第九話 疑わずにはいられない


 金曜までの調査は難航した。三年一組に知人がいる下級生を探し、片っ端から訊いて回っても有力な情報は得られなかったのだ。


 大半の三年生は夏休み中かそれ以前に引退していることから、今でも接点のある下級生というのはかなり少ない。その僅かな例外の発見にはまだ時間がかかりそうだった。


 引退しても何だかんだで部活に顔を出す三年生もいるらしいけれど――せめてわたしが何か部活動に所属していたら、多少楽だったかもしれない。


「同じ線でいくなら、部活動顧問の先生に話を伺うのはどうでしょう」


 昼休みの国語科準備室。木野先生は人差し指を立てて言った。


「熱心な顧問なら引退前後の彼らがどんな様子だったか知っているはずです。何か変化があったなら、その生徒に会ってみるのがいいかと」

「それができるなら、そうしたいですけど」


 そのまま首肯するのはためらわれた。コウ兄さんの見解では、教師は事を荒立てないことを優先して考える傾向にある。もし部活動顧問に何か気付きがあったとしても、素直に話してくれるとは限らない。


 木野先生のことは信頼している。でも、他の教師はそこまで信用できない。


 その根拠になりうる矛盾を、わたしと藍生は既に掴んでいる。


「一組の担任の先生は、どこかの部活の顧問をしているんですか?」


 藍生が尋ねると、先生は指を引っ込めて手を机の上に置いた。


「いいえ。榛村はりむら先生は他の役職があるので、今は顧問を請けていません」

「役職というのは?」

「簡単に言えば、三年クラス担任のまとめ役みたいなものです。年度初めの学校通信にも載っていますよ」


 へえ、と呟く藍生。


 。その情報は、あくまできっかけの一つ。


「正直に言います。僕らは榛村先生が嘘を吐いているのではないかと疑っています」

「……どうしてですか?」

「噛み合わなかったんです。火曜から今日にかけていろんな生徒から聞いた限りでは、三年一組の生徒が私語を一切しなくなったという話にはかなり無理がある」


 この四日間で、わたしと藍生は有力な情報を得られなかった――けれど、それは整合性の取れる情報が見つからなかった、という意味だ。


 視点の違い。


 生徒側からの立場で一組を見た場合、あのクラスは「夏休みが明けてから真面目な空気になった」程度でしかない。休み時間にも私語をしていないなんて極端な話は、十数人に訊いて一度も聞かなかった。


 平静な表情の木野先生に、藍生は更に論証を提示する。


「火曜日のときから違和感はありました。木野先生は妙に誰主観での認識かを明らかにして話していましたよね。あれは最初から、一組担任の思い過ごしではないかと疑っていたからなんじゃないですか?」


 やや沈黙の間が空いてから、木野先生は答えた。


「ええ、そうです。普通に考えて、おかしいと思うでしょう。いくら受験生で真面目にならなければならない時期とはいえ、然るべきとき以外でも私語をしないなんて行き過ぎています」

「だったらどうしてあのときそう言ってくれなかったんですか。無駄足になるとわかっていながら」

「無駄足ではありません」


 はっきりと断言する木野先生。


「こんな言い方は不適切ですけれど、榛村先生はベテランの方ではありますが少々思い込みの強い人です。受け持っているクラスが真面目な雰囲気になりつつあるなかで、その変化を極端に捉えてしまったのではないか。依頼を聞いた時点で、真っ先に私はそう考えました」


 大人が大変なのではなく、大変な大人がいるというだけ。


 この依頼を仲介すること自体が、上司にあたる榛村先生へのポーズに過ぎなかったのだろうか。


「彼の認識の真偽はきちんと確かめる必要がありました。たとえ榛村先生の勘違いであったとしても、この機に別の問題を顕在化できるかもしれなかったので」

「別の問題?」


 また知らない話が出てきた。木野先生が正直者だとはいっても、隠し事がないわけではないみたいだ。


 眼鏡の位置を直して、彼女は言う。


「実は一組には、二学期に入って以来不登校になった生徒がいます。私が疑っているのは、その子がいじめの被害者だったのではないか、ということなのです」




 過ぎ去った夏の残滓が夕暮れの空に溶けていた。通りがかった草むらから滲み出すように聞こえる虫の声に、心なしか急かされている気がした。


「そういえば今日で夏服登校は最後なんだっけ」

「来週から十月だもんね。そっか、もうそんな時期か」


 校門を出たわたしは、その場凌ぎな時候の話題を藍生に振っていた。


 気を紛らわせたかったわけじゃない。ただ、さっき木野先生から聞いた話を校外に持ち出すためには、無難なクッションが欲しかった。


 一組の担任、榛村先生は五十代の男性教師。生徒間の評判はあまり良くなく、二年生でも教科担当のクラスがあったことから彼の人物像については耳に入っていた。


 プライドが高く頭の固い、典型的な嫌われ者の中年男性。自分の授業を邪魔する生徒に怒号を飛ばし、思い通りにならないと不機嫌さを顕わにする。そしてそのやり方が正しいと確信しているタイプの教師。


 生徒から好かれる先生とは言い難い。それでも問題のあるクラスの担任になったことから、実績のある教師ではあるのだと木野先生は擁護していた。


 その一方で、疑ってもいた。


 なまじ実績があるために、周囲には虚偽の報告をしているかもしれないと。


「いじめ、って本当にあるの?」


 自分で言ってもおかしな質問だと思った。わたしだってそういう現場を一度も見たことがないわけじゃない。最後に見たのがいつだったか覚えていない程度には昔の、ありふれた出来事として知っていた。


 なのに現実感が伴っていなかったのは、身近に見聞きしてきたそれらが全て、可及的速やかに解消されていたから。


 陰湿な悪事を決して許さない、正義気取りの誰かさんがいたからだ。


「信じられないよね。そういうことをする人がいるって」


 平淡に藍生は言う。


「僕はそういう人を色々と見てきた。加害者の気持ちなんて考慮する余地もないけれど、自分が相手よりも優れていると証明したかったとか、そういう動機があったなら可愛いものだよ。人は、何の理由もなく人を傷つけて、それを楽しめる生き物だ」

「サイコパスってやつ?」

「誰でも持ってる嗜虐性だよ」


 もっと憎々しげに呟いてもいいような台詞を、抑える様子もなく口に出してみせる藍生。


 人間の心が百パーセント善意でできているなんて絵空事を、わたしも信じてはいない。誰しも自分の内面に潜む悪意を対面せずに済むことはない。


 けれど、藍生はどうなのだろう。


 正義の味方も人であるなら、備わっている悪意があるということ。彼は果たして知っているのだろうか?


「何にしても、やるべきことがはっきりしてきた」


 藍生は右肩に掛けた学生鞄の紐を強く握りしめる。


「榛村先生がいじめを隠しているとしたら、放っておくわけにはいかない。もちろんその被害者も、早く学校に復帰させてあげないと」

「……うん」


 木野先生が聞いた、「陰湿な揉め事は起きていない」という榛村先生の証言には信憑性がない。引き続き一組の内部調査という形で、いじめの疑惑を追うのは理に適う。むしろこちらのほうが、木野先生にとっては本命の依頼だといえる。


 本当にいじめがあるのかどうか――生徒という立場にあるわたしたちがこの問題に足を突っ込むことが、億劫でないと言えば嘘になる。


 わたしたちはまだ、この一連の嫌疑を大事にしたくない、という教師側の思惑に立っていた。先兵として送り出され、場合によってはトカゲの尻尾のように扱われることだってあり得る。


 木野先生は信頼に足る人だから、そんな判断を下しはしない。でも同時に、彼女が他人を言いくるめて都合良く行動させる強かさを持っていることも知っている。


 大人の考えていることはわからない。


 だからといって思い通りになってやるわけにもいかないのだ。


「頑張ろうね、藍生」


 眠たげな眼が同意するのを見て、わたしは小さく夕刻の空気を吸い込む。


 まずは明日、不登校生の家庭訪問だ。

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