清夏(9)

 思い出したすべてを記し終え、少年――佐伯は、ペンを置いた。

 埋められた原稿用紙の束は、もうずいぶんな厚みになっていた。というのも、最初の一枚を書き終え、その一枚が入っていた引き出しを開けてみると、次の一枚が佐伯を待っていたのだ。佐伯は戸惑ったが、ペンの先から勝手に流れ出ていく文字たちを書き綴り続けた。この部屋で目を覚ましてからはだいぶ時間が経ったようにも思われるが、佐伯の体には、空腹感もなければ睡魔も現れず、疲れもない。それがどういうことか、何もかも書き終えた佐伯にはわかっていた。

 最期のときの記憶は、水でぬれたようにぼやけている。シンクに横たわっていた包丁の白さと、首に感じた熱い不快感を覚えているきりだ。首筋に手をやると、耳の下からのどのあたりにかけて、ひと筋の厚いかさぶたが走っているのがわかった。触れた佐伯自身の肌からは、体温も、心拍も感じられなかった。

 佐伯は、〈お母さん〉と言ってみた。佐伯が最後に見たのは、傷ついた彼女の背中だった。母親は、血まみれの遺体に、どんな言葉をかけただろうか。佐伯は罪悪感を覚えると同時に、もう隠しごとをしなくていいのだと、心が楽になるのも感じていた。

 佐伯は、幅のある木箱のほうを見やった。今なら、それが何のために置かれているのかもわかる。妙に切なくなった佐伯が〈嵯峨先生〉とつぶやくと、何かが引っかかっていた引き出しの中で、かたりと音がした。取っ手を引いてみると、引き出しは簡単に開いた。中には、白い封筒がひとつ、横たわっていた。その裏面に嵯峨の名前を見つけた佐伯は、震える手で封を切り、収められていた数枚にわたる紙束――手紙を開く。


 佐伯が亡くなったことを小宮から知らされ、葬儀に参列しようとしたが、佐伯の母親に門前払いを食らったこと。この手紙を書いている今でも墓前に参ることができず、ただ墓地のベンチから佐伯の墓を見つめていること。そして、あの日、具合を悪くして病院に行っていたため、電話に出られなかったこと。感情を押し殺したような文面だったが、文字の端に残る液だまりが、嵯峨の思いを表していた。〈本当なら、二十歳になった少年へ〉――手紙は、そう締めくくられていた。

 佐伯は、ただ黙り込んでいた。嵯峨はどんな心持ちでこれを書いたのだろうか。佐伯にとっての嵯峨は、どこか遠くの世界にいる人だった。佐伯とは別の感性をもって、別のものを見つめている人だった。彼の考えていることなど想像しようと思ったこともなく、手紙の中にあるような嵯峨の姿も、佐伯は知らなかった。

 佐伯は、手紙を握って立ち上がった。あの青い庭に、静かな宅に、行かなければならないと思った。二人でいるうちは問わず問われずの関係が心地よかったはずなのに、今は、嵯峨に伝えなければならないことが、嵯峨に聞かなければならないことがたくさんあった。けれども、四方は壁に閉ざされている。佐伯はもうどこにも行けなかった。この狭い部屋だけが、彼に残されたすべてだった。〈嵯峨先生〉と、佐伯はもう一度、宙に呼びかけた。返事はなかった。


 佐伯は手紙を手に、幅広の木箱に歩み寄り、そのふたをずらす。すると、空だと思っていた木箱の中から、黒猫が顔を出した。猫は木箱から飛び出すと、畳の上に何かを吐き出した。死んだ金魚だった。佐伯は、〈そうか〉と、かすれた声でつぶやいた。

 佐伯は金魚の話を書いた。彼自身もよく知らない金魚の話を、とびきり美しく書いた。それが、佐伯の中にあった〈金魚〉の墓になった。佐伯は原稿用紙の束を見下ろした。そこにあったのは、他の誰にもわからなかった、彼の心の墓だった。心に姿があったなら、誰かが佐伯の心の墓を作ったかもしれない。だが、佐伯の心は、体の死とともに消えてしまった。だから佐伯はこうして、誰かに届くこともない墓標を立てた。自分の心を葬るために。くすぶっていた思いが、すっかり燃えがらになるのを見届けるために。

 これが終われば、きっと、今ここにいる佐伯は消えてなくなる。佐伯の心は、猫に持ち去られた金魚のように、行方もしれないところに流れていく。あるいは、どこかでとどまるのかもしれない。それすらも佐伯にはわからず、どうすることもできそうになかった。


 佐伯は、死んだ金魚を拾い上げた。そして、木箱のふたをずらすと、手紙と金魚を胸に抱いて、その中に身をすべらせた。ふと、猫が木箱のふちに前足をかけて、木箱の中を覗きこんでくる。その姿は、ちょうど、金魚鉢を引き倒したときのそれに似ていた。

 〈見送りに来てくれたんだね。それとも、僕を食べに?〉。佐伯がそう言うと、猫はおもしろがるようにひと声鳴いてから、棺のふちから前足を離し、見えなくなった。佐伯は、くすくすと笑いながら、棺のふたを引き上げる。ふたは、案外軽かった。

 佐伯は最後に、〈そうです〉とつぶやいた。部屋を揺らしていた鼓動が、少しずつ弱まっていくのが感じられた。

 棺の中には暗闇があった。ただはてしない暗闇があった。

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