第2話

 ゆっちーというのは小中学校に通っていたときの俺のあだ名である。その名で呼ばれ、ピンときた。


「紅葉って、お前まさか」


「そうそう。この学校で一緒だった照山紅葉。同じクラスだったじゃない」


 かの童謡『もみじ』を知っていれば、当時誰もが一度で覚えた名前――照山紅葉てるやまもみじ


 今でも覚えている。彼女が転校してきたのはちょうど音楽の授業で『もみじ』を歌っていた小学三年生の秋のことだった。今でこそ女性らしく成長して見えるが、転校してきたばかりの彼女は両親の愛を一身に受け過ぎて育ったことが一目でわかる甘やかされボディーをしていた。

 そして案の定というかなんというか、音楽の授業で歌う際、『照る山紅葉』と歌詞のあるところで無駄に大きな声を出す男子生徒が現れた。同じ名前の彼女をからかったのだ。

 もちろんその生徒はピアノを伴奏していた先生から注意を受けたが、懲りずにまたやり、それを俺を含めた男子生徒のほとんどは笑っていた。

 褒められたことではないが、幼さ故の残酷性と言うまでもない。よくあるからかい半分の遊びだ。


 先生も諦めたようにもう一度『もみじ』の伴奏を始め、いざ問題の歌詞のところで、今度は紅葉が一番大きな声を出した。しかもきちんと、彼女はメロディーに乗せてその箇所を歌った。


 先生も、からかった男子生徒も、他の生徒も全員が驚いて、音が止まった。


 そこで、彼女は屈託なく笑って言ったのだ。


「どうしたの? いい歌なんだから、みんなで大きな声で歌おう?」


 以来、照山紅葉は男女問わずクラスの人気者になった。元々明るく前向きで、人を引きつける魅力のある彼女の性格をみんなが好きになった。


 中学校に上がった頃、その大声を出してからかった男子生徒と照山紅葉はほんの短い間付き合っていたという話を聞いたことがあるが、これは本当に余談。


「ひっさしぶりねーゆっちー。成人式なんで来なかったの?」


「あー……あの日はたまたま、予定が合わなくて。仕事でさ」


「ありゃ、そうなの。学生の身でこんなこと言うのも失礼かもだけど、成人式くらい会社も行かせてくれればいいのにねえ」


 紅葉もどうやら学生らしい。気を遣いながら同情してくれた紅葉には悪いが、違うのだ。会社はむしろ成人式当日を休みにしてくれようとした。俺自身がそれを断った。


 仕事を始めて以来、プライベートでは徐々に無気力になり、積極的に友達と遊ぶということをしてこないまま二十歳を迎えた俺は、同級生の集まる場に行く意義を見いだせなかった。

 今ほど夏樹相手に名乗ったように、深く考えずに参加してしまえばきっと良かったのだが、参加を悩んでいる内にだんだんとネガティブな思考に捕らわれていき、『俺が行かない方がみんな喜ぶのではないか?』というところまで行き着いたところで、面倒になり不参加を決めた。

 

 こうして同級生二人に会い、暗い中でも自分のことをすぐに思い出してくれたこと。小中学生だった当時のように親しげに話してくれること。どちらも自分にとっては信じがたいほど嬉しくて。

 今更、もし成人式に行っていたらこんな風に旧友と縁を結び直せたのかもしれないなんて思い始めていた。


「紅葉と二人でいても感じないけど、祐一くんがいるとなんだか小学生か中学生に戻ったみたいな気持ちになるよ」


「……夏樹は中学の時から顔変わってないよ。すぐわかった」


「あ、ゆっちーもそう思うでしょ? あたしも成人式で久しぶりに見たときおんなじこと言った!」


「……二人はいつから付き合ってるの? 成人式?」


「いや、大学三年の夏だから成人式より結構後」


「成人式では顔変わってないねって話しかけてそれきり。その後よ、あたしぜんっぜん気付かなかったんだから。夏樹が同じ大学に通ってたの」


 気付けば間に挟まれたまま会話が続いていた。


 二人が交互に話す内容をまとめると、夏樹の方は紅葉を入学式から認識していたらしい。紅葉の甘やかされボディーは進級、進学する度に背が伸び、すっきりと洗練されていき、中学卒業の頃にはぽっちゃりとさえ形容できない体型になっていた。高校は別々だったので、同じ大学に進学したのは本当に偶然らしい。


 夏樹は、新入生の名簿を見たときに『照山紅葉』の名前を見つけ、席を確認する際、見慣れない化粧越しにも面影の残る顔を見つけて確信したようだ。だがわざわざ近くに行って声を掛けることもなく、そのまま大学生活を過ごしていた。


 紅葉は高校からの友達何人かと一緒にその大学へと進学したこともあり、入学後しばらくはその友達と一緒にいたようだ。

 それからそれぞれに出来た友達とさらに友達になるといった形で輪を広げていったらしく、広い交友関係を築いていたが、その輪の中に夏樹は含まれなかった。


 それというのも、夏樹は大学卒業に必要な必修科目と必要単位数をすぐに確認し、講義に出席する以外の時間をほぼアルバイトと資格の勉強に当てていたというのだ。

 交友関係を無闇に広げず、グループで行う作業の多い授業は極力取らず、自分のペースで勉強できる時間を確保することに余念がなかった。そんな大学生活の前半を送っていたために、もちろん部活やサークルにも参加していないし、同じ講義で直接見るようなことがない限り、夏樹は大学での遭遇が困難な『レアキャラ』と化していた。


「……俺の思い描いてた大学生活とは大分違った世界を生きてるな、夏樹は」


「でもその甲斐あって、資格はたくさん取れたよ。並行してアルバイトもしながらっていうのが結構大変だったけど」


 日商簿記二級、秘書検定二級といった就活での定番となるらしい資格から、アマチュア無線三級、インテリアコーディネーターなどといった聞き慣れなかったり、かなり専門的らしい資格まで幅広く取得したらしい。


「それだけ資格をたくさん持ってて、四年生の九月に就職決まってないってどういうことなんだ?」


「……あまりに選択肢が増えすぎたというか、就活への不安から取ったはずの資格に縛られているというか……」


「……まあ、選ぶ余裕があるなら良かったな」


 本末転倒ではないかという言葉は胸にしまった。


「本末転倒でしょ? 頭いいのにアホなのよ夏樹って。あと気が小さい」


 俺がせっかく胸にしまった言葉を紅葉は遠慮なく吐き出した。キミは語気が強すぎる。


「成人式で久しぶりに顔を見て、あたしの脳と網膜が覚えたんでしょうね。たまたま大学の廊下ですれ違ったときになんかもやもやして、後追っかけてじーっと見つめてる内に目の前の顔がピタッと重なったの! 成人式で会った夏樹の顔と! 飛び退いて『なんでいるの?』って指さしちゃったわよ」


「そりゃ驚くよな……」


 入学して二年が過ぎる時期に、在学しているとは夢にも思わない人物が普通に学校の廊下を歩いていれば不審がって当然だ。成人式が一月中旬でその後だから、期末試験前くらいの時期か。


「学科が違うとはいえ、すれ違うのすらあの日が初めてってことはさすがにない。夏樹はね、大学ではやたらフレームの厚い眼鏡を着けててね、それでまじまじ見ないとわからなかったのよ」


「いると思って見てなきゃ見逃すよな。探しながら歩いているわけでもないし」


「ていうか気付いてたならそっちから声掛けなさいよって話よね」


 夏樹も見つけてもらえるのを待っていた訳じゃなさそうだから、そのあたりは微妙な話だけれど。


「それで、同じ大学なんだってあたしがようやく認識してから三年生になったんだけど、二年生から三年生になるタイミングでね、夏樹のゼミの先生がよその大学に異動になっちゃったのよ。それで夏樹は新しいゼミの先生を探してて、あたしが『うちのゼミに来れば?』って誘ったの。それからも夏樹は相変わらずどこで何してるのかなかなか読めない人だったけど、ゼミの時間に話したりしてる内に仲良くなって、その……ね?」


 付き合い始めたと。

 今は付き合い始めて一年と少しってところか。少しなよっとした夏樹と、男前な性格をしている紅葉の二人はあべこべだがお似合いのように見えた。


 さっきの口論だって、紅葉が夏樹の言外の真意をくみ取ろうとして発生した行き違いだった。嫌いな相手、無関心な相手に出来ることじゃあない。


 今、自分が付き合っている彼女にはしてあげられていないことだった。自分がやけに小さく感じる。


「――って、あたしはゆっちーに夏樹とのなれそめ聞かせるためにここに来たんじゃないっての。夏樹あんた、昼間のあれはどういうつもりで言ってたのよ」


 紅葉は思い出したように夏樹に詰め寄っていた。


「いやぁ、純粋に雲がなければ星が見えるかなぁと思って呟いただけで……」


「ほう。じゃあ今回はあたしと一緒に見たいなぁ的なニュアンスは一切含まずに口に出したのに、勝手に勘違いしてこんな夜更けに押しかけたあたしがただバカだったとそう言うのね?」


「……が、願望としてそのニュアンスは少し含んでいたけど、先回来なかったから今回も来ないだろうなって思ってて……」


 しまった。自分の現状をかんがみている間に二人がまた痴話喧嘩を始めた。


「夏樹のそういう遠慮がちっていうか、諦めがちなところ本当に良くない。他人に期待してないんだろうけど、上手くやろうとするよりちゃんと向き合ってよ。結果合わなかったら仕方ないじゃん。夏樹も自分を見せてくれなきゃ、ずっと一緒にやっていけるかどうか、わからないじゃない」


「そ、そうだよね……。わかった。神に誓ってこれからはちゃんとして欲しいことを口に出すよ。仏にも誓う」


「だーかーらー、そういうとこ! 神仏の前にあたしに誓いなさいよ! こっち見て誓え今すぐ!」


 紅葉は興奮しながら両手で夏樹の両頬を押さえて顔面をホールドした。夏樹はその状態のままなにかしら喋っていたが、展開を見るに「誓う! 誓います!」とでも言っているのだろう。


 夏樹は紅葉の腕を二度三度と叩いて手を離させると、唐突に「トイレに行きたい」と言いだし、駆け足で暗がりへと消えていった。


 止める間もないマイペースさに紅葉は毒気を抜かれ、その場にしゃがみ込んでしまった。


「さっそくやりたいことを口に出したぞ」


「あのマイペースさは前からよ。相手が絡まないことをするときは、すごくマイペース」


「発端になった『星が奇麗に見えるかなぁ』発言みたく?」


「そう。多分本気で無意識で言ってるのよね。あたしと見たかったって言ってくれたことも。星よりあたしを見ろと言いたいわ。あのバカ」


 ため息が一つ、紅葉の口から漏れ出た。


「……紅葉、言いたくなければ別にいいんだけど」そう前置きをして、紅葉がこっちを向いたのを確認してから訊ねる。「夏樹のどこに惚れてるの?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る