第四話 やりたいことと、やるべきこと
「きみの活動のこと、わたし知ってるからね」
翌日の昼休み、藍生にそう言い放ってやった。
藍生は口に総菜パンを含んだままで停止する。それから「ずるいな、木野先生」と恨めしげに呟いた。
普段、藍生の昼食はわたしが食堂で買って配給している。だから当然のように顔を向かい合わせて食事を摂る。日常的に遅刻してくる男が弁当など持参してくるわけもなく、放置したらしたで餓死しかねないので、やむにやまれずこの形になった。
その様子を周りには旦那の世話だとか言われるが、わたしの感覚としてはむしろ小学生の頃の生物係が思い出される。これは兎や鶏に餌をやるのとそう変わらない。
「歌奈さんにあらためて訊きたいんだけれど」
総菜パンをペットボトルのお茶で流し込んだ後、藍生は言った。
「きみは、どうしてそんなに僕によくしてくれるの?」
「そうしないと、きみは死ぬでしょ」
「それはそうなんだけど」
「否定してよ」
「最近はますます打たれ弱くなった気がする」
「開き直らないでくれる?」
わたしが面倒を見過ぎたせいだとすれば、多少責任は感じるけれど。
「これは監視なの。きみが少しでも人の道を踏み外そうとしたらすぐに引き戻せるように、見張っているだけ」
「だとしたら、僕に甲斐甲斐しくする必要もないと思うんだよ」
「それ本気で言ってる?」
自分で昼食も用意しないくせによく言えたものだ。
とはいえ、藍生が申し訳なさを感じているらしいことは察せられた。普段はあまり口にしてこないけれど、世話をされている自覚はあるのだ。
その調子で自立、更生の道を歩んでほしい。できれば早急に。
「木野先生に何を頼まれたかは知らないけれど」
居心地悪そうに藍生は窓のほうへと視線を移した。梅雨入り前の空は夏の予行演習でもしているかのように青く、雲ひとつない。反して教室の中は影に埋もれて薄暗かった。
「僕は自分のしていることをやめるつもりはないよ。どんな形であれ、誰かの苦しみや悲しみを肩代わりできるなら何でもする。でも、歌奈さんに迷惑をかけているというなら、僕は間違っているのかな」
間違っている、とわたしが言っても意味がないことくらい、わかっている。
藍生の『時を巻き戻す力』は呪いだ。人よりも容易く身を
自己を犠牲にすることでしか、自分の存在を承認できない。
善行を積めば呪いが解けるおとぎ話なんて、ご都合主義にも程がある。実際はもっと救いようがなくて、いつまでも稼働することを義務付けられた歯車のようなものだ。止まることなんて許されない。
そのうえ始末が悪いのは、それらは何も間違っていないということ。
光があれば明るくなるように。空が青ければ気分が晴れ晴れとするように。
他人のため懸命に尽くせることは、眩しいくらいに正しい。
「ごめん」
沈黙に耐え切れなくなったのか、藍生はこちらを見て謝った。
「それは、迷惑をかけていることに対して?」
「うん」
「必要ないよ、そんな謝罪」
「でも」
「わたしがいいって言ってるんだから、いいの」
意味のない謝罪なんてするくらいなら、いっそ遠慮なく迷惑をかけてくれればいい。
それがわたしの望む、藍生を更生させるための第一歩になる。
「というか、勘違いしてるでしょ。わたしは別に、きみの活動ってやつを止めたりしないよ」
「そうなのか?」
本当に意外そうに、藍生は目を大きく開いた。
「歌奈さんなら絶対止めると思ってたのに」
「やめろって言っても聞かないんでしょ」
「やめるまで言い続けるのが歌奈さんじゃないか」
なるほど、それも一理ある。
木野先生から頼まれたのが『藍生に人助けをやめさせる』ことだったら、確かにわたしはしつこく言い続けていただろう。だから藍生はずるいと呟いたのだ。
ということは、おそらく藍生はわたしがどこまで聞かされているのかを測りかねている。もしくは、教師の頼みを聞くことで出席数の便宜を図られているのも、彼自身にとっては特筆するようなことではないのかもしれない。
だとすればそれは、自分の利害を一切勘定しない藍生らしい見当違いだった。
「木野先生に頼まれたのは、きみのお目付け役。さっき言ってた監視の延長だと思ってくれればいいよ」
「人助けを助けてくれる、ってこと?」
「……まぁ、そういうこと」
斜め上の解釈をされてしまったけれど、訂正できる雰囲気ではなかった。
藍生の眼は今まで見たことがないくらいの漲る生気で輝いていた。
「嬉しいよ。一人でできる人助けにも限界はあるから」
その言葉に頭を抱える。どれだけ慈善活動が好きなんだ。
きっと死んでも治らなかったんだろう――笑えない冗談。
「わたしはきみの活動を手伝う。代わりに、呑んでほしい条件があるの」
前々から考えていた、更生のための条件。良くも悪くも、藍生に頷かせるなら今しかない。
「軽々しく時間を巻き戻すのはもうやめて。当たり前の範囲で、当たり前の人助けだけをして。どんな理由があっても、簡単に死のうとするのは許さない」
「うん、わかった」
あっさりとした承諾。そう簡単に首を縦に振ってはくれないと思っていたから、予想外の反応に疑わしさを覚える。
押し黙って様子を窺っていると、藍生は出し抜けに右手の小指をこちらへ差し向けてきた。
「約束するよ。許してもらえないのは、つらいから」
その言葉に嘘偽りはないように思えた。逸らさず真っ直ぐに送ってくる視線からも、同様の意志を感じることができた。
だからわたしは、同じように小指を立てて藍生の小指に絡める。
「指切りげんまん」
「嘘ついたら許さない」
大真面目に固く結んだ指と指。
これでようやくスタートラインだ。タイムリープという不正をなくして、本来の自然な形を取り戻す。それが、繰り返される時間の共有者であるわたしの
だけど――だからこそ。
このときのわたしの態度は甘過ぎた。藍生に対する自分の影響力を過信していたと言い換えてもいい。
滅私奉公。自己犠牲。どこまでいっても自分を省みない彼が、たかがわたし如きに許されなかったとして、どうしてその行いを躊躇うことがあるだろう?
たとえ約束破りの罰則を従来の針千本にしたとしても止まらない――それが西見藍生という人間だということを、わたしは他の誰より理解していたはずなのに。
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