と金髪の麗人を見つめる。


…だが、決して彼女の内包する圧倒的、且つ超越した「美」に魅了されたのではない。


目覚めた当初、〈マイルーム〉のバルコニーから見た景色や塩崎の創造したレイピアに対し、「美」を感じた灰原であったが、女性の…人の持つ「美」の概念を彼は理解出来てはいない。


人の「美」が理解できるほどの経験値が灰原に無い事も主な原因にもあたるが、知識への飢餓感に苛まれていた灰原の本能たる「好奇心」は、人の「美」を理解したいがために麗人を見つめていたのである…。


『‥‥』


…そんな灰原の視線に対し、彼女の表情に一時的な変化が起きたようにも感じたのは灰原の錯覚であったのだろう…。



『…初めまして灰原様。アンドロイド=ナノマシン:クラウンと申します。』


聞き覚えのあるその美声は【ML(マテリアル)】争奪戦の時やアナウンスで流れた電子音と同一のものであった。



 軽く礼をして挨拶をした後、彼女は少しだけ微笑む。

灰原の瞳を見つめる橙(だいだい)と黄金が織りなす橙黄(とうおう)色の彩色美を持ったトパーズ石の如き瞳と、天使のような微笑みは男女を問わず見た者の心を確実に射止めるだけの魅力を発揮する。


通常であれば、彼女の美貌を前に視線を合わせられるものはいない。

「保健室」を訪れていた生徒の大半が彼女と目を合わせるという事はほとんど無く、合わせる事が出来たとしても数秒の時が経てば視線は外れていってしまう…。



…だが、灰原は平然と彼女の橙黄色の瞳を見つめていた。


その黒い瞳に緊張の類は一切感じられず、ただ真っ直ぐ彼女の瞳を見つめられているのは、灰原に女性に対する「気恥ずかしさ」が無いこと、そして好奇心が他の心情の追随を許さなかったことが影響していた…。


「…アンドロイド…」


その言葉に雨崎(うざき) 真波(まなみ)の【Rs(ランクスキル)】「アンドロイド」を思い浮かべた灰原であった。


彼女の【ML】である「ランドセル」から創造される機械仕掛けの腕(かいな)。

あの金属面が剥き出しの腕と目の前の女性を見比べても全く共通点が見えてこない。


彼女の見た目は灰原達と同じ「人」であり、表情からは感情も伺える。同じ名前であっても、あの「アンドロイド」とは大きく異なっている事は明白であった。


『どうぞ、クラウンとお呼び下さい。灰原様。』


灰原の様子から、長い名前に対して何と呼べばよいのか悩んでいた…と勘違いされたのだろう。クラウンと名乗った麗人は天使の微笑みを浮かべながら、再び灰原の名を呼ぶ。


————そういえば…名乗った覚えはなかったのだが…。


自然と名前を呼ばれていた事もあり、この時まで疑問にも思わなかったが、塩崎と違って彼女は生徒の名前を知り尽くしているようだ。


『…前置きが長くなってしまいましたが、これより他の皆様と同様に治療をさせて頂きます。』


—————そうか。治療か…。


灰原は破れた衣服から覗く桃色の皮膚に視線を落とす。

砲撃によって大きく抉られた傷は蒼によって治療され、これ以上治療を受ける必要もないように思えた。


「‥‥!」


—————「他の皆様と同様に」…?


灰原は彼女の言葉で我に返る。

元々、【絶対命令権】によって「保健室」に呼ばれた灰原であったが、治療対象は何も灰原だけではない。ここまで怪我が完治している灰原ですら「負傷者」の対象になったのだ。


〈ゲーグナー〉との戦闘で大きな噛み傷を受けた進藤や他の生徒達がこの場にいてもおかしくはない。



—————戦闘後の「保健室」という場で、悠長に会話をする余裕も彼女にはないはずなのだが…一体どういう事なのか…。



麗人の美貌に対して灰原が臆することはなかったが、「保健室」で彼女に出会ってからというもの…灰原の視線は彼女にのみ向けられていた。存外にも彼女の美貌が灰原に何も影響をもたらさない…とは一概にも言えなかったのである。



 そして、灰原は初めて周囲を見渡す。


白い床、白い壁、白い天井…。

部屋の色素は全て白に限定されており、一点の穢れも無い白い部屋とも呼ぶべき「保健室」では負傷した多くの生徒達が治療を受けていた。


 …噛み傷やかすり傷といった軽傷の者、大きな抉り傷がある者…。


その中でも一番酷いものが片腕を失っていた生徒もいた事であった。鋭利な刃物のようなもので切り落とされた傷跡は生々しく、好奇心旺盛な灰原でも凝視するのを躊躇する光景であった。


—————あれも〈ゲーグナー〉によるものだろうか…。


…未だ見たことのない〈ゲーグナー〉の姿を想像し、治療を受ける生徒たちの様子を見ながら「蒼の治療が無ければ、ここには立っていなかったのかもしれない…」と、治療を受けた腹部に手を当てながら灰原は感傷に浸る。



———…暗くなる意識と動かなくなる身体…———



死の先駆けともいえるあの無抵抗の苦しみは「死」という概念の一端である「死の恐怖」を学ぶ事が貴重な体験であった。


もちろん、灰原としては二度と味わいたくない体験ではあったが、良い意味でも悪い意味でも…為になる経験を得る事が出来たのは事実であった。


—————戻ったら、蒼にまた礼を言わなくてはいけないな…。


きっと、あの自慢気な表情を見ることになりそうだが、戻ったらしっかりとお礼を伝えることしよう…と灰原は小さく決心する。


「…よし。」


 そうと決まれば、手早く治療とやらを受けるとしよう…と灰原が再び麗人へと視線を戻そうとすると、今さらながらに何とも奇妙な風景が周囲に広がっていた事に気が付く。



…生徒の治療を行っていた人物が全くの同一人物であったのだ。



「‥‥??」


疲労の影響で視力がおかしくなったのか…と灰原は瞬きを繰り返すが、視界に映る景色に変動は見られない。あの麗人と瓜二つの存在が各生徒の治療を行っていたのである。


『申し訳ございません、灰原様。少し驚かせてしまいましたか?』


目の前の彼女が灰原の様子を伺う。

紛れもなく、先程まで灰原が言葉を交わしていた麗人であるが、やはり、周囲の彼女たちと見比べても、違いは全く見られない。


—————まるで、ここにいる彼女達が彼女そのものであるような…


「…いや…それともこれは複製か…?」


教師陣である塩崎は灰原達と同様に【ML】を所持し、【Rs】を保有していた。


…であれば、目の前の彼女が【ML】を所有していても何も違和感はない。


そして、蒼や志村のように【Rs】の中には創造物の複製を可能とするものが存在する。彼女の【Rs】もそういったものの類なのだろうか…と灰原が思案していると、


『…いえ、これは私の身体能力のみで生み出した残像のようなものに過ぎません。』


「‥‥へ?」


思わず変な声を出してしまった灰原であったが、彼女の言った「身体能力のみで」という言葉を要約すると、常識を逸脱した高位の速度領域で彼女が動ける…という事になる。


また、それだけの速さで動けるにもかかわらず、彼女の表情に一片の曇りも見られないのは超高速移動の中でも十分に余裕があるという事…。


物理学に関する具体的な知識を持たない灰原には、どういった原理で彼女が移動しているのか…高位の速度領域の中、どうやって彼女が会話をしているのかは全く分からないが、実像と区別できないほどの残像を彼女は容易に生み出せる…という事実だけは十分に理解できた。


「‥‥灰原さん。」


不意に自身の名が聞こえた方向を振り返ると、進藤 岳人(がくと)の姿がそこにはあった。





 球体〈ゲーグナー〉に噛まれた衣服は所々破れていたが、衣服から覗く皮膚に異常はなく、元通りに戻っていたことから、彼はすでに治療を終えたのだろう。


「進藤…。」


彼の姿を見た灰原は彼が無事であったことの安堵を覚えると同時に深い負い目を感じた。


進藤がいなければ、あの状況で人型〈ゲーグナー〉の砲撃を防ぐ事は出来なかった。[黒い壁]を突き進む中で灰原が人型〈ゲーグナー〉の気配に感づいた事も重要ではあったが、進藤の協力を得たことが最も大きかった。


しかしながら、その時に得た彼への信頼に甘えてしまった灰原は人型〈ゲーグナー〉と戦うために戦線を二つに分けることを選択し、彼に大きな負担を背負わせてしまう事となる。


戦線を分断するため、【Rs】の「盾」を最大限展開していた彼は素手で球体〈ゲーグナー〉を相手取っていたが為に怪我を負う事となってしまった…。



—————進藤の傷は自分の不甲斐なさによるものだ。


…事が終わった後に考えても、それは時間の嵐を過ぎ去ってしまった後の話だ。考えたところで過去が変わることはない…。


—————それでも…これからを変える事は出来るはずだ。


悔い、嘆くために過去を思い返すのは心の浪費だ。

しかし、これから先で失敗しないために過去を思い返すのは未来への糧になる。


失敗も後悔も…己への研鑽(けんさん)へと繋げなければ、失敗を選択した自身への否定になってしまう。たとえ、どのような結末を迎えたとしても…あの状況の中で必死に頭を回して現状を打破する方法を考え続けた己の行動を否定してはならないのだ…。



 その時の選択の結果によって、自身に不利益が掛かるのは一向に構わない。

自分の選択で自分が不幸になるのならば、自己責任という形で身の内に納められるため十分に挽回の余地がある。しかし、自身の選択が他人に迷惑をかける結末を導き出してしまったのならば「責任」を取らなければならない…。



故に灰原は唯一知っていた責任の取り方…人への謝り方を全身全霊で試行する。



「‥‥本当にすまなかった。進藤。」


両手は左右の太ももに当て、身体の状態を地面と平行に曲げる…頭を下げて心から謝罪する事を選択したのである。



『‥‥すまねぇな。

どうやら、練習無しのぶっつけ「本番」になっちまったらしい。』


〈ゲーグナー〉の襲来の知らせが流れた後、謝罪する塩崎が見せたあの姿勢から灰原が感じ取ったものは塩崎の健気さと心からの謝意であった。

もちろん〈ゲーグナー〉の襲来は塩崎によって引き起こされたわけでもない。

それでも、あの男は頭を下げて謝罪をした…。


…なぜあれほどまでに謝意の籠った謝罪をしたのか…

…なぜ、あの言葉を生徒達に送ったのか…


塩崎の意図は分からなかったが、塩崎の謝罪する姿から灰原が学んだことは…相手に心を尽くす謝り方であった。



「‥‥」



頭を下げている灰原には進藤の顔は見えない。


—————彼はどんな顔をしているのだろうか。


進藤の顔が見えなくなった途端、灰原は得も言われぬ不安に襲われる。

相手の顔が見えないことがこんなに恐ろしい事だと…灰原は初めて実感する。



彼は怒っているのかもしれない、呆れているのかもしれない…。

もしかしたら、塩崎の謝り方を真似た事すら見透かされて「なんだ、その謝罪は…」と叱られてしまうかもしれない‥‥。


灰原が頭を下しながら不安に心を溺れさせていると、進藤が沈黙を破る。


「灰原さん…顔を上げて下さい。」


進藤は頭を垂らす灰原の両肩に手を添えながら、優しく言葉を掛ける。


「‥‥」


恐る恐る…灰原は顔を上げる。

彼が一体どんな顔をしているのか…と灰原は不安に思いながらも徐々に顔を上げていく。


…削れた革靴、噛み跡の残った衣服…————


傷跡を記憶していた衣服に灰原は胸を痛めながら顔を見上げると、彼は沈痛な表情をしていた。


「…灰原さん。謝らなくてはいけないのは僕の方です。」


「…え。」


予想もしていなかった彼の表情と返答に灰原は困惑する。

無茶ともいえる灰原の行動や提案に対応し、尽力してくれた彼が灰原に謝る事など一切ない。その逆はありえるとしても、そのまた逆は決してありえない。



だが、あろうことか…彼は灰原よりも深く頭を落として謝罪をしたのである。



「本当に申し訳なかった…!」


「保健室」に進藤の声が響き渡る。

周囲の生徒は何事かと…彼に視線を向けるが、その視線すら全く意に介さないほどに彼は誠意を込めた謝罪をする姿に思わず目を背けてしまう…。


「…待って…くれ。進藤、俺には分からない。とにかく、頭を上げてくれ…」


その誠意ある謝罪に圧倒された灰原であったが、何とか途切れながらも声を出して進藤の面を上げさせる。灰原にとって、なぜ彼が謝らなければならないのか…全く理解が追い付いていないのだ…。



 何とか顔を上げさせて両者が正面に向き合うと、進藤は懺悔する様に言葉を説き始める。


「‥‥あの時、灰原さんが分断する案を出した時に僕には別の案があった。

紅葵(もみぎ)さん、灰原さん、そして僕…。

あの三人がいた状況の中で、君は戦線を分断する役に僕を指名していたけれど、僕の案では分断役は彼女に…紅葵さんにしようと考えていたんだ…」




——————・・・


 後衛にいた紅葵 蒼の傍で「大盾」を創造し、球体〈ゲーグナー〉を迎え撃っていた進藤は彼女の能力を最も近くで見ていた人物ともいえる。


複製した十枚の「御神札」を自由自在に操る彼女の【Rs(ランクスキル)】「EXTRA(エクストラ)」。

防御にのみ能力を限定していた彼女であったが、その中でも「EXTRA」の真価を最も重要視していたのは進藤であった。


障壁のような役割を果たしている「御神札」だが、その用途は防御のみに当てはまらない。



 障壁で対象を挟み、圧縮させれば圧死可能…

 薄い障壁で角度を変えて勢いよく射出すれば斬殺可能…

 分厚い障壁を振り下ろせば撲殺可能…



あらゆる汎用性がある中、即座に対象を「殺す」ことに関する手段が浮かんだのは彼の歩んできた人生が大きく関係しているが、それほど汎用性のある【Rs】を持った彼女が能力の一端すら攻撃に使わないことに疑問を覚えた…。



『なぜ、彼女は…戸惑っているのだろう…。』



生きるために「何か」を奪うのは命ある者の性(さが)だ。

植物は生きるために天地から水や栄養を補給する。

草食動物はその植物を食らい、肉食動物はその草食動物を食らうが、それらの死骸や廃棄物はやがて原初たる大地に返り、再び植物は天地から水と栄養を補給する。


そうして出来た食物連鎖の循環は古代から紡がれ続け、無駄がなく、理に適った美しい循環図であった。


彼の人生で初めて板書された食物連鎖の循環図を見た時に感じたのは、動植物の本能が生み出し作り上げた壮観たる循環図の合理性と循環過程の美しさであった。


————なんと無駄のない循環図であるのか…。


当時、学生であった彼はこの循環図に対し、純粋に感動の意を示していた。

この循環図が彼の生きる時代まで続いていた事もそうだが、何よりも本能的に生きる動植物がここまでに美しい循環図を作り上げたことに彼は大いなる「自然の意志」を感じたのである。



‥‥しかし、その美しい循環図を汚す一点の黒い雫が落とされる。雑食であり、本能とは別の知性を進化させた「人類」の誕生であった…。



 同じく学生時の彼が学んだことに「画竜点睛を欠く」という諺(ことわざ)がある。


これは最後の仕上げを忘れることや肝心な部分が抜けている事を意味するのだが、教師の口から聞いた当初、進藤少年は「画竜点睛を描く」と誤解していた。「画竜点睛」というタイトルの絵を描くのではないのか…と当時の彼は純にそう感じていたのである。



『画竜点睛』

古くは中国の時代、帝の命によって神絵師の一人が仏寺に四匹の竜を描いた。しかし、その竜に瞳はなく、「瞳を描いたら本物が出てきちゃいますよ。」と神絵師は主張するが、周りに咎められ仕方なく二匹の竜に瞳を描いたところ雷鳴と共に二匹の竜は天に昇って行ったという話だ。



 故に「画竜点睛」という語は重要な最後の仕上げの意として、伝えられてきた。ここでいうと、竜に瞳を描く事がその意に当てはまる。


しかし、この話の中で重要視するのは飛んで行った二匹ではなく、重要な要素は残った二匹の竜ではないか…と進藤少年は考える。



 瞳が無くても神絵師の描いた二匹の竜は実に美しかったであろう…

 天井を埋め尽くさんばかりの迫力を秘めていたであろう…。



だが、その絵は神絵師にとって満足のいく絵ではない。


彼(か)の神絵師が望んだのは全身全霊を込めて描き上げた四匹の竜の姿であったが、神絵師は己が持つ才と実力から瞳が描けなかったのであろう。


帝の意志は仏寺が主であり、自身の絵は其れを引き立てるもの…仮にその関係性が逆になってしまえば、帝の意志に反した神絵師は極刑を免れない…。


そうした時代的背景を考慮した上で改めて考察すると、神絵師は【未完成であるが故に完成された絵】に落し処(どころ)を見つけたのではないか…と。


「画竜点睛を欠く」


瞳を描いたことで完成された二匹の竜は空へと消え、瞳を描かれなかった二匹は未完成のまま仏寺にて生涯を終えた。

初めに進藤少年が誤解したように四匹の竜を描きたかった神絵師の本心を表した言葉ではないのか…と世界史・漢文の分野を掛け合わせて彼は推測したのである。




————では、なぜ「人類」はこの美しい循環図を崩す形で生まれたのか…。



論点は再び循環図へと回帰する。



 「人類」は画竜点睛の雫となるのか…

 それとも、人類が現れたのは画竜点睛をかいた神の戯れか…



 世界の安寧のための崩壊、未完成ゆえの完成された世界。

「人類」が世界にもたらしたのは厄災であり、原初の循環図を創造した先駆者達からすれば「なんて愚かな知性生物なのだ。」と陰で罵られるのは言うまでもない…。


生きるために多くの資材を浪費し続ける人類だが、生きるために「何か」を奪う…という命ある者の共通概念は人類にも存在する。



『だが、それを別の言葉で言い換えるならば、目的のために他から奪うのが「人類」なのだ…。』




 …防御にのみ徹する彼女が攻撃することへの戸惑いを見せる具体的な理由は分からないが、進藤にとっては遠い過去を見せられているようでもあって、不快な気持ちが無いといえば嘘になる。


 しかし、他人は他人であり、自分は自分だ。


他人に自分の過去を投影するのは失礼極まりない行為であることを彼は十分理解している。あまつさえ、他人に投影した自己の姿に苛立ちを覚えるのは愚か者のすることである…。


『己の〈願い〉を叶えたければ戦え』


教室で説明を終えた後、あの灰色の男…塩崎 劉玄(りゅうげん)の言った言葉は実に的を射ていた。


「人」という歴史を見てきたような現実味を帯びた男の言葉に進藤は強く共感する。彼がここにいるのは叶えなければならない願いがあり、その為には何としても生き残らなければならない。生き残るためには常に安全圏を確保する努力をしなくてはいけない…。



それ故に彼は…危険度の低い球体〈ゲーグナー〉側へと移動できる事に心のどこかで安堵していたのである…。



・・・——————



「…彼女にも防御の手段があった。

僕の「盾」と違って硬度に関わらず、半透明の障壁を晴れる彼女が分断役になれば、僕よりも効率的に戦況の維持が出来ていたはずだ…。」


硬度の高い「盾」は基本的には対象を見透かすほどの透明度を持ち合わせてはいない。だが、彼女の「御神札」による障壁ならば、的確に人型〈ゲーグナー〉の砲撃が防御出来る上に「御神札」を分ければ、大量の〈ゲーグナー〉がいる[黒い壁]戦線の補助も可能となる。


砲撃の威力によって補助が出来ない場合でも、防御に特化していた彼女であれば自身の身を守る事は十分に可能であったといえる…。



「でも…僕は逃げたんだ。

数は多いけど対処するのは簡単な黒い〈ゲーグナー〉。

能力が未知数な上に遠距離と機動性もあるように思えた白い〈ゲーグナー〉…。

両者を比べれば明らかに前者の方が危険は少ない。

だから、僕は灰原さんの提案を受けて楽な方を選択してしまったんだ…。」


そして、進藤は崩れ落ちるように地べたに膝を落とし、頭を抱え込む。灰原に向けて懺悔するような形で頭(こうべ)を垂れ、身を震わせながら彼は懺悔を続ける。


「…僕には…僕にはどうしても叶えたい「願い」があった。

何をしても‥何を引き換えにしても‥救いたい人達がいた…取り戻したい世界があった…。

でも、君が撃たれた姿を見て、僕は自分の愚かさに気が付いた。

自分を大事にすることは誰かを危険に晒すことと同じなのだと…。

だから、灰原さん…本当に申し訳ない…申し訳ない…。」



彼は涙を流しながら謝罪する。


…丁寧な言葉使い、落ち着いた性格。身体さばきが非常に巧く、優しい人物…。


そういった印象を持っていた彼ですら、この「神様ゲーム」の魔に取り憑かれた。


【ML】争奪戦で戦った梶原もそうであったが、どうも「神様ゲーム」という世界や学校という場所。そして、あらゆる【願望】がかなう…という要素は参加者である生徒たちの平常心を著しく狂わせるものである。


この「魅力」に溢れた世界は、良い意味でも悪い意味でも生徒達に刺激をもたらし、生徒達の精神面に強い影響を与えているのだ。


「進藤…。」


彼もまた、この「ゲーム」の被害者なのだ。


梶原 宗助は「学校」という環境に影響されたと言っていたが、進藤 岳人に至っては【願望】に対する強い思いが彼を狂わせてしまった…。


ここに来るまでの人生と【願望】に懸ける思い。

生きてきた人生の険しさも距離も各々異なる人物達が集まった世界で生きていく限り、再び灰原はこうした状況にぶつかることになる事を予期した。



「人生」も、「経験」も、「記憶」も持たない灰原が彼らに共感することは決してできない。

しかし、分かり合おうとする事は出来る。

理解しようと意識を傾ける事は出来るのだ…。



「…進藤。俺が言える立場ではないと思うが、お互いこうして生きている。

俺が傷を受けたのは単(ひとえ)に実力不足が原因なだけだ。それは充分身に染みて理解しているし、進藤のせいだと思ったことは微塵もない。それに…」


不器用なりにも灰原は事実を述べることで進藤のフォローをした後、唐突に清々しい表情を浮かべ始める。


「…それに…怪我の功名ともいえるものも得られた…」


「…怪我の功名?」


鼻をすすり、進藤は首を傾げながら灰原に尋ねる。


「彼がこのような状態になったことで何か得られたものがあったのか…」と進藤は頭を回すが全く思いつかない…。


「灰原さん…。一体何を得られたと…?」


「あぁ…それは…」



…麗人は口元に手の甲を当てながら、超高速移動を駆使して治療を開始する…。




—————・・・—————



『…治療が完了致しました。灰原様、進藤様…本日はお疲れ様でした。お気をつけてお帰り下さいませ。』


「保健室」の麗人は超高速移動を続けながらも丁寧にお辞儀をして消えていった。


彼女が消える間際、その顔が笑っているように見えたのは進藤の気のせいではない…。


「ありがとう…クラウン。じゃあ、急いで戻るとしよう…進藤」


「…は、はい!」


灰原を先頭に二人は「保健室」を後にする。




 いつの間にか、茜色の空は黒く染まり、すでに時刻は一九時を回っていた。先程まで白い部屋にいたせいか、灰原には夜空の黒がより強く感じられた…。


「もう夜ですね…。」


「少し…冷えるな。」


腹部の肌が剥き出しになっているブレザーに袖を当てながら、灰原は身震いする。

蒼の治療により完治したと思っていた傷跡は綺麗さっぱり無くなっており、桃色だった肌も元の色に戻っていた。


どういった治療をしていたのかは、灰原には見えなかったため詳細には分からないが、「保健室」の麗人である彼女の治療は凄い…という事は大まかに理解できた。


「熾凛~!」


聞き慣れた声が聞こえ、声の方角へ身体を向けると蒼、雨崎、志村の三人が駆け寄ってくるのが見えた。


「傷は…もう大丈夫?」


「あぁ、見ての通りだ…。蒼のおかげで助かった。本当にありがとう。」


腹部の肌を見せた後、灰原はお礼を述べると、やはり…というべきか「ふふーん」と自慢気な表情を浮かべた後、「無事でよかった…。」と優しく声を掛けてくれた。


「それと雨崎、志村…。突然、隊列を崩すような事をして済まなかった…。」


そう言って灰原が頭を下げて謝ろうとすると、誰かに左右から両肩を抑えられていた。


「…いや、謝る必要はねぇよ。むしろ、お礼を言うのは俺たちだ…。」


「そうですよ…灰原さん。」


顔を上げると、雨崎と志村が灰原の肩を抑えていた。


「まぁ、初めは驚いたけど…ありがとな。俺たちのために…。」


「本当にありがとうございます。灰原さん。」


「…二人とも…すまない。」


二人にお礼を述べた後、脇に立つ進藤に視線を送ると笑顔で頷いていた。


—————自分のことはもう気にしなくてもよい…という事なのだろう。


「…?」


 お礼と謝罪をした後で灰原は周囲の違和感に気が付く。


現在、〈第一校舎〉一階廊下の「保健室」前にいる灰原達だが、廊下の前後を見渡しても灰原が初めて倒したはずの球体〈ゲーグナー〉の姿が見当たらないのだ。


「どうしたのですか?」


不意に何かを探すように左右を見渡し始めた灰原に雨崎が声を掛ける。


「いや…倒した〈ゲーグナー〉はどうなったのか…と思ったのだが…。」


「あぁ…それなら消えちまったよ。」


「消えた…?」


「うん。そうなの…。」


蒼が腕を組みながら渡り廊下の方角へと視線を移す。



…その後、三人に詳しい話を聞くと、どうやら灰原と進藤が「保健室」に運ばれた後に〈ゲーグナー〉の亡骸は校舎の壁や廊下に吸収され、同時進行で破壊された渡り廊下の壁も修繕されていった…とのことらしい。



「なるほど…。」


〈ゲーグナー〉が襲来した後は学校側が〈ゲーグナー〉の亡骸を回収し、校舎の修繕を行う。回収した〈ゲーグナー〉がどうなるのかは灰原達には分からないが、何はともあれ…これで初めの戦いを乗り越えたのだ…。


「もう…帰っても大丈夫なのだろうか?」


安心すると、再び空腹感と疲労感が灰原の身体を駆け巡り始める。

傷の回復もあり、何とか歩ける程度の体力は回復したが、溜まった疲労に対して身体が休息を求めていた。


「いいんじゃねぇか? もう日も暮れちまってるし…。」


「そうですね…。今は早く帰りたいです。」


志村と雨崎も疲労感を隠し切れないのか…疲れた表情で灰原の意見に賛同する。蒼と進藤も変えることに納得した様子であった。


「じゃあ、皆で「マンション」に戻るとしよう…。」


「悪いな…。俺らはちょっと用事あるから…先に二人で帰りな…。」


「そうなのか…。三人とも今日はありがとう…。」


「お疲れ様でした。じゃあね、雨崎ちゃん。」


どこか締りの悪そうな顔をしていた志村をよそに灰原がお礼を述べ、続いて蒼も別れの挨拶をすると三人はそれぞれ返答を返す。


「おう…また明日な。」

「はい。お疲れ様でした…。」

「お気をつけて…。」



別れを告げた後、灰原は蒼ともに〈第一校舎〉の玄関入口へと向かい帰路へ着く。


「そういえば…ここって上履きとかないのかしら…?」

「上履き…?」


…などと二人が会話をしながら玄関入口へ向かうのを見送っていると、雨崎は口を開く。



「志村さん。用事って、何かありましたっけ…あ、最上さんと何か約束されていたとか…。」


「いや…まぁ、そのあれだ‥‥。」


「空気を読んだのですね…。」


雨崎の質問に少し困った様子を見せた志村に進藤はフォローを加える。


「まぁ…そういう事だ。雨崎。」


「…?」


きょとん…とした表情を浮かべる雨崎を差し置いて、志村は進藤の身の安否を確認する。


「…にしても大丈夫か、進藤。色々と噛まれてたけどよ…。」


「はい。「保健室」に行ったら、すぐに治してもらえたので…ふふ。」


「‥‥ん、なんか良い事でもあったのか?」


不意に笑い出した進藤に志村が質問すると、何とも清々しい表情で玄関へ向かう二人を見据えながら彼は答える。


「…いえ、ただ…あの人には敵わないな…と思ってしまって…。」


「…? あの最後に敵を蹴散らした…蒼って子の事か?」


「いえ…灰原さんですよ…。」


「どうしてですか…?」



放置されていた雨崎が質問を投げかけると、進藤は「保健室」での出来事を二人に説明し始める。



「‥‥とまぁ、こんなことがありまして…。」


自身の犯した過ちを軽快に語り、起承転結の結びの部分まで話し終えると、呆れ返ったような志村の表情と雨崎の気恥ずかしそうな表情が同時に浮かぶ。


「あ~…」/「…はぁ…」


声をそろえて二人は同じ感想を廊下に染み込ませる。



「「それは…敵わない…。」」




——————・・・———————


「怪我の功名…? 灰原さん…一体何を得られたと…?」

「あぁ…それは…」


その時の彼は自分がどんな表情をしていたのか気づいてはいないだろう。


だが、その顔でその台詞を何の迷いもなく言った灰原 熾凛という男に自分は一生敵わないだろう…と進藤に思わせる程、彼は無垢な黒い瞳を輝かせながら、笑顔でこう言い切ったのである。


「…蒼が笑ってくれた事…かな」


…なぜ、灰原だけが最後尾から迫る〈ゲーグナー〉に気が付いたのか…

…なぜ最前衛から最後尾までの長距離を駆け戻る事が出来たのか…


そして、瀕死の状態であった彼が死の間際まで気にかけていたのは誰であったのか…



そう—————。

無意識の内に彼は…その空虚な身に有る全身全霊を捧げ始めていたのである。



≪紅葵 蒼≫というたった一人の存在のために‥‥。


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