4.戦いと【願望】

6.「〈ゲーグナー〉 Ⅰ 」

 キーンコーンカーンコーン‥‥。


二人が「教室」に入ると、独特のゆったりと間延びしたリズムと音程のチャイムが鳴る。その音は妙に耳に残るような…心にぐっ…と引っ掛かる「何か」を秘めているようにも感じた灰原であったが、それが何なのかは分からない。


一方の蒼は「‥‥懐かしい。」と、どこか遠くの景色を見ているような表情でぼんやりと教室の天井四隅に設置されているスピーカーを眺めていた。


 チャイムが鳴った…ということは【ML】争奪戦の制限時間である「三時間」ギリギリに灰原たちは教室に到着したということである。


二人がその事実に気が付いたのは、教室の入り口…つまりは灰原たちを見つめる視線の多さによるものであり、二人は多少の気まずさを感じてしまうが、予想していた来訪者とは違っていた為か…数秒の時を経てから集まっていた視線は散開していった。


「…ふぅ…。」


――――…自分の席はどこだっただろうか…。


視線が散開してから一度落ち着いた後、灰原は教室内を見渡しながら、うろ覚えであった自身の席を探すが、ちょうど二人分の席が余白を残していたためにすぐに発見できた。自身の席に戻る道中、すでに席に着いていた最上(もがみ)と目が合い、灰原が軽く手を挙げて挨拶をすると、にやりと笑いながら「ギリギリだぞ。」と挨拶を返してくれた。


灰原との戦闘により足に重傷を負った梶原を「保健室」に運んで行った最上であったが、以外にも早く「保健室」から戻ってきていたようだ。


「保健室」に行った梶原がどうなったのか…灰原は最上に聞いてみたかったが、教室の空気がそれを許してはくれない…。


「…じゃぁ。」


「…あぁ。」


灰原と蒼が小さく別れの挨拶を交わし、二人は席に着く。




 その数十秒後、扉が勢いよく開いたかと思えば、バタバタ…と急ぎ足で白髪交じりの灰色頭の男が教室に入ってきた。


「うっし‥‥セーフだな…。」


黒板の上にある時計を見ながら塩崎は安堵の声を上げる。


すでに「三時間」のチャイムが鳴った後から二分が経過していたが、塩崎にとってはそれでも「セーフ」なのだ。重要なことは細かいところまで気にするが、どうでもよい事に関しては気にしないのが塩崎の性格なのだろう。


締めるべき栓、締めなくてもよい栓…という具合にON・OFFの切り替えをして無駄な力は使わない。ただし、その線引きは本人の独断によるものであろうが、その線引きの調整と切り替えの具合が巧(うま)いのは、実はこの男の長所であったりもする…。


そして現在、OFFモードの塩崎が教壇の中央にある教卓に到着すると「はぁ~…」と一息つく。最後は左右にゆっくりと身体を倒して身体の側面を伸ばし、咳払いをした後にようやく塩崎の話が始まる。


「…えぇ…んんっ。

お前ら【ML】は手に入ったな。

各々【ML】の入手では色々あったと思うが…。」


そういって、最上、蒼、灰原へと視線を移した後に塩崎は話を続ける。


「‥自分の【ML】を入手したと思う。そんで、今から説明すんのが…。」


塩崎が黒板に素早く板書をして、再び生徒たちの方へと振り返る。


「【Rk(ランク)】と

【Rs(ランクスキル)】Lv(レベル)についての説明だ。」


黒板に書いた自身の文字を「指示棒」で差し、授業の題目を述べると、何か面白い出来事でも思い出したのか、ニヤリ…とした顔を浮かべていた。


――――「おっ…今の俺、なんか教師っぽくない?」


…と自慢したいのが丸分かりの表情からは、中年の男には不相応な若者にも似た活気を放っていた。


襟のない白シャツにキャメルのジャケット、八分丈の黒パンツに灰色のスニーカー…という若めな服装も相まってか…そのズレもまた塩崎という人物の味なのかもしれない…。


「まずは【Rk(ランク)】だ。

【Rk】ってのは…そいつが持つ力量の証明みたいなものなんだが…。

まぁ、簡単に言えば〈ゲーグナー〉との戦闘による戦績を数値化し、経験値を可視化したもの…みたいな感じだな。

数を倒せばもちろんのことだが…強い〈ゲーグナー〉を相手にすれば、それだけでも十分に【Rk】を得る事は出来る。

その他の細かい【Rk】の上がり具合は、各々(おのおの)が戦闘を続けていけば、自然と掴んでくるはずだ。」


【Rk】の説明をサラリ…と分かりやすく説明した後に塩崎が満足そうに鼻息を鳴らす。


…どうやら本人の中でも、一発で説明出来た事に悪い気はしていないようだ。


「…んで。

「【Rs(ランクスキル)】Lv(レベル)」なんだが…どう説明したもんかなぁ…?」


 その満足そうな様子を見せていた塩崎の表情が一変する。


明らかに面倒くさそうな表情を浮かべた後、ポリポリ‥と頭を掻きながら黒板に表記する。少しの間、コンコンッ…とチョークの軽快な音が聞こえ、板書を終えた塩崎が振り向くと、黒板には…


『 【Rk】→ 戦績の証明、経験値の可視化。

  【Rs】「Lv」→ 【創造/想像(イメージ)】力の反映率、「創造物」の性能強化…etc。 』


…と書かれていた。


【Rk】に関しては先程の塩崎の説明で灰原は充分に理解できたが、「【Rs】のLv」に関しては、板書を見るだけでは今一つ分からない。


――――…そもそも…【Rs】の「Lv」とは何のことだろうか。


疑問を感じた灰原は唯一の手掛かりである〈生徒手帳〉を開こうとするが、その前に塩崎が説明を始めてしまったため、胸ポケットに差し込んだ手を元の位置に戻していた。


「そうだなぁ…例えばだが…。」


口を開くと、いつの間にか塩崎の手には【Rs】である「レイピア」が握られていた。


「…いつ「レイピア」を創造したのか分からなかっただろう?

こんな具合に【Rs】である「創造物」を創造するまでの「速さ」も【Rs】の「Lv」の恩恵によるものだ。そんで‥‥。」


続いて塩崎が軽く黒板を切りつけると、縦横と二つの斬撃が固い黒板に刻まれ、見事な十文字を描いていた。


軽く振っただけで「レイピア」の刃が硬そうな黒板を通ったというのは「レイピア」を実際に使った灰原だからこそ分かることだが、塩崎の「レイピア」が高い切れ味を有しているということになる。


端的に言えば、塩崎の「レイピア」に対し、それを元に創造した灰原の「レイピア」とでは、段違いに性能が異なるのだ。


「ま、俺の腕が良い…っていうのもあるが…。」


得意げな表情でそう言った後、「レイピア」を元に戻して塩崎は再び黒板に表記する。


「…軽く振っただけでこれだけ切れる。

つまり何が言いたいかっていうとだな…。」



『 〈創造の速度・補正強化〉 〈【Rs】・創造物の性能強化〉』



黒板の板面には、新たに端麗な文字が表記されていた。


遠目で見ても感じることだが、あの塩崎が書いたとは思えないほどに端麗な文字は、今しがた創造した美しい「レイピア」と同様に見ていて飽きを感じさせない。


灰原が塩崎の意外な面について考えていると、それとは別に不思議なことが起きた。


「レイピア」で切りつけた部分が元通りに修正され、綺麗な板面へと戻っていたのである。


この「教室」の中だけなのか…それとも校内にある物や施設も含まれるのか…。

その詳細も修正の仕組みも分からないが、破損した箇所は自動的に修正されるようだ。


「…「レイピア」をより軽く、より切れるように…。

【創造/想像(イメージ)】力を組み立てて生み出した「創造物」は、その見た目や性質は本物そっくりだが、こいつはあくまでお前らが想像し、創造(うみだ)したもんだ。

決して「本物」じゃねぇが、「本物」以上になり得る『可能性』も秘めているもの…それが【Rs】の本質…ってわけだ。

「剣」なら切れ味、強度…「銃」なら威力、精度…といった具合に、

お前らの【Rs】である「創造物」をより【創造/想像(イメージ)】に近いものへと昇華させるシステム…それが【Rs】Lvだ。」


ちょうどよい説明ができたことで満足した塩崎は「どうだ、見たか。」と言いたげに、腕組みをしながら嬉しそうに鼻息を鳴らしていた。


「‥‥。」


塩崎の説明を脳内で反復しながら、灰原は得た知識を自身のものへと昇華させていく。 


【Rk】は〈ゲーグナー〉戦での戦績であり、倒した〈ゲーグナー〉の数や〈ゲーグナー〉の強さによって変わる…とのことらしいが、塩崎の言うように実際に戦ってみないと分からない…というのがもっともな意見である。


そして、「創造物」の性能を左右する【Rs(ランクスキル)】の「Lv(レベル)」。


初めての「創造」の際、灰原は疑似【ML(マテリアル)】である〈生徒手帳〉を基軸とした幾層もの連想図を脳内に組み立て、幾数にも反復することで「細く」、「軽く」、「切れるもの」‥‥といった具合に「レイピア」の構成概念を固定化させ、塩崎の「レイピア」という『皮』を固定した「レイピア」の構成概念に被せた。


灰原にとっての「創造」とは、基軸となる脳内での「構成概念の固定化」を重要視しているために塩崎の説明は分かりやすくもあった。


それでも灰原自身の言葉でこれを解釈するならば、【Rs】の「Lv」は【創造/想像(イメージ)】の反映率と創造する速度を上げるもの…という考えが妥当な見解である。


「…じゃあ、大本である【Rs】の精度はどう上げるか?

極端に言えば、〈ゲーグナー〉を倒して【Rk】を上げることで【Rs】が上げられるようになる。ついでに言うと、【Rk】が上がれば「ランク戦」が発生するんだが…。」


――――「ランク戦」?


聞き慣れない単語に好奇心と知識欲が刺激され、灰原は反射的に聴覚に全神経を集中させていた。


「…まぁ、その時になったら説明するわ。」


灰原の期待をよそに塩崎は我が道を歩む―――。


「…ある程度の説明が終わったところで‥お前らには〈ゲーグナー〉と戦ってもらう。」


「‥‥?」


塩崎の言葉に生徒の何人かが呆気にとられていた。


異世界から来るという〈ゲーグナー〉と、いきなり戦う事になるとは予想していなかったのだろう。


「え、これからなの?」と後ろから聞き覚えのある声も聞こえてきていた。


「‥‥。」


灰原自身も驚いてはいたが、「これから戦うことに」…ではない。


―――〈ゲーグナー〉は異世界からやって来るものではなかっただろうか…。




…教室内に充満し始めた不安や困惑の念を感じ取った塩崎は一つ訂正を加える。


「…まぁ、話は最後まで聞け。何も「本物」じゃねぇよ。

シミュレーターを使って、仮想の〈ゲーグナー〉と戦うだけの「お遊び」みたいなものだからな。」


「シミュレーター」、「仮想」…と灰原にはよく分からない言葉もあったが「本物」ではなく遊びのようなもの…ということは〈ゲーグナー〉と戦う「練習」のようなものなのだろう。


確かにいきなり本番を迎えるよりも練習をした方が精神的には楽な気もする…。


 【ML(マテリアル)】探索の最中に「グラウンド」で見た生徒同士の戦闘では【ML】から創造までに時間が掛かっていた。灰原自身も実際に「創造」をしたことで気づいたことだが、【創造/想像(イメージ)】力の組み立てにはそれなりに時間が掛かる。


【Rs】Lvが低いことも理由の一つに違いはないが、それでも【ML】、【創造/想像(イメージ)】力、【Rs(ランクスキル)】を駆使した戦いの経験は詰んでおいて損はないだろう…。



「…あと、忘れてたけどな…。」


ぼそり…と塩崎が思い出したように話し出す。

先程までの饒舌はどこに行ったのか…どこか気恥ずかしそうな気配がしたのは、灰原の気のせいではないだろう。


「…【ML】を持ったことで、お前らは本格的に「神様ゲーム」に参加することになる。今からやるのは「練習」だから、攻撃を受けても痛みが少しあるだけで死にはしない…でもな‥‥。」


そこで一度言葉を切り、教室の天井を数秒見上げた後「んんっ…」と喉を鳴らして塩崎は現実を告げる。


「…「本番」がいつ来るか分からないから、今のうちに言っておく。


‥ここで死んだら現実(リアル)に死ぬ。


死ねば、ここでの存在は消えると同時に「生者」は自分の世界でも死んだことになるし、「死者」の魂は元居た世界へと帰還し、魂は浄化され、全ての記憶を抹消されちまう。


…まぁ、正直に言えば、この俺にも具体的にどうなるのかは分からんが‥‥


ここは「神」って奴が作った仮想の世界で――。

ゲームの参加者であるお前らの見た目は一八歳くらいの高校生だ―――。

「ゲーム」といえども、プレイヤーはお前ら本人―――。


だから…死んだら死ぬ――――それだけは覚えておけ。」


その時の塩崎が何を考えていたのかは分からない。


それでも一人の「大人」が告げた現実は直接的であるからこそ、より冷酷に感じられた。


「…ここ「Aクラス」には三十人。

他のクラスを併せれば、ここには「九十人」の生徒と「四人」の教師陣がいる。

だから、絶対に一人でどうにかしようとするな‥‥仲間を頼れ、人を頼れ。

本当に誰も頼れなくなったら――――いざとなったら、俺が何とかしてやる。」


…そう言い切った途端、自分の言った言葉に恥ずかしさを感じ始めたのだろうか。羞恥に溢れた心を覆い隠すように腕組みをして、塩崎は身体を窓の方へと向けていた。


「…一応【Rk】:「100」になりゃあ、全員【願望】は叶えられるしな…。」


塩崎は独り言のようにそう付け足した後、身体を正面に向き直す。


そのまま両手を上げて教卓をバンッ‥と叩くのかと思えば、教卓に当たる直前に手を緩める。そして、ゆっくりと教卓に両手を着け、下を向いていた顔を生徒達の方へと向けた。


「‥‥以上、お前ら「Aクラス」の担任、塩崎 劉玄(りゅうげん)だ。」


 担任の塩崎は初めて自らの名前を告げる。


初めの「チュートリアル」の際は、別の「何か」が塩崎の事を紹介していた事もあり、生徒たちは塩崎の苗字を知っていたが、塩崎本人にしてみれば、ずっと歯痒い思いをしていたのであろう。


相変わらず不器用ではあるが、これが塩崎なりの自己紹介のつもりだったのかもしれない。


「…うし。じゃあ、気を取り直して…。

そろそろ、仮想〈ゲーグナー〉との「シミュレーター演習」を始めるぞ。」


区切りをつけた塩崎が意気揚々と教卓に預けていた身体を上げた瞬間であった――――。




『田中様がいらっしゃいました。皆様、お迎えの準備をしましょう。』




突然のアナウンス。

その無機質で無表情な電子音は今まで聞いていた電子音と同じ女性の声音であった。


「…むっ…。」


何事かと思い、灰原は左右を見渡す。



「え…これって…。」「…?」「なんだ…。」



他の生徒達も困惑している様子が見られた。

「後ろの席にいる蒼はどうだろうか…」と思い、灰原が背後を振り返ろうとした途端…


『こっちを向け』


教師陣である塩崎の持つ【絶対命令権】が発動する。

無意識下の行動により、生徒たちは知らぬ間に塩崎の方へと身体を向けていた。


視線の先にいた塩崎の顔を見ると、その表情は鬼気迫るものであったのだが、内心から僅(わず)かに染み出た「焦り」の念を灰原は察知する。


「‥‥すまねぇな。

どうやら、練習無しのぶっつけ「本番」になっちまったらしい。」


鬼気迫る表情で塩崎は謝罪していた。

その灰色の旋毛(つむじ)を見せ、教壇の上で頭を下げる姿からは塩崎に有るまじき健気さを感じさせた。


「‥‥‥‥!?」


塩崎の謝罪から数秒の時を経た後、「本番」という言葉の意味をようやく理解した生徒達は『未知』によって芽生えた不安に襲われていた。


「‥‥。」


しかし、生徒たちの表情を見た塩崎は自身の表情と言葉によって、この状況が生まれてしまったことを察したのか表情を元に戻した後、言葉を綴(つづ)る。


「お前ら、今から言う事は肝に銘じておけ。」


再び顔を教卓に下げてから、ごくり…と唾を飲み込んだ後に塩崎は命令する。


「死ぬな。何としても生き延びろ。」



…単純明快な一言。


しかし、だからこそ…なのか塩崎 劉玄(りゅうげん)という人物の意志を真っ直ぐに感じられるような短くも重みのある「魂」が、その言葉には宿(やど)っていた。




―――――――――・・


…塩崎の指示を受け、Aクラスの三十人の生徒たちは各列六人を一班とした計五つの班に分かれ、校内の各地に散開する。


灰原と蒼は同じ列のために同じ班となっているが、左隣の列にいた最上とは別の班になってしまった。


「‥‥そうか。最上は別の班になってしまったのか。」


「まぁな…そう心配するなよ。また、後で会おうぜ。」


「武道場」にいた時と変わらない様子で最上はそう言い残し、自分の班へと戻っていく。


その途中、灰原達の列の前席にいた茶髪の男子生徒と眼鏡をかけた女子生徒にも何か言い残していく様子が見られたが、灰原にその内容までは聞き取れなかった…。


「〈ゲーグナー〉の侵入はもう始まっている。戦闘中に怪我を負った生徒は戦線を退避した後、〈第一校舎〉の一階にある「保健室」に向かえ。

俺は各所の見回りとサポートに行くが、戦力としては期待するなよ…。」


苦虫を噛み潰したかのような表情で塩崎はそう言うと、早々に教室を後にして校内の探索に向かってしまった。


あの「レイピア」を持つ塩崎が「戦力にならない…」と言い残したことに灰原は疑問を感じていたが、緊急時であったためにその疑問は自身の中で保留する。


しかし、問題はそれだけではない。


【ML(マテリアル)】である「竹刀」を入手したのは良いものの、一度も「創造」はしていないのだ。【ML】入手時に流れた電子音の中に「【Rs(ランクスキル)】解放」の報告があったものの【Rs】を確認する時間が無かったため、未だに灰原は自身の持つ【Rs】が不明のままであった。


――――彼女はどうだろうか…。


灰原は蒼が【ML】を入手した時の様子を思い出そうとするが、あの時は梶原の乱入があったために彼女が【ML】を入手した時の事は分からない。


その時に何を創造したのかも不明であったため、心配になった灰原は蒼に声をかける。


「蒼…。」


名前を呼んでも反応がないため、彼女の顔を覗き込むと、その表情は緊張で強張っていた。同じ班である他三人の生徒も各々で反応は違ったが、「恐怖」や「不安」といった感情を表情や身振りであらわにしている。


しかし、それに比べて灰原自身は心臓の音が少し高まっているぐらいで意外なことに頭はすっきりしていた。


「蒼。」


再び彼女の名前を呼び、灰原は蒼の肩に触れる。

すると、身体をビクつかせた後に彼女は灰原の呼び掛けに気がついた。


「熾凛(さかり)‥‥。」


不安を押し殺そうとしながらも、自身を見つめる彼女に初めは「大丈夫か…」と彼女の心境を伺おうとも思った。


…だが、彼女の表情を見た灰原はその質問をすぐさま破棄する。


 敵は未知数、正体はどんなものか分からない―――。


「分からない」、「不明」…『未知』という存在は時に【恐怖】を帯びている。記憶のない灰原だからこそ、その『未知』が持つ【恐怖】は誰よりも痛感している。


―――そんな俺を一番に救ってくれたのが彼女だ。

彼女の笑顔とその性格に何度も助けられた。

その彼女が不安を抱えて困っている今こそ、その恩を返すべきだ。



…何よりも彼女には笑顔でいてほしい。

だからこそ…俺は、この言葉を届けよう―――。



「‥‥蒼。無事に帰ったら…一緒にご飯を食べよう。」


自然と出た笑顔と黒く澄んだ眼(まなこ)で、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめながら灰原は話し出す。


「えっ…。」


我に返ったのか…蒼の表情は本来の柔らかさを取り戻しつつあるが、まだ顔の強張りは抜け切ってはいない。


「…だが、俺には料理が出来るのか…分からない。

自分に何ができて、何ができないのか…記憶のない俺には何も分からない。

蒼がいなければ、自分の名前だって分からなかったかもしれない…。

きっと俺は誰かに…信頼できる誰かに教えを乞(こ)わなければ、一人では絶対に生きてはいけない…。」


――――俺には‥‥何も分からない。何も覚えていない。無知で未熟者だ…。


人を見て、人と出会って、人と話をして、人と戦って…。


半日の「観察」で得た知識と経験は、確かに灰原の知識欲と好奇心を満たしてくれた。


だが、それとは相反する形で、男の内側では別の感情が徐々に、徐々に…溜まり始めていた。


‥‥‥あぁ、己の【「◇◆さ】に腹が立つ――――。


それは無慈悲にも、その事実すら自覚していない男の幼い自己肯定感を蝕(むしば)み始めていた…。





「…俺には蒼がいないとダメなんだ…。

何も知らなくて、何もできない。

無能で貧弱な力しか持たない俺だが、持てる力の全てを懸ければ、蒼の力になることはできるはずだ。だから、一緒に頑張ろう…蒼。」


伝えるべき事は全て伝えた。


上手く灰原自身の心の内を彼女に伝えられたのかは分からないが、緊張で青くなっていた蒼の顔色が赤味を帯び、表情が緩くなっていたことから灰原は安心していた。


「…?」


だが、背後から眼差しを感じて振り返ると、同じ班にいる眼鏡で三つ編みの女子生徒がなぜか赤面していた。


――――俺は何か…おかしな事でも言ったのだろうか…。


同じ班の男子生徒二人を見ると、何とも言えない歯痒い表情をしていた事から灰原は自分の伝えた言葉に自信が無くなってきていた‥‥。


「校舎」は〈第一校舎〉と〈第二校舎〉の二つの校舎が存在し、渡り廊下で繋がっている。


〈第一校舎〉は四階建てになっており、生徒の教室や「保健室」があり、主な活動拠点となっている校舎である。二階建ての〈第二校舎〉は「理科室」「美術室」「家庭科室」…等の普段はあまり使われない教室がある。


灰原達の班は「校舎」担当になっており、他クラスから来た二班と合同で行うこととなった。他クラスとの合同…と聞いた灰原は「Bクラス」にいる梶原(かじわら) 宗助(そうすけ)の姿を探すが、その姿は見えない。



…しかし、灰原達の班を含む校舎組の三班は「Aクラス」の教室前に集合したのは良いものの、早々に〈第一校舎〉内をクラス別で探索することになってしまった…。


Cクラス

「では、私達はあちらを探索させて頂きますので…。」


Bクラス

「ほな…うちらも好きにいこかぁ…。」


…Aクラス

「…あ、あぁ。了解した。」


出会って数秒で‥‥この始末である。


何とも協調性が無い…ともいえるが、実際には分散して捜索に当たった方が合理的であったりもするため、灰原達が他クラスに意見することはなかった。


―――――・・


そして現在、灰原達がいるのは〈第一校舎〉の一階。


「保健室」、「資料室」、「職員室」…等がある一階廊下の前後最奥には「マンション」にあるものと同じ形態の半透明なガラスで覆われたエレベーターと、それを囲うように階段が配置されている。


【ML】である「竹刀」を構え、いつでも〈ゲーグナー〉に対応できるように灰原は体勢を整える。


班の隊列の組み方としては、前方に灰原と蒼、真ん中に眼鏡で三つ編みの女子生徒、そして後方に黒髪と茶髪の男子生徒二人という…二・一・二の隊列を取っている。


本来であれば、各々の【MR】と【Rs】、主な「創造物」などを把握しておきたかったのだが、残念なことに――――その時間はない。




異世界からの侵入者〈ゲーグナー〉が目の前に現れたためである―――。


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