第119話 玲子の母親代わりだと思ってます。先生のこと

 月曜日、綾人が自転車のタイヤに空気を入れていると夏乃が慌ただしく玄関から飛び出してきた。五分ほど前から門の前では莉子が待っていて、合流した二人は綾人に手を振って学校に急ぐ。天気は良く、これまでの残暑とは違って秋の空気が心地いい。玲子はそれから少しして顔を見せた。


 二人で自転車に乗ることも久しい。怪我のせいで運動をしていなかったためか、いつもよりも自転車が左右にフラフラと揺れる。その度に綾人の腰に巻き付けられた玲子の腕に力が入った。耳元で笑う玲子に綾人の気持ちも軽くなる。とても真綿で首を絞められているとは思えない穏やかな一日の始まりだった。


 斎藤の研究室に到着すると、玲子がコンコンとノックする。すりガラス越しに人影が近づいてきて、扉が開くと眠たそうな斎藤が二人を中に入れてくれる。意外なことに部屋の中は整頓されていた。


 「久しぶりですね」


 「本当にそうだよ。二人でここに来るのは三カ月ぶりくらいになるのかな」


 「はい。戻ってこれたんだ、私」


 玲子が辺りを見渡して感慨深そうに呟く。綾人はそれを聞いて斎藤とアイコンタクトを取った。一時期、綾人さえこんな毎日を諦めていた。だからこそ、何気ない時間が大きな価値を持っていると理解できる。斎藤が自分のコーヒーを淹れ始めると、玲子もその横で二つのマグカップを手に取った。


 「綾人は何が良い?」


 「いつも通りで」


 「うん。それで先生、私がいない間に部屋の掃除したんですか?」


 綾人は何の衣類も積まれていないソファーに腰を掛ける。玲子の言う通りこの部屋は綺麗すぎる。とはいえ、斎藤が掃除をしたとは思えなかった。


 「いや、実はね。私が休職している間に業者の清掃が入ったんだよ。確かに了承したのは私なんだけど、もう何がどこに行ったのか分からなくてね。今日は玲子ちゃんに一緒に探してもらおうと思っていた」


 「普段から綺麗にしていればそんなこと起きないんじゃ」


 「分かってないね。あれでいて場所はきちんと把握してたんだ。書類なんて何の分類も関係なく纏められてしまったよ」


 斎藤は恨み節を口にして山積みの書類を指し示す。玲子は一番上の数枚をパラパラと見て吹き出していた。それからは何でもない雑談に花を咲かせる。綾人が出なければならない時間までまだ少し残されている。


 綾人には斎藤と話したいことがあった。それは言うまでもなく玲子との今後についてであるが、隣に本人がいると話しづらい。何度機会を窺っても玲子の声を聞いていると現状に満足してなかなか言葉が出てこない。そんなことを繰り返していると、斎藤は思い出したかのように手を叩いた。


 「そうだ。下のメールボックスを見てくるのを忘れていたよ。玲子ちゃん見てきてくれないかい?私はこれから授業の準備があるし、砂海君もそろそろ研究室に向かう時間だろう?」


 「分かりました」


 「ついでに花壇のコスモスを見てくるといいよ。今ちょうど見頃で綺麗なんだ」


 「ふふ、そうなんですね。じゃあ行ってきます」


 玲子の聞き分けは良い。斎藤が既に片付いている机の整理を始め、綾人も鞄を肩にかけてみせると玲子は部屋から出ていった。その瞬間、斎藤の溜息が漏れる。


 「これで良かったのかい?そんな困った目で私を見ないでほしいね」


 「すみません」


 「玲子ちゃんも気付いてた。用件は何だい?」


 斎藤は綾人の雰囲気を察して玲子を使いにやったらしい。さすがの綾人も玲子が隠し事をするときの顔は分かるようになった。気を遣わせてしまったことを申し訳なく思いながら、斎藤と向かい合う。


 「今の俺は玲子の隣に似合わない男だと思いますか?」


 「なんだい、藪から棒に」


 「どうですか?」


 「本当に……女々しいね」


 斎藤は文句を零しながら顎に手を当てる。虚ろな目が綾人を捉え、最後は鼻で笑う。


 「砂海君が隣にいて安心する女の子はいないだろうさ」


 「ですよね」


 「一人の例外を除いてだけどね。どうしてかは分からないが」


 斎藤が確認を取るようにそう問いかける。綾人が首を傾げると斎藤は髪をくしゃくしゃとかきあげた。


 「玲子ちゃんが望んだ場所なんだろう?それ以上の意味を求める必要があるかい?」


 「でも告白は拒絶された。妖狐だからって」


 「それで?」


 「先生は妖狐ってなんだと思いますか?」


 「また急に難しいことを」


 斎藤はコーヒーを飲み干して腕を組む。綾人はどんどんと自らの心にある深い沼に足を踏み入れていく。


 「妖狐同士だと最後は不幸しか残らないでしょうか?」


 「妖狐を理由に自分の弱さを正当化してはいけないよ」


 「そんなこと……いえ、そうですよね」


 図星を指されると言い返したくなる。しかし、斎藤が正しい。玲子を幸せにするのは妖狐ではなく綾人の責務なのだ。すり替えると見方は単純になるが、答えからは遠ざかってしまう。


 「何が聞きたかったんだい?」


 「二人が妖狐だってことを理由に拒絶されてしまった。だけど、その妖狐が一体何なのかが分かってない。それが悔しかったんです」


 「妖狐について知りたいんだね」


 「はい」


 「私に分かると思うかい?」


 斎藤はそう言いながらも一緒に考えてくれる。綾人と初めて会ったあの時から、玲子には多くの理解者ができた。それはまた綾人も同じなのかもしれない。斎藤を見ていると一人ではないことを実感できた。


 「こんなこと言うと怒るかもしれないですけど、玲子の母親代わりだと思ってます。先生のこと」


 「は!?なんだい急に?」


 「玲子には親という一番の味方がいなかった。でも、先生と玲子の信頼関係はまさに親子だと思って」


 「あのね。玲子ちゃんに失礼だし、私だってまだそんな年じゃないよ」


 「もちろん、心情的な意味です」


 「全く」


 「すみません」


 「……ただね、もし本当に玲子ちゃんがそう思ってくれているなら嬉しいよ」


 予想外にまんざらでもない顔をした斎藤はすぐに眠たそうな表情に戻る。斎藤に助けを求めたことは間違いではなかった。綾人はそう確信できて過去の自分を褒める。斎藤自身もまた、このような道を辿ってきたことを噛みしめているようだった。


 「じゃあ父親代わりは玉藻さんかな」


 「間違いないです」


 「そんな玉藻さんでも妖狐のことは詳しく分からなかったんだろう?いっそ蛸山にでも聞いてみたらどうだい?」


 「蛸山ですか?」


 斎藤がどこまで本気で言ったのか分からない中、綾人は裏社会について思い起こす。あの事件を経て裏社会は二人に干渉しないと約束した。ただ、そうして安全が担保されていたとしても玲子の認識が改まることはないと容易に想像がつく。


 「直接じゃなくてもいい。委員長がいるじゃないか。彼女、不思議なことに砂海君を好きなんだろう?」


 「それ何か関係あるんですか?」


 「お願いしやすいんじゃないかと思ってね。裏社会のトップなら何か知っててもおかしくないだろうし、そのコネクションを偶然にも持ってるわけだ」


 「玲子が嫌がらないか……」


 「嫉妬させると思ってるのかい?」


 「違います。また裏社会と関わることにです」


 斎藤は雰囲気を丸くしてそろそろ時間だと時計を示す。授業ではなく玲子が戻ってくるかもしれないという合図だった。斎藤の口調が少し早まる。


 「もうこれは砂海君の問題だ。君が解決しなければならないなら、自分で判断を下さないとね。たとえ遠回りになっても、その方がより正しい未来に近づける」


 「そうでしょうか」


 「絶対に。保証するよ」


 「分かりました。聞いてみます」


 教師らしい言葉を受けて、綾人は若干驚きつつ感謝する。瑞歩とはこれからすぐに会うことができる。そう思うと頭はすぐに次のことに切り替わった。綾人が部屋から出ると外の廊下で玲子とすれ違う。玲子は腕に斎藤宛の手紙を抱えていて、また後でと綾人に笑いかけた。


 綾人が研究室に着いた時、祐輝はまだ来ておらず瑞歩と心だけだった。挨拶を交わした後はぎこちなく自分の定位置に移動して荷物を置く。朝一番なだけでなく、瑞歩と顔を合わせるのはあの事件以来である。妙な距離感があったものの、玲子のことだとすぐに話しかけた。


 「うーん、それはちょっと」


 数分後、お願いをして返ってきたのは難色だった。心は廊下を気にして綾人と瑞歩が二人で話せる環境を作っている。


 「難しいことだった?」


 「父に取り次ぐことは簡単です。でも、私にも気持ちがあります」


 「どういうこと?」


 綾人が不思議に思って聞き返すと、瑞歩は困ったように苦笑いする。前髪を少しいじって溜息の後に口を開いた。


 「私の気持ちを知ってるでしょう?そんな私に二人の間を取り持つ役割をさせるつもり?」


 「いや、そういうことじゃなくて」


 「私にとっては同じこと。またあの時みたいに追い詰められて苦しんでいる時は助けてあげる。でも、今の砂海君はそうは見えない。信濃さんが戻って楽しそう」


 申し訳なさそうにしながら瑞歩ははっきり告げる。協力の見込みがないことは明白だった。それを綾人が非難できる道理もなく、何度か頷いて理解を示す。


 「それに、私は妖狐の秘密を探ることが砂海君の問題を本質的に解決できるとは思ってない」


 「え?」


 「私の意見なんだけどね」


 「どうしてそう思うの?理由を聞きたい」


 瑞歩は表社会で静かに暮らす人間であるが、少なくとも綾人の知り合いの中で最も裏社会の事情に詳しい。そんな瑞歩がなぜそう感じたのか。そこには綾人では思いつくことのできない意味があるかもしれなかった。


 「どうしてって言われたら難しいけど、妖狐って滅多にいないから。それに酒神さんが信濃さんを見つけるまでは裏社会でもあまり知られた存在じゃなかった」


 「うん」


 「でも今は好奇の眼差しで見られてる。不思議な力を操れるだけでなく、誰もが欲する不老まで持ってるから。砂海君が求めてる妖狐の正体が何を意味するのか分からない。でもそれが二人をまた不幸にすることだって考えられるでしょう?」


 「妖狐のことを知ろうとしたらまた……」


 「かもしれないって話」


 そこまで説明があった時、心が瑞歩に目配せをする。綾人と距離を取った瑞歩は直ちにいつもの優しい笑顔を見せる。その矢先、祐輝が研究室に入ってきた。


 「うっす!綾人、やっと来たな!」


 この煩い声も久々に聴く。綾人は顔をしかめながらそうだねと返事した。

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