第三話 代わりは居ない
木野先生の意向に従って、藍生から活動について言いだすのを待っているうちに一週間が経過していた。
その間にわたしの身に何も起きなかったかというと、そうでもない。包み隠さず言えば、とある男子に告白されてしまった。
別のクラスの、背の高い男子だった。確かバスケ部に所属していて、スタメン入り? とやらもしょっちゅうしていると聞いていた。
告白のシチュエーション自体は無難な感じで、授業が終わった後にひと気が少ないほうの階段の踊り場へ呼び出された。対面した彼は短髪がワックスで立ち上がっていて、快活そうな雰囲気がありありと表れていた。
「去年から好きだった。付き合ってほしい」
開口一番からの告白。わたしは返事するよりも先にまず感心した。用件を最初に述べるというのは、簡単なようでなかなかできることじゃない。
次に返事の言葉を考える。できれば穏当な形で済むように。そのためには彼がどんな思いで告白してきたのかを掴まないと。
「わたしに彼氏がいることは知っているんだよね?」
この台詞は定型句のようなものだった。真摯な告白に対して大嘘で返すことになるけれど、誤解を解いていないのはわたしの意志なので今更な話だ。
「ああ。でも、俺はきみのことが好きだ」
「わたしにはもう好きな人がいるんだけど」
「それでもだ」
うーん、このタイプか。
想いを伝えたいという気概はわかるのだけれど、一緒に伝わってくる自信が満ち溢れすぎていていまひとつ響かない。
今度は声のトーンを下げて、警戒色を強めてみる。
「わたし、あなたのことをよく知らない」
「これから知っていってほしい。後悔させないと約束する」
「それは今のわたしの彼よりも自分のほうが優れているってこと?」
「当然だろ?」
得意げに、まるでそれが親から長年伝え聞かされてきた事実を語るような顔で、バスケ部の彼は言った。
きっとこの人は恵まれているのだろう。自己を疑いなく肯定できるくらいの能力があって、それを生かせる環境がある。部員がぎりぎり二桁に届く程度のバスケ部で、スタメン入りとやらがどのくらいの実力を要するかは知らないけれど。
わたしは安心する。この人なら、別に嫌われても平気そうだ。
「ヴァイオリン奏者の比喩は知ってるかな」
「は?」
予想もしていなかったのか、バスケ部の彼は間の抜けた声を出した。当然の反応だ。
「あるとき天才ヴァイオリン奏者が意識不明に陥ってしまって、あなたの循環器がないとすぐに死んでしまうことになるの。だからお互いの身体を特殊なチューブで繋ぐんだけど、ヴァイオリン奏者が完治するまでの九ヶ月間はその状態のまま。これでもしあなたが嫌になってチューブを引き抜き逃げ出したら、あなたは人殺しになると思う?」
呆気にとられた表情でも、バスケ部の彼はきちんと考えて答えを出す。
「人殺しになる。命を助けられるのに逃げるのはそいつの責任だ」
「だよね。わたしもそう思う」
この人ならそう答えるだろうと、訊くよりも前から予測できていた。彼に限らず、わたしたちの年代で年相応の倫理観を備えていれば、大抵答えは同じになる。
「でも、藍生は違うんだ」
残念なことに。滑稽なことに。
「同じ質問をしたときに、藍生はこう答えるの。『完治に九ヶ月もかかるなんて耐えられない。他の手段があるならより早く奏者を治療できる手段を選んでほしい。それで僕の身体にどんな負荷がかかったとしても構わない』ってね。頭がおかしいと思わない? そんなことを平気で言えるあいつを、わたしは放置できるはずがないの」
名前も知らないあなたには、その所以すらわからないだろうけれど。
「別れるつもりはないよ。だから、あなたと付き合うつもりもない」
話すことはこれで終わり。わたしはバスケ部の彼に背を向けて階段を上る。呼び止めようとする声にも振り向かず、柱の陰に逃げ込んでから眉間の皺を指で伸ばした。
相手を傷つけずに主張を通すのは、やはり難しい。
///
たとえば嫌なことがあったときに、大声で叫ぶと気が晴れる。
わたしにとってのそれは、ひとつ年上の幼馴染と他愛なく話す時間だった。
「歌奈は相変わらず不思議ちゃんだな」
先日の告白された件を話し終えた後、コウ兄さんが発したのはいつもの感想だった。放課後の生徒会室は空き部屋同然で、他に話を聞いている人はいない。
生徒会の業務が終わって解散した後、会長であるコウ兄さんは下校時刻になるまで自学自習に努めている。それを知っているわたしは、こっそり生徒会室にお邪魔してはよく話を聞いてもらっていた。
真っ直ぐな髪と彫りの深い顔立ち。コウ兄さん――
そんな彼はわたしの憧れであり、尊敬する兄のような存在だ。
「異性に告白されて思考実験の話をするなんて、花も恥じらう女子高生の挙動とは思えないね。バスケ部の彼もきっと今頃もやもやしてるだろう」
「仕方ないんだよ。ああやって煙に巻くのが一番気が楽なの」
「モテる女は大変だ」
「なにを他人事みたいに」
兄さんだって後輩の女の子からしょっちゅう告白されているくせに。
高校生の恋愛感情は未熟だ。多くは大人の真似事でしかなくて、夜九時にやっているテレビドラマを出来悪く模倣しているだけ。だから気分だけを楽しんではいとも簡単に別離する。
わたしはそんな無責任な関係が苦手だった。仮に誰かと交際したなら、善い彼女であるべきだと自分自身に責任を強いてしまう。彼氏からすれば重い女に見えることだろう。
相手がどんなに本気だと訴えてきても、信用以前に拒むしかない理由はそこにある。
「藍生くんに感謝だな」
唐突にあいつの名前が挙がった。
「ちゃんと獣除けになってくれているみたいじゃないか」
「あいつは何もしてないよ」
「何もしないから良いんだ。動かない案山子ほど害獣を一身に請け負ってくれる」
コウ兄さんは普段から温厚で柔和な性格だけど、藍生にだけは辛口だ。わたしがあいつの傍にいることを容認してはいるものの、あいつの存在自体はあまり良く思っていないらしい。その証拠に、藍生の話を出すときの兄さんの口調には棘があった。
「それもそっか」
頷きながら、少しだけ考えてみる。
わたしは恋愛に興味がない。藍生をそういう風に見ることもない。でも彼を放っておけないというのは、抗いがたい本心だ。これは宿命みたいなもので(この言いかたは好きじゃない)、特異な時間の流れを共有するからこそ、わたしはあいつのやることなすことを見届けることが義務だと思っている。
つまるところ、わたしは責任という言葉に弱いのだ。
「兄さんは生徒会長の立場が重いと感じたことはある?」
脈絡のないわたしの問いに、コウ兄さんは嫌なそぶりもなく答える。
「あるよ。というより、重くなくちゃいけないと思ってる。みんなの先頭に立つっていうのは、地に足がついていないとできないことだから」
「重りがなくても大丈夫じゃないの、兄さんなら」
「そうでもないよ。風当たりが強くて吹き飛ばされそうになったりもする」
「もし飛ばされたら?」
「そのときは」
一瞬息を止めるようにして、置かれた間。
「――どんなに苦しくても、元の位置に戻れるよう努力するさ。俺はその場所に立ちたくて立っていたんだから」
責任の有無は関係ない。そこに居たいから、居るだけ。
思っていたより自分本位なコウ兄さんの答えに、わたしはついつい笑ってしまう。
「どうしてそこで笑うんだよ」
「だって、意外で。兄さんはもっと私利私欲のない人だと思ってたから」
「歌奈からはそんな風に見えてたのか、俺って」
つられたように兄さんも笑う。
朗らかな、暖かい日差しのような笑顔だった。
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