星を辿るひと(3)

 カラフルなサンゴやイソギンチャクの合間を縫って、銀のウロコを持つ小さな魚――再び地上に帰るのを待つ魂たちが、ゆったりと泳いでいる。彼らが少し動くたびに、白い光が砂地を照らし出しては揺らめいた。

 魚たちそれぞれが持つ光の強さは様々だが、それらは心地良く混ざり合い、海の底を浅瀬のように明るく見せていた。寒く暗いはずの深海には生息しないはずのサンゴの存在にも違和感を覚えないほどだ。もっとも、地上の法則なんてものはここでは通用しないのかもしれないが。

 鯨の傍らから深海を眺めていたイルカは、小さくクリックスを発した。しかし、やはり応えはない。ここでは、目に見えるものでも、実際にそこに存在しているとはいえないらしい。


『落ち着かないかい。ううん、最初はそういうものだよ。すぐに慣れるさ。ここは素敵な場所だろ? ちょっと、退屈ではあるけど、それも二人でいれば大丈夫……あっ、いけないよ! ここで寝ちゃダメだ、二度と自分を思い出せなくなるよ』


 ぼんやりとした眼差しで魚の群れを眺めていたイルカは、あわてて尾びれで水を蹴った。

 気を抜くとすぐに意識をさらわれそうになってしまう。ここにやってきたときと同じ、眠るような感覚に襲われるのだ。


『それも、仕方のないことなんだ。ぼくやあの魚たち、そしてきみの身体に宿っている光はね、全部かあさまのものなんだ。どんな奴でも、この柔らかくて優しい光を見ているだけで、いい気持ちになって眠ってしまうのさ』


 鯨は困ったようにそう言うと、にっと笑ってみせた。その口から七色の光がこぼれる。


『きみも、ここにくるまでにかあさまの声をきいたろ。かあさまは、ぼくたちよりももっと深い場所で、ぼくたちも地上もみいんな同じように見守ってくれているんだ』


 ――どんな罪深い命だって、かあさまは拒んだりしないよ。すべての命のお母さんなんだからね。


『だからって、人間まで受け入れるのは好くないなあ。人間なんて、悪い奴ばっかりだっていうのに。聞いたことあるかい、人間は昔、かあさまを捕まえようとしたことだってあるんだよ。それでもかあさまは人間を赦したのさ』


 誇らしげな鯨の横顔に、イルカは思わず動きを止めた。鯨の言葉が、自分とナオユキとのことを揶揄したものではないかと警戒してしまったのだ。

 一方のおしゃべり鯨は自分たちの母を讃えたいだけだったらしく、イルカが尾びれを止めたことにも気づくことなく、銀の魚影の隙間を抜けて悠々と泳いでいく。

 人間を好いていないらしいあの鯨の前で、“人間との約束を果たすために地上に帰りたい”などと口にしたら、一体どんな反応が返ってくるだろうか。少なくとも、喜ばれることはないだろう。手を貸してもらえるとも思えない。それならばいっそ、あえて詳しいことは伝えずに、鯨の退屈しのぎに付き合ってやった方が良さそうだ。


『ここにいる限り、どんな不安を抱えることもないし、どんな誘惑に悩まされることもない。この場所にいる者はみんな、最初からかあさまの光で心が満たされているからね。……あっ、きみは地上に帰りたいんだっけか』


 それまで勝手にしゃべり続けていた鯨が、何か思い出したようにイルカの方を振り返った。鯨は品定めでもするかのごとくイルカをじいっと見つめ、目を細める。


『ふうん、地上にねえ……そうだ、考えてごらんよ。本当にきみは地上に帰りたいのかい? おかしな意地を張っているのでも、なにかに、じゃなけりゃ誰かに縛られているのでもなくて? だとしたら、かわいそうな話だよね』


 生きていた時の記憶を捨てきれていない一部の者において、その思い出に縛られ、月の懐に身をゆだねることができないということが度々ある。生の荒波を越えて、ようやく来たるべき場所へ還ってきたというのに、その安息を享受できないというのは、傍から見れば悲劇と言うほかない。

 空の果ての底に閉じ込められた楽園で、ただ一つ地上に焦がれてやまなかった魂は、この時になってはじめて自らに問いかけた。

 ――死してなお、生への未練にとりつかれている私は、はたして不幸なのだろうか?


『あっ、見てごらんよ。ほうら、あれが人間だよ』


 行く手を指し示した鯨が、嬉々として声を上げる。

 そこにいたのは、イルカが見てきた中で最も小さな魚影の集まりだった。集まって身を寄せ合い、弱々しい光をどうにか補い合おうとしているが、その姿さえ、他の魂や鯨の輝きを前にすれば霞んで消えてしまいそうだ。

 ――あいつらはね、皆一様に、くすんで端の欠けた小さな貝になるのさ。

 鯨はくすくすと笑いながら、その魚の群れに向けてふうっと息を吹きかける。小さな魚たちはたちまち押し流され、周囲に散らばってしまった。


『きみも知っているだろうけどね、彼らは、自分たちがまるで世界の王様みたいに振舞うのが得意なんだ。自分たちの知らないものは存在しないものだなんて平気で言えちゃうんだもの、本当に馬鹿なのさ』


 イルカは“人間だったもの”たちがいそいそと群れを形成し直すのを見やりつつ、鯨の言葉をゆっくりと咀嚼した。

 人間は目に見えないものを恐れる生き物だときいたことがある。また、その手で触れられないものもまた、信じようとしないのだと。そんな彼らにとって、空の果てには海があるなどという途方もない話は、とても信じられるようなものではなかったはずだ。それがもし真理であっても、見えなければ、触れられなければ、ないのと変わらない――人間のそういった考えを、他の多くの生き物は傲慢だと言った。

 ただ、その真理を古くから語り継いできたイルカという生き物だけは、少し変わっていた。聡い彼らは、度々人間のような姿かたちをとっては浜に上がり、現れた人間に真理を語って聞かせた。当然、多くの人間は彼らをほら吹き扱いし、耳を傾けようとはしなかった。それでもイルカたちは語ることをやめなかった。

 世界の果てが海の底であること、死した魂たちの輝きが星であること、そしてその星たちがやがて、貝になって地上に還ってくること。悲しいほど傲慢な生き物に対する哀れみか、それとも、自分たちと似通った所を感じたのか――その理由は分からないにしても、海底を知る語り部たちは、人間の傍らで真実を語り続けてきたのだ。

 だからこそ、知っている。人間が、一つの種として語るのが難しいほどに多様な生き物であることを。真理に耳を傾け、並んで空を見上げようとする人間も存在することを。イルカはたまらなくなり、地上からは見えそうにない弱々しい輝きの群れをただただ目で追った。

 隣からイルカの横顔を覗き込んだ鯨が、驚いたように声を上げる。


『なんだい、その顔? もしかして、あれがかわいそうだと思うのかい。ちょっと待っておくれよ、あれは人間だよ。どうして人間なんかを慈しむのさ。ねえねえ誰かさん、きみはどこかおかしいよ、変だよ』


 鯨の心配そうな声も、もはやイルカの内には届かない。彼の脳裏に広がるのは、かつて一人の人間と共に見上げた星空だけだった。イルカは焦がれるように遠い水面を仰ぎ、目を閉じる。


『地上に帰りたいなんて、変わっていると思っていたけれど……さては、人間にたぶらかされたね?』


 そう言った鯨の声色は、これまでと打って変わってひどく冷たかった。鯨は、射抜くような視線まなざしでイルカを――いいや、イルカの心を蝕む“何か”を見据える。


『誰かさん、それは愚かだ。きみたちと違って、彼らの口は真実を語らない。もしきみを縛るものが彼らの言葉なら、やっぱりきみは間違っているよ!』


 ――ひどいやつらだ。尊い語り部であるきみの魂まで、かあさまから引き離そうとするなんて!

 鯨は声を荒げ、泣き出しそうな顔でイルカを諭した。海底にきてなお地上への未練に縛られ、しかもその原因が罪深き人間ときた。これほどの悲劇があってなるものか、と。


『忘れなよ、人間のことなんて。忘れさえすれば、ここで安らかに魂を癒せる。そうしてそのうち美しい貝になるんだ。素晴らしいことじゃないか! ねえ、誰かさんさあ!』


 鯨の尾びれがいらだたしげに海底を打ち、辺りに砂を舞わせる。鯨のその姿に、イルカはこの場所――世界の果ての理を垣間見た。

 この場所は穏やかで、誰もかもを受け入れる。だがそれも、自己の消滅という前提と、生前の行い、あるいは種による区別という法則のもとに成り立っているのだ。自己を持たない誰もにとって決して逆らえない確固たる規則が、この場所の静寂を支えている。

 そして、それを可能にしているものこそ……


『いいかい、誰かさん。きみがどうあがこうと、きみはかあさまの子なんだよ。ここに来た以上、赦されなければならないんだよ』


 この場所の全てに癒しと光を与える主――月。

 海の底を漂う幸せな魂の多くは、現在の安息とひきかえに何かを失ったことにすら気づかないまま、盲目的に彼女を母と慕っているのだろう。だが、イルカには分かった。月が母と称される、本当の所以が。


かあさまは、何をしでかした者にも、反対に何にもしなかった者にも、分け隔てなく光をくれる。優しく包み込んでくれる。だのにきみは、何が気に食わないっていうんだい?』


『……そこまで言うのなら、聞かせてほしい。君は何を失くした? その分け隔てない優しさを得るために、何を失った?』


 唐突なイルカの問いに、鯨は黙り込んでしまった。そして探るような目でイルカを見つめて少しの後、とうとう諦めたようにこう答えた。


『……何も失くしてなんていないさ』


『それなら、きき方を変えよう。君は今、本当に幸せかい。明日も明後日も……明確な時の流れがないなら“これから”も、変わらずこうであればいいと、心から思えるかい』


『何を。そんなのは当たり前じゃないか。だってここは……』


 鯨の言葉が途切れた。鯨はきょろきょろと辺りを見回し、再びイルカの方を見やる。その面持ちは、ひどく不安げだった。周囲を包み込む月の気配に、心地良いはずのその匂いに、周囲の水が急に冷えたような感覚を覚えたのだ。

 イルカは、怯える鯨をまっすぐに見据え、こう問いかけた。


『“かのじょ”は――』

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