第六話 最短距離


 国語科準備室を出た後、その足で藍生は三年一組に乗り込もうとした。当然わたしは引き留めた。


「これが一番手っ取り早いと思うんだけど、なんで?」

「警戒されるからに決まってるでしょ」


 藍生には自分が校内の、ひいては地域の有名人だという自覚がない。遅刻欠席常習の不良生徒である以上に、見返りを求めない人助け屋という認識を強く持たれている。そんな彼が突然教室を訪れたら、どうなるかは目に見えている。


「どうしてきみはそんな自分に無頓着なのかな」

「自分を知らなくたって別に困らないからね」

「信じられない」


 自意識過剰はよく聞くけれど、自意識不足は稀だ。


 だいたいの人は自分が何者なのか知りたいと思う。アイデンティティについて悩むのが思春期だと聞いたこともある。誰しもそうやって大人になっていくのだと。


 でも藍生はそういうことに興味がないようだ。思い悩む段階に到達していないのか、それとも既に通過してしまっているのか、知る由はない。どちらにせよ変わり者だ。


 不服そうな藍生に「じゃあ代案を教えて」と乞われ、わたしは「他のクラスの三年生に訊いてみよう」と言った。そのあたりがきっと無難だろう。


 わたしも藍生もクラブには所属していないので、三年生の知り合いはほとんどいない。教室に行けば居残って勉強している人がいるそうだから聞き込みは可能だけれど、目立ってしまうのは避けられなさそうだ。


 となると個人的に会う約束を取りつけるのが良さそうだが、そのためには誰かに仲介を頼まないといけない。お願いすれば快く引き受けてくれそうなクラスメイトはいるけれど、それには明日を待つ必要がある。そんな悠長にするのは藍生が納得してくれない。


 できれば今日中に頼み事を聞いてくれる人がいればいいのだけれど――


「生徒会長に頼めばいいんじゃない?」


 紙飛行機を投げるような気軽さで、藍生は言った。


「あの人と歌奈さん、幼馴染なんだよね? まだ任期終わってないし、生徒会室に行けば会えそうだし」


 三年生の知り合いを思い浮かべたとき、もちろん真っ先にコウ兄さんの顔が浮かんだ。だけどすぐに掻き消したのは、兄さんと藍生の相性を思ってのことだった。


 二人の間柄が決定的になったのは、わたしが藍生のお目付け役になってからだ。


 わたしが単なる世間話を装い(藍生に関しての扱いをぼかして)その出来事を話したら、コウ兄さんは複雑そうな顔をした。その数日後、兄さんと藍生が口論になっていたという情報が耳に入った。


 関連性を疑わないほうが無理があった。兄さんがわたしのことを心配してくれているのは素直に嬉しかったが、藍生と言い争いになるのはさすがにやり過ぎだ。感情的なのも、らしくない。


 兄さんが藍生を嫌うのは、きっとわたしの知らないところでも因縁があるからなのだろう。もしかしたらわたしより、藍生の過去の行いに詳しいのかもしれない。


 だからあまり、藍生を兄さんには会わせたくなかった。


「コウ兄さ……間島先輩は忙しそうなんだ。次期生徒会への引継ぎとか、大変みたい」

「そうなんだ。じゃあ頼み事はしづらいね」

「そうなの」


 藍生はそれ以上追及してこなかった。ただ言ってみただけで期待はしていない、というような態度が気に入らなくて、何だか悔しくなる。


 わたしの知っている兄さんは、どんな状況でも頼み事を断ったりはしない。だからわたしが助けを求めれば、必ず応えてくれる。それを今すぐ証明してやりたい。


 でも、そんなのはわたしのわがままだ。兄さんは藍生にどう思われようが気にしないだろうし、藍生もこの程度のことで兄さんへの評価を変えたりはしない。わたしが自分の理想を守りたくて、押しつけているだけに過ぎなかった。


「やっぱり一組以外のクラスにアポなしでお邪魔するしかなさそうだな」


 藍生は早くも目標を定めたようだ。普段緩慢な動きでエネルギーを温存しているぶん、人助けの際の彼は最短距離で行動する特性を持つ。とにかく全てが他者の利益のために機能している。


 そのせいで、わたしは彼の行為に生じる誤解を解くために毎回気を配る羽目になるのだけれど。



  ///



 三年六組の教室は渡り廊下を通ってすぐだ。一組の教室とは両端の位置関係になっているから、最も縁遠いクラスといえる。その代わり聞き込みに来たということも気づかれにくいだろうという見込みがあった。


 教室の戸を開けると、中には四人組の女生徒が机をくっつけて勉強会を催していた。窓側に座っている女生徒が顔を上げて、それから他の三人もこちらを向いた。想定外の来客に驚いているようだった。


 わたしは藍生よりも先に教室内に踏み入り、第一声をかける。


「勉強中のところごめんなさい。二年の仲良井といいます。訊きたいことがあるんですけど、少しだけお時間をいただけませんか」


 できるだけ丁寧に尋ねると、四人は顔を合わせる。それから一人が立ち上がり、こちらへ歩み寄ってきた。


「いいよー、ちょうど息抜きしたかったとこだから」


 長い髪を高い位置で束ねた、活動的な雰囲気の女生徒だ。吊り目で気の強そうな印象を受けるが、口元も上がっていて機嫌が良さそうにもみえる。


 グループがいる場所と対角の席に促され、わたしと藍生は彼女と向き合う形で座った。


「出しゃばってきちゃったけど、あたしが答えられる範囲の質問だけ答えるからね」


 慎重な言い方だ。何の前触れもなく現れた下級生を警戒しているのかもしれない。


 ひとまず尋ねたいことは三つ。三年生全体で夏休み前後に起こった出来事と、他クラスから見た三年一組の現状、それから一組内に接触できそうな知人がいるかどうか。詳しい事情を知る生徒に当たれれば理想的だけれど、そうそう上手くはいかない。


 まず一つ目の質問には、あまり具体的な返答は得られなかった。うちの高校は進学校なので、もう受験勉強以外の話題には関心が集まらないのかもしれない。辛うじて挙がった出来事を幾つかメモしておくだけにとどまった。


 二つ目の質問――三年一組の名前を出したとき、女生徒の切れ長の眉がひくりと動いた。


「下級生にも伝わってるんだね、一組のこと」

「何か知っているんですか」

「全然。むしろなんであんな急にスイッチを入れられたのか、秘訣を知りたいくらい」


 同学年の間では密かな噂になっている、と女生徒は語った。一組は私立進学コースの生徒のみで構成され、国公立大への進学をめざす他クラスよりは意欲が低いというのが三年生の間での共通認識だったという。


「受験は団体戦って言葉、聞いたことあるでしょ? あれって気休めみたいなものだと思ってたんだけど、今の一組を見てるとそうなのかもなって考えさせられるよ」

「クラス内の仲は良いんですか?」

「外から見た感じではね。休みの日に町の図書館で何人か集まって勉強してるって話だし」

「学校では私語をしないって聞いたんですけど」

「あはは、そんなわけないじゃん。誰から聞いたのそれ」


 木野先生からの情報と食い違っていた。けれど嘘をついているようには見えないし、そのメリットもない。


「まあ確かに雰囲気が固くなったとは言われてるね。でも友達同士でいるときは普通だよ」


 先生が見ているときだけ、ということなのだろうか。だとしたら何のために?


 ちらりと藍生の様子を窺う。さっきから一言も発していないから、わたしの連れてきた置物みたいになっている。


「そこの少年はあなたのお付きの人?」

「言ってみれば、逆ですかね」


 聴取継続。三つ目の質問へ。


「一組のお友達を紹介してもらえませんか。もっと詳しい話が聞きたいんです」

「うーん、構わないけど、あんまりお勧めはできないかなぁ」

「どうしてですか?」

「事情を訊いても教えてくれないんだよね。高一からの友達のあたしにも言わないんだから、あなたたちにも黙秘すると思うよ」


 その可能性は高そうだ。少なくともその友人から情報を得ることは難しいだろう。


 むしろ初対面の下級生相手にこれだけ親切にしてくれるこの人こそ例外的だった。普通なら無視されても文句は言えなかったと考えれば、かなり運が良い。


 あとは藍生の言動で気を悪くされなければ万事穏便に済むのだけれど。


「僕からも訊いていいですか」


 事前の打ち合わせ通り、わたしが三つ質問をし終えたタイミングで藍生からの質問が解禁される。


 わざわざこの過程を踏むのには理由がある。それは藍生の、最短距離で行動するという性質に起因していた。


「どうして夏休み前後の出来事を訊いたとき、三年一組の話を挙げなかったんですか。こんな大きな変化があったなら、真っ先に出てくるでしょう」


 遠慮のない口ぶりで質す。他意はないのだろうけれど、高圧的に取られても仕方のない態度だ。


 上級生もこれにはやや眉をしかめた。本当に申し訳ない。


「……言われるまで忘れてたんだよ。さっきまで勉強してたし、頭が疲れてたのかも」

「その割には挙げる話題を選んでいたように見えましたが」


 はったりだ。彼女の言動はごく自然だったし、怪しむようなところもなかった。


 けれど藍生は知りたいことのためには手段を選ばない。リスクを恐れない。


「答えられる範囲の質問だけ答える、と言っていましたよね。知っている範囲ではなく。それは隠し事をすると宣言しているようなものです」

「言葉の綾でしょ」

「違いますね。あなたはわざと自分の発言の信頼性を下げた。そこから何を言っても半信半疑に受け取られるように」

「深読みし過ぎだよ」


 上級生は呆れ顔だ。何気ない言葉を曲解されて心外なのだろう。


「半信半疑だっていうのなら、あたしが話す必要ももうないよね。質問の時間はこれで終わりってことでいい?」

「そうですね、この質問で終わりにします」


 慇懃無礼な態度を変えないまま、藍生は言った。


「あなた、生徒会の人ですよね? 周藤すとう梨友りゆうさん」


 突然発せられた名前に、わたしは思わず藍生のほうを向いてから上級生の彼女の顔を見た。


 彼女は「あちゃー、気づかれてたんだ」と舌を出し、どこからともなく銀縁の眼鏡を取り出す。束ねてあったのを解いた髪は生糸のように細く、眼鏡を装着した彼女の顔には見覚えがあった。


「梨友先輩……!?」


 生徒会室で何度か顔を合わせたことがある。でもそのときの彼女はコウ兄さんに負けず劣らず生真面目で、こんな気さくで活動的な雰囲気ではなかった。目の前のこの人とはまるで別人だ。


「ごめんねー、騙す意図はなかったの。あたしとしてはちょっと親切な一般生徒に擬態できればよかったんだけど、思ったより効果があって自分でもびっくりしたわ」


 言われてみれば声がそっくりだ。同一人物であるのは間違いない。


 わたしですら気づけなかったのに、藍生はいつから気づいていたんだろう。生徒会役員のフルネームを知っていたことにも驚きが隠せない。


「どうしてこんな、変装なんて」

「変装ってほどのものじゃないよ。生徒会での顔も、あたしの一側面でしかないわけだし」

「それはそうかもしれませんけど」

「そんなことより二人にお知らせしたいことがあってね」


 にこやかだった表情が締まり、わたしの知る周藤梨友の雰囲気にぐっと近づく。


 動揺の収まらないまま、事は最短距離で進行する。


「あなたたちは合格です。会長から話があるので、生徒会室に行きましょう」

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