星を辿るひと(2)

 昼も夜もない海の底。ざらついた砂原が白い光を放ち、辺りを薄らに照らし出している。何もかもが寝静まった真夜中のような静けさの中に、七色の光がぼんやりと浮かび上がった。かと思えば、その光は大きくたわんで水を蹴り、水の間を抜けては軌跡を連ねていくではないか。

 ぶわりと舞い上がった砂をかき分けてようやく姿を露わにしたそれは、どうやら鯨であるようだった。それも、体の隅から隅までを眩い光に包まれた、大きな鯨だ。

 鯨は尾びれで水を打っては巨体を器用にひねり、海底の砂と、時には通りがかった魚影と戯れる。遊んでいるようだが、楽しんでいる、というよりは暇つぶしに近いのだろう、その顔はあくまで浮かなかった。

 そんな鯨の視界の端で、ふと何かが動く。自身の眩しさのせいで危うく見過ごしてしまいそうな鯨だったが、あわてて目をしばたたき、その何かの影を追った。

 ――他の、どれも似たような姿をした魂たちとは違う。はっきりとそれ自身の形を持った、めずらしい魂だ。あの形は見たことがある……イルカ、そう、イルカってやつだ。しかも、何やら考え込んでいる様子からすると、多分、まだ自我を持っているに違いない。


 生前の姿を保ったまま海底まで下りてくる魂はそう多くない。その中でも記憶を持ち、自我を保っている者がどれほど少ないことか。数十万年をここで過ごしているこの鯨でも、そういった魂に出会ったのは数えられるほどだった。とはいえ、魂全てが等しく身を休められる、世界の胎盤ともいうべき海底において、数字なんてものは何の意味も持たないのだが。

 鯨は彼に興味をひかれ、その身をちかちかと瞬かせた。


『そこの誰かさん。誰だっていいけど、ぼくの話相手になっておくれよ。ねえねえ誰かさん。どうして黙っているんだい』


 鯨がどんなに声をかけ、身体を光らせても、イルカはぼうっとどこかを見つめているばかり。鯨はむっとして、くるくるとイルカの周りを泳ぎ回りはじめた。

 鯨自身と同じように会話のできる相手が現れるのは、良くても三千年に一度のことだ。ここはどんな魂も受け入れる不変の楽園ではあったが、己を知る魂からすれば、退屈であるばかりだった。何千年越しでようやく現れた話し相手なのだから、中身がどうであろうと、あっさり諦めるわけにはいかない。


『そんなんじゃあ素敵な貝にはなれないよ。かあさまはみんなに優しくっても、しっかり順番をつけているんだからね。美しい貝になりたかったら、ぼくとお話するんだ。いいかい、誰かさん』


 鯨はそう言って、黙りこんだままのイルカをひと睨みした。

 一度海底にやってきた魂たちはそのうち、生前の行いに応じて順序をつけられ、地上の暦で一年に一度、流星群の日になれば地上へと帰っていく。生きているうちに善い行いをした者は美しい貝に、そうでないものは醜い貝になって、その身がすり減り果てるまで地上を漂うのだ。

 貝としての第二の生を迎える上で、美しい姿を手にいれることは、全ての魂にとって最高の栄誉だった。

 それなのに、目の前のイルカは、鯨のこの言葉にも何の反応も返さない。美しい貝になりたくない魂なんているはずがないだろうに、どうも反応が薄いのだ。

 どこか上の空のイルカにも、鯨はめげずに声をかけ続ける。


『もしかして、地上に未練があるのかい? 大丈夫、すぐに帰れるさ。だから、ちょっとだけぼくと話してよ。そうすれば、美しい貝になれる方法を教えてあげる。とびっきり、誰よりもきれいな貝にして地上に帰してあげるよ。本当だよ』


 ――ねえ、ぼくと話そうよ。素敵な貝になりたいだろ? 素敵な貝になって地上に帰りたいだろ? 普通なら何百年もかかるところだけど、特別に何十年かで帰してあげるから、ねえってば。

 鯨はイルカの周囲を鬱陶しく泳ぎ回り、どうにかイルカの口から言葉を引き出そうとした。

 そうしてしばらく、イルカがふと口を開く。しかし、彼の口からこぼれた言葉は、鯨が期待していたものではなかった。


『……何十年。それじゃ、遅すぎる。帰らなくちゃいけないんだ。今すぐにでも』


 イルカのその言葉に、鯨は不機嫌そうに海底の砂に腹をこすりつけた。長い退屈を越えて、やっと現れた客人だというのに、気のないそぶりをされてはたまらない。


『ダメだよ。そんなのつまらないじゃないか。どうせすぐには帰れないんだから、ぼくとお話ししていようよ。いくら焦っても、今すぐ帰ることなんてできないんだよ』


 鯨がそう言うと、イルカは再び黙り込んでしまった。何か考え込んでいるのかもしれない。そして、やはり口を開かないまま、鯨に尾びれを向けて泳ぎ去ろうとする。

 鯨はとうとう腹を立てて、イルカの邪魔をするように、彼の目の前にすべりこんだ。


『あのねえ、意地悪言ってるんじゃないんだ。きみはねえ、死んじゃったんだよ。自分でももう分かってるんだろ? 死んじゃった魂がそのまま地上に帰るのはルール違反なの、分かる? 皆、ちゃんと手続きを踏んで、この場所で魂を洗って、長い時間を経てようやく貝になれるんだ』


 ――ぼくやきみのように、自我を保ったままの魂もめずらしいんだけどね。きみにも、この先ちょっと長めの退屈が待ってるんだからさ、一緒におしゃべりでもしてしのごうよ。ぼくの話相手がきみしかいないように、きみと話せる相手だってぼくくらいしかいないんだからさ。

 軽薄な調子ではあるものの、鯨の言葉に嘘偽りはなかった。口が急いているのは、イルカが本当に相手にしてくれないのではと思いはじめているからだろう。

 鯨の必死さに気がついたのか、イルカはこの時になって初めて鯨の姿をまっすぐに見た。

 ここにいるどの魚よりも強く輝く表皮に、ときおりくるりと光を泳がせる真っ黒な眼。ひげの隙間からこぼれる色とりどりの光が、周囲をぼんやりと照らし出している。なるほど、地上からでもあれほどはっきりと見えた鯨の姿は、近くで見るとさらに眩く、美しかった。


『君――鯨の星は、地上から見ると、すごく輝いて見えた。けれど、あまりに遠すぎて……こうしてここにやってこなければ、君がそんな風に鮮やかに光ることにも気づかなかっただろう』


 イルカの意図を計りかねた鯨が、不思議そうに目をしばたたく。


『どういうことだい? つまりきみは、ぼくとおしゃべりをするのかい?』


 イルカは鯨の言葉にはあえて答えずに、そのわきをすり抜け、すいと泳ぎだした。そして、不安そうにまなこの輝きを曇らせた鯨に向け、手招きをするように尾びれを軽く振ってみせる。

 それを見た鯨は喜びに大きく水を吸い込み、すぐさまイルカの隣へと泳いでいった。

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