奈落篇

第1話:U=mgh

 六月二日の昼下がり。大体一四時と考えて頂きたい。


 年頃の女子高生ならば美味な弁当、或いは菓子パン、或いは食堂で空腹を満たしたが為に……「逃さぬぞ」とやって来る睡魔の誘いと格闘している頃だ。


 一地方都市に構える学び舎――花ヶ岡高等学校、一年七組の生徒達も例に漏れず、彼方でコクリコクリ、此方でクラリクラリと艶やかな髪を揺らして舟を漕ぎ、教員の読経じみた解説に耳を傾けていた(少なくとも努力はしていた)。


「ここに書いた通りでだな、物体は定めた基準面から高さを持つと――」


「くぅー……んぐぅ……くぅー…………んがっ」


 教室の後方、窓際で心地良い微風に吹かれて眠る生徒――友膳要に、一同の視線が注がれる。眠気に耐える訳でも無く、シャープペンで手の甲を突く訳でも無く、堂々と机に突っ伏して、しかも教科書とノート一式を丁度良い枕に拵えて……。


「くぅー……んふふ……くぅー」


 午睡を楽しんでいたのである。


「…………丁度良いので、今から皆に位置エネルギーの変化を見せようと思う」


 薄毛の目立ち始めた教員はツカツカと歩み寄り、眠りこける要の横に立った。しかしながら彼女は全く起きない、むしろ寝息が大きくなった。


「まず、基準面は友膳のとするわな」


 持っていた教科書を水平にし、要の頭から一〇センチメートル上で固定した。他の眠り掛けていた生徒達はいつの間にか覚醒し、興味津々に目を輝かせて集まって来た。


「これを、落とす」


「……うぅん」


 教科書が手放された。パサリと落ちた冊子の重さに若干の不快感を示した要だが、その程度では彼女の睡眠欲を打破出来るはずが無い。午睡は続行された。


「馬鹿でしょ要ちゃん」


 友人の倉光早希が呟いた。その通りだった。


「さて、今度は教科書をこの位置に持って来るぞ」


 実験二回目。教員の定めた教科書の位置は――頭上実にという高所だった。一回目とは計り知れない位置エネルギーの増加に、思わず生徒達も学習意欲を擽られてしまう。


「くぅー……くぅー……いや……そこは……早いよ……まだ……あん」


「先生、早く落として下さい」


 早希の無慈悲な依頼に教員はゆっくりと頷き、「さぁお立ち合いだ」と教科書を軽く揺らした。


「三、二、一……」


 果たして――二度目となる位置エネルギーの人体実験が始まった。




「マジで有り得ねぇわぁ、田島の! 少し眠かっただけなのに普通教科書落とす!? デリケートな身体なのにさぁ!」


 放課後。要は鼻息荒く「如何に田島という教員がモテそうにないか」を、殆ど興味を持たない早希に熱く語った。


「私だけ宿題増えるし、『次眠ったら教科書じゃなくて鉄球を落とす』とか言いやがるんだよ、もう私の心はズタズタのボロボロ――」


「要ちゃん」


「はい?」


「うっさい」


 手厳しい友人の指摘を受けてしまった要。これ以上の愚痴は一つも好まれない事を悟り、「ういっす……」と肩を竦めて歩を進めるだけだった。


「全くもう……それより、要ちゃん。少しは《八八花》を憶えたの?」


 そりゃあもう――と要は憎たらしく笑った。片目を眇めた早希は「じゃあ」と口を尖らせた。


「問題。菖蒲には光札がありますか」


「光? 札は光っていないでしょ?」


 たった一問でビギナーであると露呈した為、それ以上早希は質問する事を止めた。


「…………誰かに教えて貰えば? 私以外で」


「えっ、何で早希ちゃんは駄目なの?」


 全く理解出来ないといった表情で要が小首を傾げる。時として無邪気はあらゆる邪念に勝るのだ。


「要ちゃんに教え込むのはね、猫にワンと鳴けっていうくらい難しいんだよ」


 あっ! 突如として要が叫んだ。ビクリと肩を震わせる早希。彼女は外国映画のホラーにありがちな、突然の轟音で驚かせる手法が苦手だった。


「思い出したよそういや! あのね、昨日宿題やっている時に休憩しようと思ってね、スマホで動画見てたらね、『ニャワン』って鳴く変な犬の動画がね――」


 そんな不毛な会話を交わしながら、さて二人は一体何処へ向かっているのか? 


 ヒント――ほぼ答えであるが――をお教えしよう。


 六月二日、この日は「金曜日」である。そう、金曜日なのだ。


「お邪魔しまぁーす」


 快活な挨拶は要の専売特許である。ガラリと引かれた戸の向こうには……花ヶ岡を代表する公式の賭場、《金花会》が今日も開かれていた。打ち場に付いていない何名かの目付役は二人の方を見やり、軽く目礼した。


 ――冷気と熱気が手を取るような打ち場の空気に、ようやく要と早希も馴れて来ていた。


「あー……いらっしゃーい……」


 上履きを下駄箱に入れる二人を認め、受付に座っている二年生の女子生徒が手を振った。彼女は立ち上がろうとしたが、「ふぅ」と力無く息を吐いて再び座り直した。


「こんにちは、今日も遊ばせて貰います」


「こんにちはです! 先輩!」


 要と早希は椅子から動こうとしない二年生の元へ歩み寄った。

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