『TRAGEDY-人間-OF-悲劇-HUMAN』群像新人文学賞二次予選通過作品

第一話 狂気

狂気 第一章

　その日ヤハウェ神は地の土くれから人を造り、

　彼の鼻に生命（いのち）の息を吹きこまれた。

　『創世記』二ノ七　関根正雄訳

　わたしは奇（き）蹟（せき）をおこす。

　これは村田清貴の奇（き）蹟（せき）の物語だ。

　澎（ほう）湃（はい）たる猛暑の教室にひとり着席しながら倫理の試験での誤（ご）謬（びゆう）を凝視していた。『悲劇の誕生』におけるアポロン的とディオニュソス的の哲学的関（かん）聯（れん）を誤答したのだ。どうして秩序と渾（こん）沌（とん）を乖（かい）離（り）させる必要があるんだろう。本（ほん）當（とう）は自分のほうがただしいんじゃないか。巍（ぎ）峨（が）たる県立柏（かしわ）崎（ざき）高校から帰路につくと背後から儕（さい）輩（はい）たちが聲（こえ）をかけた。〈土日うちでゲームしねっか〉と。頭（とう）顱（ろ）を撓（しな）垂（だ）れると玉（たま）響（ゆら）彳（てき）亍（ちよく）して〈ごめん〉という。ゲームよりニーチェのほうが大事なんだ。無神論的実存主義は偏差値をあげてくれる。氤（いん）氳（うん）たる猛暑のなか亦（また）あるきだして学習塾へむかう。頑張って国立大（だい）學（がく）に進学すれば屹（きつ）度（と）いい人生がまっている。ゲームもやりほうだいだ。それまでおれのあたまがもつだろうか。おれのこころがもつだろうか。最近あたまのなかに端末をうめこまれた氣（き）氛（ぶん）がする。おれのこころがすべて讀（よ）みとられているんだ。古（こ）色（しよく）蒼（そう）然（ぜん）たる廃（はい）墟（きよ）のビルをリフォームした学習塾の白（はく）堊（あ）の教室で偏差値七〇台の大（だい）學（がく）入試専門の少数先鋭講義を受講する。英語現代文数学Ⅱの授業をまっとうして帰路につくと漆黒の穹（きゆう）窿（りゆう）にて叢（むら）雲（くも）のはざまから満月が此（こ）方（ちら）を監視しているような感慨になった。曩（のう）時（じ）より凸（でく）間（ま）凹（ひく）間（ま）の月面には自分専用の監視基地があるとおもえていた。帰宅すると玄関の玻（がら）瓈（す）戸のむこうに人陰がある。はいりたくないが這（は）入（い）ると母親が紺色の大（だい）學（がく）ノートをひらいて翹（ぎよう）望（ぼう）していた。ほしいゲーム機を調査して整理していたノートだ。母親いわく〈こんなことかんがえてるから成績がおちるんだよいいこにしてなさい〉と。

　沈黙したまま二階へ登（とう）攀（はん）する。

　木造築四十年の自宅の階段はきしみ二階の廊下も老朽化しているが増築した自室内は小（こ）綺（ぎ）麗（れい）である。蛍光灯を明滅させる。ノートは褫（ち）奪（だつ）されたがほしいゲーム機一覧は脳髄に網羅されている。ニンテンドー3DSがほしい。わかってるんだ。高卒の父親も短大卒の母親もわが家が匱（き）乏（ぼう）しているからこそ自分の将来を嘱望している。両親の人生の目的は〈自分のいけなかった大（だい）學（がく）にひとり息子をいかせてやる〉ことなのだ。鬱（うつ）勃（ぼつ）たる憂鬱をはらすために〈寫（しや）眞（しん）アルバム〉を瀏（りゆう）覧（らん）していると聲（こえ）がきこえた。〈此（こ）方（ちら）CIA日本支部村田清貴が極秘書類を閲覧した模様宇宙の法則が漏（ろう）洩（えい）される第三次世界大戦にそなえよ〉と。喫（きつ）驚（きよう）して蒙（む）古（くり）高（こ）句（く）麗（り）の違和感に憑（ひよう）依（い）されるとともに〈世界の真理〉がさとられた。宇宙開（かい）闢（びやく）の邃（すい）古（こ）から世界終（しゆう）焉（えん）の未来まで因（いん）陀（だ）羅（ら）網（もう）の量子力学的世界観が完成された。なぜだ。おれは神になったんだ。蛍光灯をつけたまま自室から遯（とん）竄（ざん）すると階段を顛（てん）躓（ち）しながら降下して両親の鎮座する居間に闖（ちん）入（にゆう）する。〈いますぐニンテンドー3DSを買ってこい〉と。〈これは神たる朕の命令である〉と。

　両親は茫（ぼう）然（ぜん）自（じ）失（しつ）する。

　円環状の蛍光灯が点滅する居間にて大型TVを瀏（りゆう）覧（らん）していた父親と母親は澎（ほう）湃（はい）と激（げつ）昂（こう）するよりも喫（きつ）驚（きよう）して觳（こく）觫（そく）としている。両親につづける。いわく〈おまえたちの正体はわかってる〉と。〈CIAの特殊工作員だ〉と。〈朕はこの世界の王CIAをさばく権利がある唯一無二の存在である〉と。〈第三次世界大戦を阻止したければニンテンドー3DSを買え〉と。〈朕をあがめよ〉と。痩（そう）躯（く）の父親が全身全霊で保護せんとするが玻（がら）瓈（す）のコップを打（ちよう）擲（ちやく）して婆（ば）羅（ら）婆（ば）羅（ら）にし大型TVを蹂（じゆう）躙（りん）して漆黒の画面をひびわれさせる。軈（やが）て儵（しゆつ）忽（こつ）たる急性期の興奮から疲（ひ）労（ろう）困（こん）憊（ぱい）して熟睡をはじめた。翌日熟睡しつづける息子を懇（こん）棘（きよく）にスズキ・ワゴンRの後部座席に搭乗させて柏（かしわ）崎（ざき）市内の個人精神科病院甲賀クリニックにむかった。鼈（べつ）甲（こう）の眼鏡を愛（あい）撫（ぶ）する甲賀院長いわく〈医療保護入院になりますね〉と。〈紹介状を書きますんで柏（かしわ）崎（ざき）救生病院にいってください〉と。〈健康保険証と印鑑と幾（いく）許（ばく）かの入院費を御用意されれば充分です〉とのことであった。

　移動中母親は涕（てい）泣（きゆう）していた。

　完（かん）爾（じ）たる父親が〈泣きたいのはみんな一緒だ〉となだめる。一世代前のカーナビゲーションで救生病院に逢（ほう）着（ちやく）すると同時に〈撃たないでまだ死にたくない〉と咆（ほう）吼（こう）して息子は覚醒した。父親が介抱して病院の自動ドアのなかへ這（は）入（い）ってゆく。桃色の室内には幾（いく）許（ばく）かの長椅子が臚（ろ）列（れつ）されており患者や家族が鎮座している病院内は幽（ゆう）邃（すい）としていた。唯一息子だけが〈昭和天皇に戦争責任はない〉〈だから朕は神としての責任はない〉と悶（もん）絶（ぜつ）躃（びやく）地（じ）して絶叫しているだけだ。受付をおえると急患扱いで特別に廼（ない）時（じ）の診察が受理された。白（はく）堊（あ）の壁面に〈神宮寺〉というシールがはられた一番診察室に這（は）入（い）ってゆく。父親が昨晩からの一（いち）伍（ご）一（いち）什（じゆう）を説明し母親が息子の人生を回顧すると銀縁眼鏡の神宮寺医師は患者に意味不明の質問を二十個くらいし事前に患者の揮（き）毫（ごう）したアンケートを凝視した。いわく〈まずは急性期病棟に入院しますが様子をみてB1閉鎖病棟にうつるかとおもわれます〉と。母親が〈何箇月くらい這（は）入（い）るんでしょうか〉というと神宮寺医師いわく〈一生とおもわれれば誤解はないでしょう〉という。

　息子は入院した。

　帰路母親は慟哭していた。