第2話 冷蔵庫のベッドで眠る

「おじいさん!!助けろ!」


 井守は叫びながら押し入れのふすまを開けた。中は空っぽだった。けれども、声だけは確かにそこにいた。


「ごめんね。ジジイ、声だけ来たんだ」


「訳の分からんことを言うな」


「本当のことだもの。君、わたしが書式を教えるから、それを鉈にでも書いて闘いなさい。ほれ、そこの戸棚のペンを持って」


 声だけの存在のくせに、ちゃっかり部屋を見渡せているらしい。井守はマジックペンを掴んだ。


「最初にプラスを書いて。それから右上に三日月みたいなマークを書くんだ。あとそれから……」


「???……よく分からんぞ。自慢じゃないが俺はあまり頭が良くない」


「昨日、君の右目の下に書いたやつだ。油性ペンで書いたから、まだうっすら残ってるんじゃないか?」


 井守は洗面所に走る。同時に、玄関のベルが鳴り止んだ。




 井守は鏡に映った文字を見て無性に苛ついた。


「おい、この複雑なやつを書けっていうのか?しかも鏡文字になってるんだぞ」


「がんばれがんばれ」


 やるしかない。井守は目を閉じて深呼吸すると、もう一度、鏡を見た。


 鏡に映る文字だらけの自分の顔。そして、真後ろに立つ異形。


「体を溶かして、扉の鍵穴から入ったんだろうなあ」


 イチゴパフェの暢気な声を聞きながら、井守はくるりと回って異形と向かい合った。


「おはよう。良い朝だな。もっと良い朝にするために、俺の家から出ていってくれないか?」


 頭の無い異形の男は井守の右手を掴んだ。昨日と同じように、その手はひんやりと冷たかった。井守の脳みそはどう対処すべきか考えた。けれども、途中で止めた。二階から、バタバタと騒がしい足音がしたので。


「おい!僕の友達に何をする!!」


 洗面所に現れた次郎が掃除用のバケツを異形の首に被せた。そうか、水だから切ったり殴ったりは出来ないけれど、容器に入れることは出来るな、と井守は思った。


 バケツを被せられて混乱したのか、異形は井守の手を離した。洗面所を出てふらふらと廊下をさまよう。


「……次郎、お前どこから家に入ったんだ?」


 次郎は両手を腰にあて、堂々とした声でこう言った。


「二階の窓からお邪魔したよ!」


「気味の悪いやつだな。いいか次郎、普通の友達はな、朝の六時に訪ねてきたりしないし、二階の窓からお邪魔したりもしない」


「仕方がないよ。僕と冥ちゃんは、普通の友達じゃなくて、親友ってやつなんだから!」


「まあいいや。俺の右目の下にうっすら書いてある文字みたいなのあるだろ。これと同じのをこの鉈に書いてくれないか?」


 言いながら、井守はマジックペンを次郎に渡した。次郎は受け取ってすぐにさらさらとマジックペンを走らす。次郎は頭がおかしかったけれど、説明を求めたりしないし器用だったので、井守は案外重宝していた。


 読めない文字の書かれた鉈。隙だらけの異形。全ての準備が整った。


 井守は鉈を異形の男に降り下ろす。右手。左手。右足。左足。それから胴体。五つのパーツにきれいに分けられたそれを見て、次郎がこんなことを言った。


「冥ちゃん、お肉屋さんになれるよ」




 朝ご飯あげる。じゃあね。そう言ってビニール袋を渡すと、次郎はさっさと帰って行った。いつも通りの対応を見て、少し落ち着いたのかもしれない。井守の腹がぐぅと鳴った。


「ジジイ、もう少ししたら君の家に着くから、待ってる間に朝ご飯食べちゃいなよ。そんじゃ、声も回収するから、また後でね」


 さっきまであんなに騒がしかったのに、急に家の中が静かになった。井守は次郎の持ってきたビニール袋をあさる。中身は戦隊ヒーローの描かれたパッケージのレトルトカレー。あんパン。コアラのマーチ。缶入りドロップス。


「あいつ、自分より年下のやつはみんな幼稚園児にでも見えてんのかな……」


 レトルトカレーを温めるために、井守はキッチンへ向かう。廊下に放置された異形の体を跨ぎながら、ひとつのことに気が付いた。


 井守の家の玄関は、入ってすぐ廊下である。つまり、宅配の者などが今やって来ると、とても面倒なことになる。


 隠すことにした。


 井守は黒い15リットルのゴミ袋に手足をひとつずつ入れる。そうして出来た四つのゴミ袋と胴体を、冷蔵庫にまとめて入れた。封をしなかったので、袋からは指が見えている。冷蔵庫の扉を閉じた。


 レトルトカレーを皿に移しかえて電子レンジで温めた。米を炊くのは面倒だったので、井守はあんパンにカレーをつけて食べた。食べながら、カレーのおまけの、ヒーローのシールの使い道を考えた。


 井守は冷蔵庫の扉を開ける。異形を入れた黒い15リットルのゴミ袋に貼りつけてやることにしたのだ。こいつさえ家に来なければ、米を炊くぐらいの体力はあったはずだ。だから、米のうらみだ。あと、このシールを貼れば、少しは冷蔵庫の中の絵面の事件性も低くなると思ったので。


 ぺたり。ヒーローのシールは無事にゴミ袋に着陸した。本当は異形の着たおしゃれなスーツに貼り付けてやりたかったが、水にはシールを貼れないものだ。シールを貼り終えた井守は、捕虜にも食事を与えなければなるまい、と思った。こいつは水だ。水って何を食べるんだろう……。


 ビニール袋にはコアラのマーチと缶入りドロップス。パッケージのコアラと、目があった。




「お、食べてる食べてる」


 あやとりをしているコアラはにっこりと微笑んでいる。そしてゆっくりと異形の体に取り込まれていく。異形は胴体だけの状態なので、井守が一粒ずつ首の断面に突き刺してやった。なんとなく井守は中学生の時に飼っていたハムスターを思い出した。


「もっと食うか?」


 ぽん、と音がして、ドロップスの缶が開けられた。リンゴ。メロン。パイン。スモモ。色とりどりの飴が異形の体に消えていく。ハッカ味は苦手かもしれないと思ったので与えなかった。




 もう少ししたら着くと言ったイチゴパフェは、昼になってもやってこなかった。


「約束破りだぜ、あいつ」


 冷蔵庫の扉を開けて井守は異形に話しかける。


「俺は待つのに飽きたから昼寝するよ。お前はどうする?」


 返事は無い。


「おやすみ。良い夢見ろよ」


 冷蔵庫の扉を閉じた。

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