　帰宅爾（じ）時（じ）には真夜中だった。

　両親も疲（ひ）労（ろう）困（こん）憊（ぱい）している。

　疲弊しているが甎（せん）全（ぜん）として熟睡するわけにもゆかない。ひとり息子が陰陰滅滅たる閉鎖病棟にて人生の終（しゆう）焉（えん）まで悶（もん）絶（ぜつ）躃（びやく）地（じ）する想像は曖（あい）昧（まい）模（も）糊（こ）としながらも圧倒的であった。孰（いず）れにせよ息子が閉鎖病棟で生活するために石（せつ）鹼（けん）やら歯ブラシやら着替えの普段着やらを用意しなければならない。明日亦（また）救生病院に驀（ばく）進（しん）し生活用品を譲渡するために両親は息子の部屋に闖（ちん）入（にゆう）した。当人の発狂爾（じ）時（じ）より這（は）入（い）っていなかったので息子の部屋は蛍光灯が赫（かく）奕（やく）としていた。フローリングのうえには浩（こう）瀚（かん）の書物がひろげてある。否〈寫（しや）眞（しん）ファイル〉だ。父親が掌握し母親とともにひもとく。幾（いく）許（ばく）かの頁（ぺーじ）には付箋が添付されている。幼稚園時代から小学生時代までの寡少なる家族旅行の寫（しや）眞（しん）である。瀲（れん）灔（えん）たる鯨（くじら）波（なみ）の海岸にて家族は微笑している。巍（ぎ）峨（が）たる戀（こい）人（びと）岬の突端で家族は微笑している。フィッシャーマンズケープの店舗でいくら丼を喰（く）らいながら家族は微笑している。

　両親はいまも微笑しながら欷（き）歔（きよ）している。

　涕（てい）泗（し）をすすりあげた父親は〈寫（しや）眞（しん）ファイル〉をステンレス製の本棚にもどした。沈黙の慟（どう）哭（こく）をする母親は片掌でなみだをぬぐいながら息子の〈大（だい）學（がく）ノート〉を父親に譲渡する。父親いわく〈かえろう〉と。〈清貴を一生ひとりにはできん〉と。〈家族みんなで亦（また）この家にかえろう〉と。父親は〈計（けい）劃（かく）〉を母親に披（ひ）瀝（れき）した。なみだで双（そう）眸（ぼう）をきらめかせた母親は巍（ぎ）然（ぜん）としており造次顛（てん）沛（ぱい）もなく微笑しながら首肯した。両親は生活用品の準備も抛（ほう）擲（てき）してインターネット回線のつながる居間にきびすをかえした。PCを起動する。インターネットの通販サイトを幾（いく）許（ばく）か逍（しよう）遥（よう）闊（かつ）歩（ぽ）して薬剤を購入する。ひとしなみに暖房器具を注文する。クレジットカード決済で明日を到着日として逢（おう）魔（ま）時（どき）に時間帯設定をしておいた。因（いん）陀（だ）羅（ら）網（もう）の準備は完遂したが両親は神経が昂（こう）揚（よう）して夢（む）寐（び）におちいることもできない。顔面蒼（そう）白（はく）のふたりはよもすがら黯（あん）黮（たん）たる寝室の蒲（ふ）団（とん）のなかで息子が誕生してからの人生を物語りあった。

　黎（れい）明（めい）まで物語りあった。

　静（せい）謐（ひつ）たる払（ふつ）暁（ぎよう）時（どき）が到来するとよもすがらまんじりともしなかった両親は滅紫色に疲弊した目（め）許（もと）をこすって聳（しよう）立（りつ）した。廉価のデジタル時計は午前五時三〇分あたりを提示している。閉鎖病棟の起床時間は午前六時頃とうろおぼえながら記憶していた。〈ひさしぶりの家族旅行だたのしみだなあ〉と父親がいうと〈何年ぶりかな〉と母親がいった。荏（じん）苒（ぜん）と徹夜したもののふたりは矍（かく）鑠（しやく）たるあしどりで入口のとびらを施錠しスズキ・ワゴンRに搭乗した。ふたりは沈黙していたが口（くち）許（もと）は微笑していた。午前六時に救生病院へ逢（ほう）着（ちやく）すると受付で閉鎖病棟の息子への面会を冀（き）求（きゆう）する。ホールだけそこはかとない照明がついている時間帯だ。受付の心理カウンセラーは踟（ち）蹰（ちゆう）しながらふたりを急性期病棟へ嚮（きよう）導（どう）する。蜿（えん）蜒（えん）長蛇たる廊下の最涯ての入口で面会の確認をして堅（けん）韌（じん）なるドアを開放してもらうとふたりは息子の起（き）臥（が）する病（びよう）褥（じよく）へ邁（まい）進（しん）した。淅（せき）瀝（れき）とした個室のとびらをあけてもらうと絶叫しつづけている息子を母親が抱擁して父親がてのひらをさしのべる。父親いわく〈清貴ひさしぶりの家族旅行だぞ〉と。

　両親は息子を出口に嚮（きよう）導（どう）した。

　須（しゆ）臾（ゆ）もなく喫（きつ）驚（きよう）した夜勤の看護師たちが遠捲きに患者を保護せんと嘯（しよう）聚（しゆ）してきた。いわく〈おとうさんおかあさん息子さんはまだ寛解してませんよ〉と。父親は獅（し）子（し）吼（く）する。いわく〈お医者さんが一生出られねえといったんだ寛解もなにもありゃしない〉と。看護師いわく〈御両親の許可があれば退院させられますがまずは担当医と面会して御料金を御（お）支（し）払（はらい）いただかないと〉と。一番診察室で神宮寺医師が急（きゆう）遽（きよ）診察してくれることになる。咆（ほう）吼（こう）しつづける患者を幾度か瞥（べつ）見（けん）しながら神宮寺医師はカルテをせわしなくめくっている。軈（やが）てカルテに独（ど）逸（いつ）語で鵼（ぬえ）的（てき）に揮（き）毫（ごう）すると両親を凝視した。いわく〈どうなさるおつもりで〉と。微笑する父親いわく〈家にかえるんですそのまえに家族旅行もしたいんです〉と。両腕をくみながら虚空を見詰めた神宮寺医師は亦（また）両親を凝視した。いわく〈いやわたしはまったく賛成ですそれも人生です〉と。〈清貴君はひとに危害をくわえる心配はないでしょう〉と。〈人間は人間として生きて死ぬべきです〉と。