死ねないキミの功利主義

吉野諦一

第一章

第一話 不死身のボーイフレンド

 誰にも迷惑をかけずに死ぬことは、誰にも迷惑をかけずに生きることと同じくらいに不可能だ。


 そんな基本的な法則への理解が、西見にしみ藍生あおいには欠落していた。


 彼がこれまでに生きてきた十六年と数ヶ月は、彼がこれまでに人を頼り続けた年月と等しい。


 他者に迷惑をかけることを咎めているわけじゃない。同様に他者から迷惑をかけられることだってあるわけで、持ちつ持たれつの生き方を否定する意図はない。


 彼に限らず人というものは社会的な動物だから、独りで生きていこうとするとどうしても世間離れしなくてはならなくなる。突き詰めれば自然へと還ることになるけれど、その自然にも所有者がいるから、その人に迷惑をかけることになる。


 住む場所でさえ契約のもとに成り立っている。完全な独立は在り得ない。


 そんなことは西見藍生にだってわかっている。そのはずだ。そう信じたい。


 でも彼が実際にどう理解しているかは聞いてみないことにはわからない。生きることの難しさを知っているのと同時に、彼は死ぬことの容易さも知っているから。


 生老病死――人生における四つの苦しみと、その順序。


 しかし彼にとって、死とは生きるうえの終点ではなく通過点なのだ。



   ///



 わたしは昔から同じ経験をたびたび繰り返すことがあった。


 たとえば小四の夏休み。七月二十二日の朝から家にこもって宿題を半分以上終わらせた。そして昼ご飯を食べた後に少しだけ昼寝をした。


 目を覚ますと朝だった。驚いて日付を見ると、七月二十二日。苦労して減らしたつもりの宿題も手つかずの状態なので、変な夢を見てしまったと思った。けれど昼食のメニューは全く同じで、宿題も全て夢の中で解いた内容だった。


 この現象が俗にタイムリープと呼ばれるものだと知ったのは中学一年の頃だ。課題図書になっていた『時をかける少女』を読んだときにこの言葉を見つけた。


 わたしの場合、タイムリープは偶発的に起こった。時間帯は昼から夜にかけてが多く、わたしの睡眠や意志とは関係なく唐突に時間が巻き戻る。再び時間が進み始める地点は、巻き戻しが長いときはその日の朝、短いときは十分前。


 何が影響して起こるのか、巻き戻しが長くなるのかはまるでわからない。条件がわからない以上、わたしはそれを有効に活用することができない。


 それどころか、同じことを二度三度繰り返さないといけない苦労は誰とも分かち合えないものだった。


 何よりわたしは、ズルが嫌いだ。みんなが一度しか経験できないその日その時を、偶発的にとはいえ繰り返してしまうことに罪悪感があった。だからタイムリープによって既視感を覚えるたび、一度目とは違う行動をとりたい衝動に駆られた。


 しかしその行動は大抵が失敗に終わった。一度目で起きた出来事の大半は二度目でも定まっており変えることができない。わたし自身も一度目からあまりに逸脱した行動をとろうとすると頭が真っ白になり、強烈な眠気に襲われる。


 起こる出来事を変えることは諦めざるを得なかった。


 わたしには繰り返されている出来事の記憶だけが残されている。テレビで放送されている数年前の映画を観るときみたいに、見知った物語をなぞるか途中で眠りに落ちるかの二択しかない。


 そう思っていた。彼と出会うまでは。



   ///



 今朝も西見藍生は二限目に遅刻して出席した。


 生徒指導室の常連である彼の素行はクラスどころか学年全体に知れ渡っていて、いちいち反応する生徒もいない。彼自身もそれは承知の上で、遅刻者にあるまじき堂々とした足取りで並んだ机の合間へと入り込んだ。


 藍生の席はわたしの右隣だ。数式の説明中だった眼鏡の教師が冷やかな視線を送る。それを軽く受け流しつつ、何食わぬ顔で席に座った。背負っていた水色のリュックを下ろし、こちらを向くことはない。


 話しかけたい。というより説教したい。ルールくらいきちんと守れって。


 既に授業はまとめに差しかかっている。着いたばかりの藍生の頭には入ってこないだろう。筆記用具を出すそぶりさえ見せない。これで定期テストは成績上位なのだから嫌味なやつだ。


 チャイムが鳴って授業が終わり、教室は途端に騒がしくなる。二限目が化学実験室で行われることもあり、続々とクラスメイト達は移動を始める。


 わたしは友達に先に行っておいてと伝えた後、特に急ぐ様子もない藍生の後頭部をひっぱたいた。


 思いのほかいい音がして、若干数残っていたクラスメイトの視線がこちらに集まる。でもすぐに、ああまたいつもの夫婦喧嘩か、と納得した顔をして教室から出ていった。


 残ったのはわたしと藍生の二人きり。


 周りがわたしたちを恋仲だと勘違いしてくれているから、何をするにも勝手に解釈してくれるので色々と手間が省けている。実情とは異なるし、正直わたしは不服だけれど、都合はいいので訂正していない状態だ。


 ちなみに叩かれた本人はというと、今のでようやく目を覚ましたようだった。


 のっそりと彼の頼りない背中が動く。


「今のは痛かったよ、歌奈かなさん」

「そのくらいしないと起きないでしょ」

「寝てなんかいなかったし」

「じゃあその眠たそうな目はなんなのよ」

「生まれつき」


 言ったそばから大あくびをしつつ、藍生はリュックの中から筒型の青い筆箱を取り出した。ラメの入った装飾つきの、男子が使うにはちょっと可愛すぎる感じのペン入れだ。


 持ち物のセンスをはじめ、藍生の外見からは中性的な印象を受ける。少年とも少女ともとれそうな細い体躯に明るいブラウンの髪色、鼻筋の通った顔の造形。もう少し目がきりっとしていれば面食いの女子から好かれるような容貌だったかもしれないが、残念ながらその瞳に活力が宿っている様子を見たことがない。


「また死んだでしょ」

「うん。トラックに轢かれた」

「だと思った」

「なので優しくしてもらえません?」

「やだ」


 そもそも注意不足は自分の過失なのに、なぜわたしが労わらなきゃならないのか。


 藍生はわたしと同じくタイムリープ前の記憶を保持している。そしてわたしと異なり、タイムリープ自体を起こす力も持っている。


 ただしそれを使えるのは死んだ後だけ。


 要するに藍生は今朝トラックに轢かれた後に時を巻き戻し、事故を回避して生存したのだ。


 そんなことができるから、彼は死ぬことにまるで抵抗がない。命を危険に晒すような行為も平然とやってのけるし、たぶん自衛本能もお役御免になってしまっている。


 ここでもしわたしが「死ぬような目に遭って可哀想に」とでも言ってしまったら、藍生はますます死に対する抵抗をしなくなってしまうだろう。


 それはわたしの本意じゃない。まったくもって。


「遅刻もいいかげんなくす努力をしなさいよ。いくら賢くたって出席日数が足りなきゃ進級できないんだから」


 この台詞も何度言ったことか。巻き戻しで繰り返される同じ内容の授業もつらいけれど、当人に効果のみられない忠告の反復はもっときつい。


 教卓の横に掛けられている教室の鍵を取り、扉に鍵を掛けて廊下に出た。別棟にある化学実験室まではゆっくり歩けば三分程度で着く。なので少し早歩きだ。


 そんなわたしの後ろから、藍生の足音と声が聞こえる。


「歌奈さんは真面目だねえ」

「きみも見習って」

「前向きに検討しておきます」

「そんなに難しいことじゃないと思うんだけど」


 渡り廊下を抜ける。窓越しにみえる中庭の広葉樹は深い緑。ひと月ほど前までは薄桃色の花が頭巾みたいにまあるく咲いていた。それも知らないうちに散ってしまっていたらしい。


 早足で追いついてきた藍生が隣に並ぶ。


「焦らなくても大丈夫じゃない? まだ時間あるよ」

「遅刻常習犯らしい意見をありがとう」

「どういたしまして」

「そういうギリギリで時間の勘定をしているから遅刻するのよ」

「説教は聞きたくないなあ」

「ならもっときちんとして」


 どうしてわたしがこんな風に面倒を見てやらないといけないのだろう。


 藍生に少しでも生活態度の改善をしようという意志があったなら、まだよかった。けれど彼はいっこうにそういうそぶりを見せないし、わたしがどんなに口うるさく言ってもまともに聞き入れてくれない。


 担任や生徒指導の先生に相談したら、既に手は打ってあるとだけ返された。その効果は、今のところ見受けられなかった。


「大人の考えていることはわかんないなあ」

「きっと悪いことだよ。だからわからなくていい」

「ピーターパンみたいなことを言うのね」

「僕は永遠の少年じゃないよ」

「知ってる」


 でも、不死身ではあるんでしょう。


 一度は上映された物語をただ眺めることしかできないわたしとは違い、藍生には物語の筋書きを変える力がある。


 羨ましいなんて思わない。でも、それを使ってズルをすることは看過できない。


 そしてその行いを知覚し、是正することができるのはわたししかいないのだ。


「で、大人っていうのは誰のことを指しているのかな」

「少なくともきみじゃないのは確か」

「そりゃあね」


 お互いの顔も見ず、気のない会話を交わして歩く。


 けれどどうしようもなく、わたしたちは繰り返される時間の共有者だ。

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