星を辿るひと

星を辿るひと(1)

※英語版はこちら:http://selftaughtjapanese.com/japanese-fiction-translation-final-days-of-summer-by-masaki-hashiba-table-of-contents/(Locksleyu様)


――


 ――見上げた空の向こう、宇宙の果てを目指せば、いつかは海底に辿りつくだろう。

 “世界の果て”と呼ばれるそれの正体は、この世界を覆う海だ。この地球に生きる全ての生命はいずれ身体を捨て、魂となり、かの海へと還っていく。

 美しく輝く鱗とひれを手に入れた彼らの姿は、遠く地上からでも垣間見ることができる。遥か波間をかき分けて輝く星の一つ一つが、彼らの魚影なのだ。


 そして今また、地上から放たれた一つの魂が、戸惑いながらも海の底を目指していた。その姿は今にも溶け出しそうに霞んでいるものの、それでも確かにイルカの形をしている。

 真っ暗な水に閉ざされた世界の中、彼――とここでは呼んでおく――は何度かクリックスを発したが、応答はない。底はまだ遠いのか、そもそも底など存在しないのか……どちらにせよ、闇は深かった。

 微睡み以上の休息を知らなかった体が、溶けるような感覚に包まれていく。あるいは、これが眠りというものなのかもしれない……そう思った彼は泳ぐのをやめ、水が命じるままに沈みだした。眠りは彼を優しく包み込み、その身体をさらなる深みへと引きずり込んでいく。

 ここがどこなのか、自分が今どうしてここにいるのか、なぜ海底を目指すのか。何ひとつ分からないというのに、答えを求めようとしても、思考はすぐに根から溶けだしてしまう。何かがおかしいと気がついていながら、何もわからずただ沈んでいくこの状態が、なぜだか何より心地良く思える。

 ――このまま、どこへ向かっていくのだろう。海底には何があるのだろう。


《おかえり、愛しい子。ゆっくりおやすみ》


 かすかな問いに応じたその“声”が、彼には妙に懐かしく感じられた。彼の脳裏を、月の光が水面を柔らかく照らし出す情景がよぎる。

 その輝きが、眠りかけていた意識を覚醒させた。


 ――私は、水面の向こうに空があることを知っている。そこに月が宿ることを知っている。騒音に満ちた、さざ波立つ世界を覚えている。私が……そう、私がこれまで“生きていた”ことも。かつてひとりの人間と交わした、二つの約束のことも。


 彼の尾びれが、沈んでたまるかとばかりに強かに水を蹴った。暗く静かだった世界が音をたてて揺らぐ。危うく溶かされようとしていた“個”が記憶を得て輪郭を取り戻していく中、彼は突き動かされるままに身をよじり、ひたすらに抗った。

 海の底で待つだろう安らかな眠りに、さらには、自らが死したのだという事実にさえ。


 ――ナオユキ。君は、私が語った真理を信じた、たった一人の人間だった。君自身の“また来年、会おう”という言葉を、私の“待っているよ”という答えを、君はもう忘れてしまっただろう。けれど、私はちゃんと覚えている。もう何度も繰り返したこのやりとりは、私にとって、どんな美しい貝よりも大切な宝物だったのだから。

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