第5話 彩子

「ちょっと待っててくださいね」

 と言って、瞳は一度自分の部屋に向かうとまた直ぐに戻ってきて


「おじさん、これ見てください」

 と、瞳は1枚の写真を俺に渡した。


 そこには瞳と年配の女性が仲良さそうに微笑んでいる。


「うん? 瞳と瞳のおばあちゃんかな?」と聞いた。


 瞳はじれったそうに

「おじさん、良く見て」と、少し大きな声を出した。


 俺は瞳が何に興奮してるのか解らなかったが、もう一度良く見た。


(ん! この笑顔の年配の女性は・・・)


 瞳の顔を見た。


 もう一度写真を見る。


(間違いない。特徴のある笑い方と唇)


 俺は混乱した。瞳は微かに頷いた。


(何故、瞳と一緒に写っている?)


「瞳・・・どういう事?」


 瞳は何も言わずに、もう1枚写真を俺に渡した。


 そこには海岸でお互いの腰に手を廻して微笑む俺と彩子がいた。俺がいつも話しかけていた彩子がいた。


 俺は机の上の写真立を振り返って見る。


(同じ写真)


「こっ、これって・・・」


 俺は言葉に詰まって、瞳を呆然と見た。


「おじさん、びっくりさせてごめんなさい。私は彩子おばあちゃんの孫です。」

 と、瞳は大粒の涙を流している。


(どういう事だ。そんな事があるのか? 瞳が彩子の孫だって?)


「瞳は最初から知ってたの?」と言うのが精一杯だった。


 瞳はゆっくり話し始めた。


「おばあちゃんに『健ちゃんは海辺でカフェのお店をやってる』ってだけ聞いていたんです。だから海辺のカフェを順番に探し廻って、あの夜、おじさんと海岸で初めて会った時に健太さんって名前聞いて、もしかしてって思ったんです。それから、『魔法のドレッシング』にも反応してくれたし。この一週間、おじさんと一緒に居て、おばあちゃんがいつも話してくれる、『健ちゃん』のイメージのそのまんまの人だったんですけど、それでも確信はまだ持てなくて、人違いだったらとっても失礼だし。それに今おじさんがおばあちゃんの事どう思ってるのかも判らないし。でも、さっきその写真立見て、今でもおばあちゃんの事忘れてないってわかったんです。やっぱりおじさんが健ちゃんだったんだって判って、嬉しくて、瞳、嬉しくって・・・」


 瞳は大声で泣き出した。


 窓には上弦の月が浮かんでいた。波の音が瞳の泣き声の合間に聞こえている。


 俺は瞳をベッドに座らせ、少し落ち着いて来たのを見て

「じゃあ、人を探してるって、俺の事だったんだ?」と、聞いてみた。


「はい、おばあちゃんに健ちゃんを会わせてあげたくて・・・」


「でも、何で今頃になって?」



 瞳は少し悲しい顔になった。


「実はおばあちゃん、病気になっちゃて、それで気が弱くなってしまったのか、今迄あまり話してくれなかった昔話しを良くするようになったんです。」


 そこで瞳は一旦話を置いた。


 俺は病気が気になったが、瞳が話し出すのを待った。


 瞳は言葉を選びながら、再びゆっくりと話し出した。


「おばあちゃんは、ずーとおじさんに会いたかったと思います。お見舞いに行くと、いつもおじさんの事ばかり話すようになっていたんです。

 おじさんと初めて会った日の話、毎晩同じ時間に電話をしてきてくれた話。初めてのデートでドキドキした話。港の北公園で初めてキスした話。自分の部屋で初めて結ばれた時の幸せだった気持ち。スキーに行って喧嘩した事や初めて二人だけの旅行の楽しくて幸せで嬉しくて泣いた話をまるで少女のような顔して嬉しそうに話してくれたんです」


 瞳の話しを聞きながら、彩子と過ごした日々が鮮明に甦ってきて、自分の顔が泣いてるのか笑ってるのかさえ分からなくなっていた。


 瞳が覗きこんで俺を見た。


「おじさん、大丈夫ですか?」


 俺は無理に笑顔を作ったと思う。


「ああ、大丈夫。続けて」


 瞳は頷いて、


「はい。それで、ある日、おばあちゃんに聞いてしまったんです。そんなに好きなのにどうして別れちゃたの? って・・・私は馬鹿でした。そんな事聞かなきゃよかった」



 途端に彩子は哀しい顔になり、ぽつりぽつり瞳にこう話したらしい。


 私は健ちゃんと過ごした時間が一番幸せだった。一緒に居れば幸せで安心できた。健ちゃんはいつも暖かい優しい目で私を愛してくれた。あんなに真っ直ぐで誠実な人は他にはいないのに、私は裏切ってしまった。甘えていたんだと思う。甘えている事が当たり前になっていて、その事にさえも気がつかなくなっていた。わがままを言っても、いつも優しく包みこんでくれたから。なのに私は健ちゃんに酷い事をしてしまった。決して許されない事。『あの日』健ちゃんの目を見た瞬間にその事に気付いた。健ちゃんは今まで見たことのない冷たく、軽蔑した目で私を見た。そして、私は健ちゃんを失ってしまった。優しかった健ちゃんはもうどこにもいなかった。もう会う資格さえなくしてしまった事を理解して絶望した。


 と言って彩子は長い間、静かに泣いていたらしい。


 瞳は聞いた事を後悔した。直ぐにおばあちゃんに謝った。でも、それからはもう俺の事は話さなくなり、次第に元気も無くしてしいったらしい。


 瞳は、元気になってもらうため、なんとしても健ちゃんにおばあちゃんと会って貰おうと、探し始めることを決心した。2週間かかって、ようやく俺と出会い、間違いない事を確信するためと俺が今彩子の事をどう思っているのかを確かめるためにバイトする事にしたらしい。



「だから、おじさん、おばあちゃんに会ってあげてくれませんか? お願いします」と頭を下げて頼んできた。



 しかし、俺は『あの日』の記憶だけは思い出したくなかった。俺の中では必死に忘れようと何年も足掻いて苦しんで、苦しみ抜いてようやく心の隅に追いやった記憶だったから。気が付いたら追いやるのに15年もかかっていた。



 瞳が悪い訳ではない。だけど『あの日』の事だけは聞きたくなかった。


 裏切られた悔しさと自分を全否定された情けない記憶が心の隅からまたぞろ這い出してくる。


 俺も聞いた事を後悔した。


 しばらく沈黙が続いた。


 瞳を見た。


 真剣な顔で俺を見つめている。


 何か言ってあげないと。


 瞳が悪い訳ではない。


 それは分かってる。


 何とか声をださないと。


「彩子には瞳の他にも誰か看てくれる人はいるの?」と聞くのが精一杯だった。俺の声は掠れていた。


「はい、おばあちゃんのお兄さん、敦士さんのご家族に頼んできました」と瞳は答えた。


「あぁ敦士君か。彼は元気かい?」


 彩子の兄と俺は同じ年で、あの頃何度か会った事がある。


「はい、元気です。敦士さんの事は知ってるんですね。家族のみなさん元気ですよ。お子さん2人とお孫さんも去年生まれました」


「そうか、敦士君は幸せなんだな」


 俺はどうだろう。とても幸せとは言えない。


 妻も子もいない。友達も殆どいなくなってしまった。


 独りぽっちだ。孤独死まっしぐらか。


 馬鹿だな、俺は。ははは!


 あぁ、またいつもの台詞か。駄目な男だ。


 そんな事考えていた時、突然瞳が俺に抱きついてきた。


「おじさん。ごめんなさい。瞳、おじさんの気持ち考えないで勝手な事言ってますよね? 瞳、おじさんのそんな哀しそうな顔は見たくないです。ごめんなさい、ごめんなさい、おじさん、ごめんなさい」と、俺の胸に顔を埋めて泣きながら謝っている。


 そうか、俺はそんなに酷い顔をしてたのか?あぁ、俺も泣いてるのか。


 ふぅ、瞳のおかげでようやく俺は冷静になれた。瞳を傷つけたくはない。


 俺は瞳の頭を撫でながら


「謝らないで良いよ。瞳が悪い訳じゃない。俺の心の問題だから。でも返事は明日まで待ってくれるかな? よく考えてみるからね、瞳」

 と、俺はなんとか笑顔で瞳に答えられた。


 瞳は静かに腕を離すと、俺の顔を見て少し安心したのか

「おじさん,瞳のわがまま聞かせてすみませんでした。明日返事待ってますね。おやすみなさい」と言うと、いつものようにペコリと頭を下げ、涙を拭きながら部屋から出て行った。


 窓に浮かぶ月は半分雲に隠れていた。

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