10
フードを取り、マスクを外す。いつもの自分がそこにいる。
ぶさいくだなぁ……。
璃永は鼻で息をついた。
ぱっとしない目。もう少し、二重の幅が広かったらいい。
そのくせ大きな鼻。横顔がきれいだって。そんなこと言われたって、私には邪魔でしかない。
丸いあごの、面長な輪郭。絶対に、前髪は上げられない。
洗いっぱなしの、ボサボサの髪。矯正はかけないでねと、
少し、太ったかな————。
璃永は服の上から二の腕をつまんだ。
私は、フィギュアになるべきじゃなかった。
きらきらと光る目、無いに等しい鼻、あごがつんとした小さな顔、上手に動くのに、けして乱れない髪、完璧なプロポーション。
あれはヘンリエッタ45。私じゃない、他の誰か————。
あ、ニキビ。
璃永は立ち上がり、鏡に顔を寄せた。それから、またすぐにイスに沈んだ。
いったい、何が起こっているのか分からない。私はただ————。
ただ、ゲームを楽しみたかっただけなのに。
どうして現実が侵食されていくの?
みんなが好きなのだって、どうせ〝これ〟じゃない。
みんなが求めているのは、ゲームの中の、〝わたし〟————。
「どうしたの?」
美紗子は、てきぱきと璃永の長い髪をブラシで梳かしはじめた。
璃永はぼうっと、鏡に映る美紗子を見つめた。
睫毛の長い、子猫のような瞳、つんととがった小さな鼻、逆三角形のきゅっと引き締まった顔、丁寧にウェーブがつけられたショートボブ、よく食べるのに、太らない体————。
「美紗ちゃんは、卒業したらどうするの?」
鏡に向かいながら、璃永は言った。
「私? 私は————」
美紗子は慣れた手つきで璃永の髪を一束取り、カールアイロンに巻きつけた。「美容学校に、行くよ」
「そうだよね」
「璃永ちゃんは?」
「うーん」
「今年受験だよね?」
「うん」
璃永は、照明が取り囲む鏡の前で、暗い面持ちを浮かべた。「とりあえず、進学するけど、その先のことは、まだ……」
「ふうん。いいんじゃない? そういう人、いっぱいいるよ」
均等に、美しく、長い髪がカールされた。一旦それを放り置き、美紗子は化粧水を手に取った。
「あ、ニキビ」
美紗子は言った。「珍しいね。璃永ちゃん、あんまり肌荒れしないのに」
「うん」
「クリーム、つけとくね」
「ありがと」
吹き出物に、優しく、薬が塗られたあと、肌全体に、ごく薄く化粧下地が伸ばされ、滑るようにパウダーがのった。
璃永の暗い顔色が、光を受けたように、徐々に輝きはじめた。心なしか顔が引き締まり、目もぱっちりと大きくなったようだ。
美紗子は青みの強いピンクのアイシャドウを璃永の瞼に入れた。
「あのね」
目を閉じたまま、璃永は言った。
「他の支部の子の、何人かと、正式にデビューしないかって、お話が来てるの。今度はあおいろをまもる会だけじゃなくて、いろんなゲームの宣伝を中心に、活動する予定だって」
「ふうん。いいんじゃない?」
慎重にアイラインを引きながら、軽い調子で美紗子は言った。「璃永ちゃんだって、いつまでもあおいろをまもる会に縛られてるわけにはいかないでしょ」
「でも」
璃永はぱっと目を開けた。
美紗子はとっさにブラシを離した。璃永は言った。
「今までこうして、二人でやってきたわけだし……」
メイクがくずれてしまう。璃永は必死で、込み上がるものをこらえた。美紗子はブラシを手にしたまま、鏡の前で、呆然と璃永を見下ろしていた。
美紗子は璃永よりも一つ年下だった。
表向きは、賢くしっかり者のお姉さんキャラ、ヘンリエッタ45、明るくやんちゃな妹キャラ、みんみん。
だが実際は、出会ったときから、賢くしっかり者であるのも、明るくやんちゃであるのも、全部美紗子の方だった。
かわいい子……。
初めて『みんみん』と対面したとき、璃永は素直にそう思った。
存在自体が、光を放っている。特徴的なキャットアイから、目が離せなくなる。
いつも明るく、はきはきと話す。おふざけが好きだ。周りのことをよく見ている。判断が速い。
対して自分は、陰気で、せっかくふくらんだ会話をすぐ打ち切りにしてしまう。冗談を言うのが恥ずかしい。自分のことで精一杯だ。ぐずぐずと優柔不断で、自分で決めたはずのことを、後悔してばかりいる。
みんりえったの本質は、すべて美紗子が担っている。
二人が並び、歓声を送られ、握手を求められる。
『ヘンリエ、かわいい』
璃永は、美紗子の努力を横取りしているような気がしていた。
どうして私は、ここに立っているんだろう————。
「一緒に活動するって決まったときも、言ったと思うけど」
美紗子は言った。
「私は高校を卒業したら、あおいろをまもる会を退会するつもりでいるから。ゲームは続けるかもしれないけど、表立った活動はってことね。人前に出るよりも、人を綺麗にすることの方が好きだし、その気持ちは今も変わらない。だから、私のことは気にしないで、璃永ちゃんは璃永ちゃんの道を進んでほしい」
璃永は言葉が出なかった。
いつも、こんなものだった。
自分の思いは、あるにはあるが、口を開いてみれば、核心も、まとまりもない。素晴らしい案がないのなら、発言するなと言われれば、口を閉じてしまうしかなくなってしまう。
そんな、ほとんど〝ぼやき〟のような自分の言葉を、美紗子は汲み取り、正確に、簡潔に意見する。
そうなってしまえば、その意見が適切かどうかは、もう、どうだっていい。
潔さが勝る。意見にもならないぐずぐずな気持ちは、黙っていれば、それでいい。
美紗子はティッシュペーパーを手に取り、璃永の瞼を優しく拭った。
「『みんりえった』は私の青春だよ。璃永ちゃんにも、そう思ってもらいたい」
璃永は頷き、鏡に向き直った。
誰よりも真っ直ぐに進んでいる人の、邪魔をしてはならない————。
美紗子はメイクを続けた。
やわらかく整った瞳、筋の通った高い鼻、卵型の輪郭、手をかけなくても、健康的な長い髪、すらりとした手脚————。
こういう人が、選ばれるのだ。
美紗子は璃永の睫毛に、丁寧にマスカラを塗った。
素朴さね。透明感ね。奥ゆかしさね。
そういうものが、あればいいのね。
冷めた毛束を、軽くほぐしていく。ヘンリエのトレードマーク。高い位置に結んだ、ふわふわのツインテール。
地味な人。
初めて『ヘンリエッタ45』と対面したとき、美紗子は率直にそう思った。
ほとんどすっぴんみたい。でも、どこかで見た、西洋絵画の女性のように、艶はないが、ほどけるように、ふっくらとして見える。頰に染まる赤。薔薇色の赤。ただそれだけが、あでやかな。
初めて璃永に化粧をほどこしたとき、美紗子は葛藤した。
ファンデなんて、要らないでしょ。ラインはあんまり引きたくないな。ラメなんて、光るゴミみたい。
ああ、この髪。結ばなきゃ、ならないんだ。
だったらせめて、私が。
目に見えない、大事なものを、塗りつぶしてしまわないように。私が、奇麗にしてあげたい。
「痛っ」
璃永は小さく発した。
「あ、ごめん」
美紗子は、毛束を握る手を緩めた。「ちょっとぼーっとしてた」
「もー」
「ごめんごめん」
美紗子は手際よくツインテールを作った。それから、結び目や毛束のふくらみ、前髪の流れを整えた。
用意された、水色のユニフォームに袖を通す。パリッとしたシャツとスカート。シンプルだが、これを着ると、本当に、世界を守る任務を託されたエージェントのように、気が引き締まる。
「はい」
美紗子はほんのりと赤いリップを、璃永の唇にのせた。
二人は振り向いた。鏡の前には、ヘンリエッタ45と、みんみんが立っている。
今はただ、世界を守っていよう。
きっと何も変えられない。きっと誰も救えない。
けれど、毒に侵されそうなほど、ゴミにあふれた現実の、ほんのひとすじの、光にはなる————。
廊下に、足音が響いていた。
二人はそれを知らなかった。イスに座り、すっかりリラックスし、SNSに投稿する文章を作成していた。
『まもなく本番です! ラジオのあとは、イワツキ支部にて会員限定の臨時ミーティングがあります!』————。
誰かがドアをノックした。
「はい」
美紗子が返事をした。ドアが開いた。
黒のミリタリージャケット、黒のタイトなパンツ、黒のエンジニアブーツ。
髪をジグザグに短く切った、小柄な人物が立っていた。
「ヘンリエさん」
訪問者は言った。
「はい」
璃永は立ち上がって答えた。
訪問者は楽屋に足を踏み入れると、美紗子には目もくれず、璃永のそばへ歩み寄った。
その顔には伝えたい気持ちが、一つも表れていなかった。
何かを終わらせるためにやって来た。そんな、はやる安堵にも似た、緊張と恍惚の表情————。
美紗子は、危険を察知した。
「璃永ちゃん」
訪問者はポケットから折りたたみ式のナイフを取り出した。
まっすぐに、相手を見つめる璃永の視界には、それが入っていなかった。
「璃永ちゃん!」
美紗子は訪問者の腕をつかんだ。
二人は取っ組み合いになった。やっと、ナイフが目に入り、璃永は恐怖した。
「誰か来て!」
廊下に響き渡るように、璃永は叫んだ。
訪問者が、ナイフを持つ手を美紗子から引き剥がし、おもいきり振り上げた。
美紗子の腕に線が引かれ、血が滲んだ。璃永は悲鳴を上げた。
美紗子はひるまず、再度訪問者の体を押さえた。
「誰か! 誰か来て!」
ウェーブヘアを乱し、汗を吹かしながら、美紗子は叫び続けた。
まもなくビルの関係者や警備員がかけつけ、訪問者は取り押さえられた。
美紗子はすぐに手当てを受けに行った。璃永は床にへたり込み、放心していた。
「人殺し!」
訪問者は、璃永を見て叫んだ。
ナイフで命を狙われた。パートナーを傷つけられた。目の前で暴言を吐かれた。
だが、璃永は
訪問者は体をガタガタとふるわせ、頰一杯に、塗りたくるように涙を流し、感情をあらわにしていた。
いったい、何が起こっているの?
私はただ、ゲームを楽しみたかっただけなのに————。
黒ずくめの訪問者は、悲鳴にも似た声で叫んだ。
「バクを返せ!」
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