第7話 明日香と瞳
明日香も瞳と同じように突然俺の店に現れた。
もう20年も前の事だ。
紅葉も終わり、夜になると寒さを感じ始めた頃。
その日は夕方からひどい雨になった。
お客さんも来ないので、俺は時間を持て余していた。
少し早く閉店しようかと思った時、明日香はずぶ濡れで、一人で入ってきた。
「まだ良いですか?」と明日香は聞いた。
水色のワンピースが肌に張りつき寒そうで、体は小刻みに震えていた。それを見て俺は
「はい、大丈夫ですよ。ちょっと待っててください」と言ってから俺は浴室に行き、お風呂にお湯を出し、バスタオルを持ってきた。
「どうぞ使って」と渡す。
彼女は入り口から動かずにいた。
店を濡らさない気遣いだろう。
「ありがとうございます」と小さく言った。
「こんな雨の日に傘も持たずにどうしたの?」と俺が聞くと
「彼と喧嘩してさっき車から放り出されたんです」と言って明日香は泣き出した。
「酷い彼だね。雨の中放り出すなんて。そのままじゃ風邪ひくからお風呂に入ったら。お湯は今溜めてるから」と、俺は明日香に言ってあげた。
明日香は少し躊躇っていたが、俺がもう一度促すと素直に従った。
俺は浴室まで案内し、2階に行ってスウェットの上下を持って浴室の前に置いておいた。
店の入口のドアに『Close』の札をかけ、灯りを半分落とす。レコードの棚に行き、1枚のレコードを選んでプレーヤーに置いた。
『ほーぼー』 ー 佐々木幸男 ー
ハスキーな声と乾いたギターが心地良い。
A面最後の
『君は風』が始めった時、明日香がスウェットを着て出てきた。
「ありがとうございました。温かかったです。おかげで助かりました。」と、初めて笑ってくれた。
「良かったら珈琲飲む?」と俺は聞いた。
「はい、私、珈琲大好きなんです」
明日香は嬉しそうにカウンターに座った。
「じゃあ、取って置きの豆で煎れるね」
俺は新しく豆を挽き珈琲を煎れ始める。
「良いお店ですね、落ち着きます」と明日香は言った。
「ありがとう、まだ開店したばっかりなんだ」と俺が言うと
「こんなお店が近くにあれば良いのにな」と呟いた。
「遠くから来たの」と聞くと
「車で4時間くらいの所です」と答えた。
「そうなんだ。結構遠くから来たんだ」
(帰りどうするんだろう?)
「はい、お待たせ」と俺は彼女の前に珈琲を置く。
「うわ〜良い香り。凄いですね。いただきます」と明日香は一口飲むと
「美味しい。こんなに美味しい珈琲初めてです。ふう〜暖ったかい。幸せ」と微笑んで言った。良い笑顔だ。どこか懐かしい。ちょっと心が動く。
少し前に彼と喧嘩し雨の中放り出され泣きながら店に入って来た時とは別人のようだ。
明日香は一口飲む毎に笑顔になっていき
「あの突然ですけど,この珈琲の煎れ方教えてもらえませんか?」と聞いてきた。
「これはね豆が特別なんだ。特別なルートでしか手にはいらないんだけど、もし気にいったんだったら分けてあげるよ」と、俺は言ってあげた。
「本当ですか? 是非お願いします」
「珈琲好きなんだね」と、俺
「はい、大好きです」と、明日香
その日は明日香は泊まっていった。
次の日に珈琲の煎れ方を丁寧に教えてから、珈琲豆を分けてあげ、近くの駅まで車で送って行った。
その後何度か珈琲豆を分けて欲しいと、明日香はやって来る。俺はいつしか明日香の来るのを待ち遠しく思うようになっていた。
しかし半年程するとばったり来なくなってしまった。
俺は寂しかったが、明日香の連絡先は敢えて聞かなかったのでどうしようもなかった。
そして10年以上経って忘れてた頃に可愛い女の子を連れて再びやって来た。
女の子は明日香の後ろに隠れて恥ずかしそうにしている。
「健太さん、お久しぶりです。覚えてますか?
明日香です」
「ああ、覚えてるよ。子供出来たんだ。急に来なくなったから心配してたんだよ」
「ごめんなさい。ほら、瞳、挨拶しなさい」と女の子に促した。
「瞳です。もうすぐ中学生になります」と、ペコリと挨拶した。
「よろしく瞳ちゃん♪ それにしても可愛い子だね」
誉められて明日香も瞳も嬉しそうだった。
「ありがとう、健太さん。瞳、良かったね。可愛いって」
「えへへ、おじさん、ありがとう」と恥ずかしそうに瞳が言ってくれた。
「あの、まだあの珈琲豆はありますか?」と明日香が聞いてきたので
「ああ、あるよ。うちの看板だからね。それにしても久しぶり、どうしてたの」
「う〜んと、色々あって」としか明日香は言わなかった。無理に聞けないので
「じゃ珈琲飲んでいきなよ」と俺は言った。
「うん、飲みたい」
「瞳ちゃんはどうする?」と俺が聞くと
「この子も珈琲、大好きなんでお願いします」と明日香は瞳の意見も聞かず注文した。
二人はカウンター席に座り、仲良く話している。
明日香も瞳も美味しそうに珈琲を飲んでくれた。
「やっぱり健太さんの珈琲が一番美味しい。ねっ、瞳」
「うん、お母さんの珈琲より断然美味しい」
「悪かったわね。そりゃ健太さんには負けるわよ。でも今日珈琲豆分けて貰うから、家でも美味しいの煎れたげる」
「本当、お母さん」
「だって、お母さん,健太さんにちゃんと教えてもらったんだから。ね、健太さん♪」と、明日香は同意を求めたが
「えーと、そうだっけ? 教えたかな?」と、俺はとぼけた。
「健太さん、少しいじわるになったね。大丈夫だよ、瞳。ちゃんと煎れたげるから」
「ははは、ごめん。なんか2人を見てると嬉しくなるんだ。初めて明日香がここに来た時は悲惨だったからね」
「悲惨って? お母さん、何があったの?」と瞳が聞く
「何でもないの。もう健太さん、余計な事言わなくて良いの」と明日香は怒って言ったが、直ぐに笑顔に変わり
「でもね、瞳ちゃん。お母さんはあの日、健太さんに救われたの。とっても優しくしてもらった。だから健太さんはお母さんの大切な人なのよ。覚えて置いてね」と瞳に言う。
「うん、おじさん、お母さんを助けてくれてありがとう」と瞳は健気に言ってくれた。
「いやぁー俺は大したことしてないから。それより明日香が元気で幸せそうで良かった」と言った。
「ありがとう、健太さんにそう言ってもらえて良かった。今日は来た甲斐がありました」と言った。しばらく話しをして、2人は立ち上がった。俺は店の外まで見送り
「健太さん、また来ますね」
「うん、また来て、明日香。瞳ちゃんも」
と言って珈琲豆を渡した。二人は歩き出す。
瞳は振り返りながら何度も手をふってくれた。
それから今日まで明日香とは会ってなかった。
そうだ確かに瞳って言ってたのに。
俺はあの時、すでに瞳に会ってたんだ。
ようやく思い出した。
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