第1話 第4楽章

 ーー連絡こないけど何してるの? 今から家行くから。


 ……まずい。非常に、まずい。

 彼女には合鍵を渡してあるので普通に入れてしまう。しかも「今から」というワードが入っている時はすでに家の近くにいる。

 玄関から逃げることもできないし、アパートの二階から飛び降りるわけにもいかないよなぁ。

 そうこうするうちにカッ、カッと階段を上る音が近づいてくる。浴室からは鼻歌が聞こえてくる。ベートーヴェンの運命4楽章とかふざけやがって。

 がちゃり。

 僕はとっさに玄関に駆け込んだ。彼女、林舞はやしまいは扉を開け放ち仁王立ちして訝しげに僕を睨んでいる。

「なにしてたの?」

「昨日のサークルで飲み会に誘われてつい飲み過ぎて」

「ふーん」

「次からはちゃんと連絡します」

「この鼻歌なに?」

「え!? お隣さんじゃない?」

「じゃあこの靴は誰の!」

 失策。随分小さい女物の靴がちょこんと揃えて並べてあった。

「酔ってて覚えてないけど拾ったかなんかしたんじゃないですかね?」

「は? ふざけないで。 え、なに浮気、信じらんないんだけど」

「待って話を聞いて」

「カナヤンその人だれー?」

 のんびりとした声が後ろから聞こえ、振り返るとそこには水を滴らせた女が顔をのぞかせている。おそらく顔から下は全裸だ。

「死んだわ」

「ねぇあの子だれ、……説明してよ」

 静かな迫力で凄む舞に僕は頭が真っ白になった。口をパクパクさせていると後ろの空気読めない子が言い放った。

「あ、私今日からカナヤンを管理する野村っていいます、よろしくお願いします」

 ブチィ。

 それは聞こえなかったが聞こえた音だった。おそらく管理するという言葉が彼女の逆鱗に触れたのだろう。触れたというか千切ったに近いか。つまり独占欲が強い彼女をキレさせるには効果抜群だった。

 そしてそれからの映像はスローモーション。僕は彼女の腰の入った拳を左頬にくらい、なすすべなく吹っ飛ばされたのだった。

 壊れんばかりに扉を閉められ、耳がキーンとする中、痛みで僕は気を失った。




「あ、起きた」

 覗き込んでいる女の髪が顔にかかる。僕は抗議の目を彼女に向けるが意にも介さない様子だ。左頬を触られるが不思議と顔の痛みはない。腫れもないみたいだ。顔の真横には氷嚢があった。

「マエストロには綺麗なお顔でいてもらわないと」

 まぁそもそもお前がいなければこんなことには、とは思ったがもういろいろめんどくさいのでやめた。

「はい、お昼ご飯できてますよ」

 散らかしていたはずのテーブルは綺麗に片付けられ、美味しそうな食事が並んでいた。

「冷蔵庫の食材借りたけど、ちゃんと食事とってるの? 」

「余計なお世話」

「これも立派なインスペクターの仕事ですぅ」

 口を尖らせる野村。絶対違うと思うんだけど。

「二日酔いと顔の怪我に気を配った特製ランチだから、冷めないうちに食べて食べて」

 促されるまま、僕はお吸い物に口をつける。口の中は実はまだ痛んだ。しかし出汁のきいた優しい味わいと香草の香りが食欲のスイッチを押した。卵焼きはふんわりと甘い。お吸い物の出汁をこれにも使っているようで気品のある味だ。ご飯は口の中の状態を知っているのか、少し柔らかめに炊かれていた。なぜか自分が普段炊く米よりも美味く感じる。

「ふふふー、美味しそうに食べますね」

 ニマニマとした笑顔を見せる彼女を無視して僕は食事にがっついたのだった。




「さ、部活に行きますよ」

「は? 今日練習ないでしょ」

「本番一ヶ月前なので今週からは土曜の夜も練習あるんだ。パート練習だけだけど」

「それなら僕が行く意味ないんじゃ」

「そう思うかは行ってのお楽しみということで」

 よくわからないがとりあえず足を運ぶことにした。本来であれば付き合ってた彼女と出かける予定だったがそれはさっき無くなったし。

「報酬はでるんでしょうね?」

 無理やり常任指揮者になった僕から出した条件が報酬、つまり僕はギャラが出る。僕としてはバイト感覚なのだ。ちなみに一回出席二千円。

「うん、それはもちろん」

 彼女は立ち上がりながら言った。そこらへんはまるでビジネスのようなドライさがある。

「さ、行こっか」


 僕の家から大学までは徒歩十分とかからないが、学内で言われる音楽棟にはもう少し時間がかかる。部活ではオーケストラ部はもちろん、吹奏楽部、ジャズバンド、ロックバンドなど多種多様、さらに音楽学部のレッスンルームや小ホールも備えたカネのかかった場所である。こちとら教養学部の施設のボロさときたら悲しくなってくる。

 さておきその音楽棟に入れば土日だろうと様々な音が聞こえる。きっとオーケストラ部もパート練習に励んでいるだろう。

「……」

 部室にいたのはふたり。しかも音楽学部ではない、初心者の子が離れた距離でつたない音を立てている。全員が二日酔いで欠席にしたっていくらなんでも少なすぎだろう。

「これがこのオケの現状。本番前になってもみんな練習に来ない。初心者ほったらかし。これでいい音楽ができるわけがないって思わない?」

 この点において野村さんはオケの現状を憂いている側のまともな部類なのだろう。

「でも音楽学部の人たちは弾けるからなぁ」

「弾けるから普段の練習に来ないというのが問題なの。もちろんみんな音楽バカだから、やる気がないわけじゃないんだけど」

「でもさ、それに関して僕がすることがあるというの?」

「つまるところ、カナヤンにはこの現状を知った上でみんなをやる気にさせて欲しいというか」

「なんでそこまでしなくちゃいけないんだよ……」

 僕は嘆息した。

「でも契約書にも書いてあるし」

「は!?」

 ひらりと出された書類に目を通すとたしかに、小さな字で書いてある。

「そんなの読まないよ……」

 たかが部活だろうとこちらもたかをくくっていたのが悪いが、それにしても詐欺に遭った気分だ。

「ちなみに契約の違反には違約金が発生します」

「……」

 もう秒で逃げたくなった。

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