第二章

第五話 善悪の彼岸


 九月二十五日、火曜日。わたしと藍生は国語科準備室に呼び出されていた。


 教室の半分くらいの空間には本棚が立ち並んでいて、壁のクリーム色が見えている所はほとんどない。本を開いて読むために置かれている机や椅子も少なく、授業の準備をする場所というよりは書庫と言い表したほうが近いように思える。


 そんな窮屈な場所に二人して押し込められるのも、この数か月間で随分と慣れた。木野先生から活動の依頼が伝えられるとき、必ずこの場所に呼び出されるからだ。ある意味ここが藍生の活動拠点だといえるのかもしれない。


 わたしは三脚椅子に腰を下ろし、先生が入ってくるはずの扉を見つめる。隣の藍生は本棚から適当に選んだ参考書をぺらぺらとめくっている。曰く文字を読んでいるのではなく、ページをめくって起こる風が心地良い、とのこと。


 暦は秋口に差し掛かったというのに、室内はからっとした暑さで満たされていた。いくら他の生徒に知られてはいけない活動とはいえ、こんな閉鎖空間で待っていては熱中症になってしまうんじゃないか。一刻も早い待遇の改善が求められる。


 そうこう考えているうちに扉がノックされて、木野先生が入ってきた。


「お待たせしました。教頭先生のお説教が思いのほか長引いてしまいまして」


 別に言わなくてもいいような言い訳をしつつ、先生は本棚の側面に立て掛けてあったパイプ椅子を開いて座る。


「前も似たような理由で遅れてきましたよね」

「ええ、そうなんです。あの人はどうも若者に圧力をかけるのが趣味なようで」

「大人も大変なんですね」

「どちらかというと大変な大人がいるというだけでしょう」


 同じだと思うけれど。そうじゃないのかもしれない。


「暑いので早く連絡事項を伝えましょう」


 そう言って木野先生はポケットからメモ用紙を取り出した。


「今回は調査依頼です。三年一組に起きている違和感の原因を突き止めてほしい、とのことで」

「違和感?」


 ページをめくっていた藍生の手が止まる。


「何かがおかしくなっている、ってことですか?」

「それは少し違います。見方によってはこれは良い変化であると言えるからです」

「どういう変化があったんですか」

「担任の先生から聞いたところによると、夏休みの明けから教室の雰囲気が一変していたらしいのです」


 それ自体は珍しくない。受験を控えている三年生なら多くが勉強の意欲を上げているだろう。良いとは言えないことだが、高校生活最後の夏に浮かされたまま二学期を迎えた人も一部はいると考えられる。


 でも、違和感があるというのならそれらとは別の変化なのだろう。


「元々三年一組は不真面目な生徒が比較的多いクラスでした。それはクラス分けの時点で予想されていたのでさほど問題にはならなかったのですが、夏休み前にはやや度を過ぎるような出来事が幾つかありまして」

「ああ、手作りネクタイ炎上事件とかですね」

「あれは常識の裏を突いた巧妙なトリックでした」


 ちょっと待ってその事件わたし知らない。


 詳しく聞きたい気持ちを堪えて、木野先生に続きを促す。


「それで雰囲気が変わったって、具体的にはどういう様子なんでしょうか」

「あくまで担任視点での話ですけれど、全体的に私語がなくなったのだそうです。それも減ったというレベルでなく、完全に消失した、と」


 それは確かに教師から見れば『良い変化』だろう。不真面目が真面目になったと受け取れば理想的なことこの上ない。


「私語がなくなった、というのは」


 本を閉じて藍生が言う。


「授業中だけ、って話じゃないんですよね?」

「ええ、その通りです。三年一組の生徒たちは今、授業中に限らず休み時間でさえ私語をしないのです。わたしも何度か授業を担当していますが、印象としてはスイッチの切り替えができていない、という風でした」


 そこまで行ってしまえば真面目を通り越して違和感だろう――気を引き締めて授業を受けているだけならまだしも、緩めるべきところが緩められていないというのは悪影響を及ぼしかねない問題だ。


 まぁ、そうでなければこの依頼が持ち上がったりはしないわけで。


「お二人には三年一組で何が起きているのかを調べてもらいたいのです。デリケートな受験生なだけに教師側からは深入りしづらいので、後輩であるあなたたちに動いてもらうほうが的確でしょう」


 また大人の勝手な言い分だ、と思ったけれど仕方ない。


 わたしはともかく、藍生には最初から断るという選択肢がなかった。


「もうひとつ、先生の立場から教えてほしいことがあるんですが」

「なんでしょう、西見くん」

「夏休みに入る以前からクラスの中でトラブルが起きていた、とかそういう話はありませんでしたか」


 木野先生はメモ用紙をちらりと確認する。


「いいえ、聞いていませんね。人間関係のもつれは少々あったかもしれませんが、一組に限らずどこでも起こり得ることでしょう」

「それは木野先生の主観ですか」

「そうですよ。私自身の、教師としての見解です」

「担任の先生は何と言っていたんですか」

「『陰湿な揉め事は起きていない』と確信を持っておられましたよ。あの口ぶりからすると、いじめの存在を否定したかったのでしょう」

「……なるほど」


 頬に手を当てながら頷くのは、藍生が深く考えているときの仕草だ。


 わたしはこの横顔を、春以来何度も近くで見てきた。


「わかりました、早速調べてみます。報告の頻度は?」

「火曜と金曜にしましょう。緊急で何かあれば昼休みに職員室で」

「じゃあそれで」


 藍生が席を立つ。わたしも遅れて立つ。そのまま挨拶もなく部屋を去ろうとする藍生を追った。


 もう彼の頭の中では、困り事の解決が最優先になっている。さっきまで額にかいていた汗は引き、瞳に爛々と光が宿る。思考に没頭している証拠だ。


 先生から頼まれたとか、出席日数の融通とか、そういった諸々は些事でしかない。おそらくは彼が唯一執着しているものに依拠するか否かが、彼の行動原理にとっては重要なのだ。


 部屋を出る直前に、わたしは木野先生のほうを振り向く。口は開かなかったけれど、先生は「西見くんのことを頼みます」と眼で告げていた。


 わたしは小さく頷いてみせる。


 自分なりにやれることを、悔いのないようにやるだけだ。

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