第二話 善い生徒の条件
「別に悪巧みなんてしていませんよ」
放課後、わたしは日直の仕事で提出物を職員室へ運んでいた。するとたまたま木野先生と遭遇したので、藍生への指導の進捗状況を尋ねてみることにしたのだ。
「毎日呼び出して説教するばかりが生徒指導ではありません。じっくりぬるま湯から慣れさせていくのも立派な指導です」
「そういうものですか」
「ええ。でもまあ、建前といえば建前です」
「本音は?」
「彼の性根はそう簡単に変わらないんじゃないかなって思います。あくまで一個人としては、ですけどね」
円い眼鏡の向こうで笑う目。澄んだ瞳は彼女の親しみやすさの象徴だ。
木野先生は昨年赴任してきたばかりの国語教師で、他の先生たちと比べると格段に若い。言動がおっとりしていて愛嬌があり、一部の生徒からは下の名前で呼ばれていたりもする。
生徒と歳が近いから人気があると思われがちだけれど、それだけじゃない。木野先生が慕われるのは、誰に対しても正直であるからだ。
「西見くんは成績上位者ですから。勉強ができる生徒に生活の改善を求めるのは、労力の割に合わないと考える先生もいるようです」
そんな話を生徒にしてもいいのだろうか。刺すような視線を職員室内のどこかから送られたような気がするが、気にしないことにした。
木野先生は続ける。
「だからといって放置していると風紀が乱れる原因にもなりえますから、西見くん本人ともいろいろ話し合ってみたんですよ。彼、自分の立ち位置をよく理解していました」
「扱いづらい生徒だってことをですか」
「はい。
「も、は余計です」
生徒間での話題にも詳しい木野先生は、当然のようにわたしと藍生の間柄を知っている。それが対外的なポーズであることも含めて。
仲良井歌奈と西見藍生の関係性は、周りには説明が難しい。タイムリープなんて話は誰も信じないだろうし、せいぜい下手な誤魔化しだと思われて終わるだけだ。
わたしにはどうしても藍生を更生させたい理由がある。そのために彼とはつかず離れずの立ち位置を維持したい。周囲の誤解が好都合なのは、そういったポジショニングを保つために交際関係が最適であるからなのだ。
と、そういう風に自分に言い聞かせている。
冷静に考えてみれば必要以上に近い距離のような気もしていた。
「それで、藍生は態度を改める気になったんですか」
「なりませんでしたねえ」
「だと思いました」
「のんびりしているように見えて意志の固いところがありますね、彼は」
困ったように、でも少し楽しそうに木野先生は笑った。
「この世界に主人公がいるとすれば、西見くんのような子を言うのだと思います」
咄嗟にそれは違うだろうと否定したくなる。確かにあいつは比較的整った容姿をしているし特別な力も持っているけれど、世界の中心に立っていい人間ではない。
あくまで木野先生の冗談だと気付いているから聞き流せる。ここで躍起になって反論したりしたら、それこそ恥をかくことになる。
「先生は藍生のことを放っておくつもりなんですか」
わたしの関心事は今のところその一点だ。
木野先生は「ふーむ」と考えるそぶりをして、それから「この際仲良井さんにも知っておいてもらったほうがいいのでしょうね」と言った。
知ってもらう? 何のことだろう。
「仲良井さんは彼の活動についてご存知でしょうか」
「彼は部活には入っていなかったはずですけど」
「知らないのですね」
念を押すように言われ、少しむっとする。
「無理もありません。むしろ約束を守っているようで安心しました」
「藍生は何をやっているんですか」
「ひと言で表すなら、人助けです」
「人助け」
思わず鸚鵡返しをする。それが彼のイメージと、あまりにもぴったり一致していたからだ。
わざわざ思い出すまでもなく、藍生が今までしてきた『人助け』は枚挙にいとまがない。困っている人がいれば手を差し伸べずにはいられない、彼は奉仕精神の権化みたいな男だった。
それだけならまだいい。問題はその行いが、躊躇のない自己犠牲の延長線上に成り立っていることにある。
「もしかしてその話、善行を積むことで呪いから解放されるとかそういう教訓めいたおとぎ話の類いだったりしますか」
「急に飛躍しましたね」
違いますよ、と木野先生。
冷静に否定されるとこちらも困る。
「西見くんは以前から慈善活動のようなことをしていたようですね。生徒間でのトラブルの仲裁をしたり、たびたび学校を休んでは困った人を助けに行ったり。まるでヒーローのような活動を積極的にしていたとか」
木野先生の言っていることは、信じがたいことにすべて事実だ。
まだ顔を合わせたことのない中学時代から、西見藍生の噂は耳にしていた。なんでも面倒事が起こるたびに現れ、何らかの方策をとって解決してしまう少年がいると。
実際に面識を持った頃にはその噂も過去のものとなっていて、彼の活動も鳴りを潜めていた――と思っていたのだけれど。
「まだその活動を続けていたんですね」
「彼はあまり話したがりませんが、遅刻や欠席の主な理由はそれによるものだと考えられます」
「あのバカ……」
薄々そんな気はしていた。交通事故に巻き込まれて死ぬようなことが、あいつの場合あまりにも頻発しすぎている。誰かしら困っている人を見つけたときに、遡って解決するためわざと命を絶っているのだろう。
考えれば考えるほど、正気の沙汰じゃない。たとえ不死身であったとしても、たまたま行き会った他人のためにどうしてそこまでできるのか。
藍生は主人公なんかじゃない。自分の命を粗末にするようなやつが、ヒーローであっていいはずがない。
「それで、先生たちはあいつの活動を見過ごすんですか」
自然と強くなる語気を、木野先生はもっともだと言わんばかりに頷く。
「どんな理由であれ、本分である学業を疎かにすることは許されません。ですが西見くんの場合テストの成績にもけちのつけようがない。だから唯一の問題点である出席日数の不足を補うため、という口実で彼を縛ることにしました」
縛る、とはまた物騒な言葉選びだ。木野先生らしいといえばらしいけれど、そろそろ他の先生からの突き刺さる視線にも気がついてほしい。
「私は彼に、これまで通り活動を続けていっても構わない、と言いました。ですが見ず知らずの人々を助けるだけじゃなく、見知った私たちも助けてほしい、と提案したのです」
「それがさっき言っていた約束ですか」
「はい。ひとりの生徒が教師の補佐をすることで遅刻欠席を見逃されている、なんてことが他の生徒に知れたら大変ですからね」
「じゃあ、どうしてわたしにはばらしたんですか」
「え?」
意外そうな表情をされる。
「だって、仲良井さんは西見くんの保護者でしょう」
「保護者じゃないです」
「彼のこと、見守ってあげてくださいね」
「だから保護者じゃないです」
この流れはまずい。非常にまずい。
木野先生が何を言おうとしているのか、わたしにはわかる。内密にしていた事情を明かす意味とは、半ば強制的に自陣営へと引き入れるために他ならない。
要するに現状は盤石ではないのだ。教師たちは扱いに困る生徒である藍生に首輪をつけようとしたが、それだけではまだ不十分だった。ゆえにリードの持ち手が必要になったということなのだろう。
たまらずため息をつく。まったく、あいつの傍にいる理由には事欠かない。
「わかりました。藍生の活動を監視していればいいんですよね」
「理解が得られて幸いです」
思惑通りだということを隠そうともしない木野先生。裏表のなさも極まれりだ。
「それにしても仲良井さんは面倒見がよいですね。本当に彼とは恋仲ではないのですか?」
「はい。そういうのじゃありません」
この関係性はもっと一方的な、わたし自身の願望のためにある。
「わたしはあいつに、自分のために生きてほしいだけです」
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