第2話

「ハイ、トレイシー」

「ハイ、デイヴ」

 デイヴィッドがブックマークしていたパンフレットを胸の高さに表示しながら、二人は体験ファーム行き路線と繋がっているバス・チューブへと向かった。

「私ね、こう見えても毎朝本物のファームからプロテイン・デリバリーを取ってるの。だから、うるさいわよ、食のクオリティには」

 トレイシーが楽しそうにページを繰りながら言った。

「大丈夫、見てのとおり、この体験ファームは本当の本物だから。ちゃんと飛ぶやつだけど、そういうのは苦手じゃない?」

「平気平気!」

 トレイシーは今にもスキップでも始めそうなくらい、上機嫌だ。栗色の巻き毛に人差し指を絡め、夢見るような表情でパンフレットのページに見入っていた。デイヴィッドはそんなトレイシーの肩に手を回したくて仕方ない衝動に襲われたが、もう少し、もう少し仲良くなれるまで待つんだ、と自分に言い聞かせ、衝動を抑えていた。今日のトレイシーは一段と美しかったが、それを口にするべきなのか、そうしてしまうことで二人の間に築かれつつある新しい関係を台無しにしてしまうのではないかという恐れが、あともう一歩踏み出すことから躊躇させていた。


 ミニバスをいくつか乗り継ぎ、二人は郊外の体験ファームに到着した。デイヴィッドはカウンターで捕虫網とカゴを2セット借りると、使い方を説明しながらトレイシーに手渡した。出入り口の向かい側にある扉が音も立てずに開く。扉の向こうには、見渡す限りグラスグリーンのフィールドが広がっていた。二人はグラスの上に足を踏み出す。柔らかな土と草の感触が心地良い。高いところでも腰丈程度、多くは膝丈以下の草が広がるフィールドで、デイヴィッドは早速しゃがみ込んで草の葉に止まるグラスホッパーを探した。

「ね、デイヴ、いるわよ、こっち!」

 トレイシーが手招きしながら、捕虫網を構えた。

「見てて、捕るからね」

 トレイシーは目の前の草むら目がけて思い切り網を振り下ろした。草の葉が白い網の中におさまる。だがまるでそれを見越したように、赤茶色のグラスホッパーがトレイシーの顔を目がけて飛んできた。予想もしなかった動きに面食らい、トレイシーは後ずさって尻もちを着いた。

「あっはっは!」

 思わずデイヴィッドは笑いだし、振り向いたトレイシーが口を尖らせた。デイヴィッドはトレイシーを指さして笑い転げ続け、つられたトレイシーも笑い出した。二人が互いをどう思っているかは別として、他人から見ればいかにも楽しげな恋人たちの笑い声が、どこまでも広がる黄緑色のフィールドを真っ青な空に向けて立ち昇っていった。


「どうですか? 思ったより難しいでしょう」

 背後から二人に呼び掛ける声が聞こえた。体験ファームのインストラクターだ。軽く会釈をしてデイヴィッドの右横を通り過ぎると、彼は右足をぐっと前に出して中腰になり、網を引いて構えた。テニスのバックスイングのような姿勢だ。そして周囲に小さな竜巻でも引き起こしそうな素速さで、網をやや下から上へ滑らせて振った。草を叩くと、網は宙で弧を描いて振られ、伸びた網の先がくるりと反転しながら網の輪に巻きついた。

「こうするとね、獲物が逃げ出せないんです」

「ほう、見事なもんだな。それで、グラスホッパーは捕れたんですか?」

「ええ、もちろん」

 インストラクターは網の先をデイヴィッドの眼前に掲げた。白い網の中で、赤茶色のグラスホッパーがパタパタともがいていた。

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