残夏

ハシバ柾

星を待つひと

星を待つひと(1)

※英語版はこちら:http://selftaughtjapanese.com/japanese-fiction-translation-final-days-of-summer-by-masaki-hashiba-table-of-contents/(Locksleyu様)


――


 もう十何年ぶりになるだろうか、この海岸を訪れるのは。

 今の会社に勤めること八年。ようやく自分の企画が認められたことを、ただ喜んでいた。プロジェクトリーダーとして負った重責も気にならないほどに。だが、私の身体は私が望むほど強くはなかったらしい。度重なる残業、徹夜を重ねたツケか、疲労のあまりに会議中に意識を失い、倒れてしまった。その結果が、この突然の夏季休暇だ。

 失望されたに違いない。きっと、あの企画からも外される――そう思うと、何もかもどうでもよくなってしまった。悔しいというよりも、虚しさにどっぷりと胸まで浸かってしまったようだ。

 会社から離れてからは、少しの外出で、スーツ姿のサラリーマンを見るたびに苦しくなった。ここでは、心も体も休めそうにない――そう悟った私は、数時間のフライトを経て、自分が生まれた集落に帰ってきた。悪く言えば、社会から逃げ出したのだった。

 私の故郷は、『自然がきれいな海近の集落』、もとい『何もないど田舎』だ。スーパーマーケットなんてものは当然ながらあるわけもなく、車で15分程度のコンビニエンスストアのありがたみに涙が出そうになる。夜は早いうちからすべての明かりが消え、葉擦れの音と鳥の鳴き声だけが満ち満ちる。そして朝も、早いうちから起き出したお年寄りが、井戸端会議やら畑作業やらを始める……どこにでもあるような田舎を体現したような、そんな場所だ。

 忙しない都会での生活に慣れていた私は、帰省して早々、時間を持て余していた。そこでふと、昔よく遊んでいた海岸のことが脳裏をよぎる。たしか、ごつごつした岩に囲まれた、小さな浜で……そうそう、たくさんの貝が転がっていた。よくそれを拾いに行ったものだ。

 行ってみようか、あの海岸に。

 思いついてからは早かった。

 子供の足で行ける距離だ。当然、今の私にはそれほど苦にもならない。幼いころの記憶をたどり、あの海岸を探す。夕闇の道を行くうちに、不思議とそれまでの倦怠感は消え、心は高揚していた。

 海岸は、私が覚えているその姿のまま、変わらずそこにあった。大きな岩山に囲まれるようにして浮かぶ砂浜に、それを彩る色とりどりの貝……変わっていない。私が大きくなったからだろうか、思い出の中以上に小さく見える以外に、何ひとつ変わっていない。

 大人になる最中に、見知った景色の面影たちは、私の周囲から消え去ってしまっていた。いいや、消え去ってしまったと思っていた。この海岸を見るまでは。私がこれほど変わってしまっても、この場所は、まったく昔のままだ。それがどうも、私を待っていてくれたかのように思えて、やけに嬉しくなってしまう。

 胸の高鳴りをおさえきれず、スニーカーと靴下をその場に脱ぎ捨てると、冷たい海水に足を浸した。私の足踏みに応えるように、水面には波紋が広がり、はねた水がズボンの裾を濡らしていく。胸の奥から込み上げてくる純粋な喜びは、笑い声となってあふれ出した。

 気持ちがいい。水がはね、滴る音が心地いい。

「っぷし!」

 ――くしゃみ?

 夢中で水をかいていた私は、あわてて辺りを見回した。そこではじめて、岩陰に一人の男が座り込んでいるのに気付いて、顔が熱くなる。いい大人が夜の海で水遊びしながら大笑いしている姿を、まさか、人に見られてしまうなんて。あわてて水から足を上げ、スニーカーと靴下を拾い上げる。

 今はとにかく、早くこの場を立ち去りたい。だが、もし男が、先ほどまでの私の様子を他人に言いふらしてしまったら――脳裏をよぎったその不安が、私を引き止めた。考えあぐねた私は、早足で男の方へ歩み寄り、彼の隣に腰を下ろす。

「隣、失礼するよ」

「どうぞ」

 男はこちらを見もしないまま、軽く応じる。彼はそれきり何を言うでもなく、星の散らばる空を、じっと見つめているだけだ。私のあんな姿を見て『引いた』だろうに、私を笑うわけでもなく、距離をとるわけでもなく……。

 訝しく思った私は、不躾だとわかっていながらも、男をまじまじと見た。そこでようやく、彼がずいぶん奇妙な見てくれをしていることに気がついたのだった。

 肩のあたりまで伸びた、灰色にくすんだ茶髪。細い体をゆったりと包む、分厚く、広い袖の外套。そのすそから伸びた裸足は、薄く砂をまとっている。どこをとっても、季節感どころか現実味すら感じられない彼の姿は、私のささやかな好奇心をくすぐった。 

「あの……あなたは、ここで何を?」

「星を待っているんだ」

 星を……? 男が六日後の流星群のことを言っているのだと気付くには、ずいぶん時間がかかった。言われてみれば、今朝、近所のお年寄りがそういう話をしていたような気もする。今の今まで、すっかり忘れていたが。

 この辺りでは、年に一度、流星群を見ることができる。私の生まれた集落では、その時期に合わせて、星祭りが催されていた。もちろん私も、昔はこの祭りに参加していた。行かなくなったのはどうしてだったか。……そう、確か、そのときにしか食べられない特別なごちそうが、どうにも苦手になってしまったんだった。

 ともかく、流星群が見られるのは六日も後の話だ。

「あいにくだけど、流星群は六日後だよ。今夜待っていても……」

「知っているよ。イルカは七日前から流星群を待つんだ」

 男はこちらに視線を向けもせず、短く答える。イルカ? 何を言っているんだ? 問い返したかったが、確信に満ちた彼の横顔に、私はなにも言えなくなってしまった。とはいえ、男の視線を追ってみても、ただ、星空が広がっているだけだ。人の作った明かりの中では、すぐに埋もれて見えなくなってしまう、かすかな光。

 ふと、男が口を開く。

「さっきの君、とても輝いていたよ。おかげで私もなんだか幸せだ。よければ、名を聞かせてくれないか」

 輝いていた、だって? はじめは嫌味だろうかとも思ったが、男の浮かべる屈託のない笑みに、警戒心が優しくほどかれていく。

 やはり、この男はどこか変だ。それなのに、彼の隣は妙に居心地がいい。

「……直行。素直の直に、行くって書いて、直行」

「ナオユキか。……ナオユキだって? 君は、ナオユキというのか?」

「そうだけど、何か?」

 問い返すと、男は何か言いたげながらも口をつぐむ。男はしばらく黙り込んでいたが、やがて、くすくすと笑いながらこう言った。

「ふふ、そうか。君は『ナオユキ』なのか。……私はナナシ。好きに呼んでくれてかまわないけれど、この名前が一番気に入っているんだ」

 ナナシ――『名無し』、だろうか? それに、私の名前のどこが気になったのだろう。問い返す前に、彼の注意は私から外されてしまった。

 男――ナナシはどことなく謎めいているが、その態度には毒がない。それにつられて私も、彼の素性や事情など、気にならなくなってしまった。それに、彼が何者であれ、こうして並んで星を見るのは、悪い気分ではなかった。

「ナナシ。あなたは星を待つんだと言っていたけど……明日もここにいるのか?」

「いるよ。明日も明後日も明々後日も、流星群を見るまでは、ずっと」

 まるで、流星群の日まではずっとここに留まり続けるかのような言いように、私は笑ってしまった。もちろん彼が言いたいのは、毎晩ここを訪れるのだということだろう。

 また明日も、彼は変わらずここにいる。またこうして、並んで星を見ることができる。そう思うだけで、なぜだか少しほっとした。素性を明かさなかったせいか、男がするりと逃げ消えてしまいそうに思えていたのだが、見つけたばかりの居心地のいい場所にもう少し浸っていられることがわかって、嬉しかった。

 私はナナシにまた明日もここに来ると告げ、スニーカーと靴下を両手に、帰り道を裸足で駆けた。足の裏の擦り傷よりも、明日の夜空のことが気になって仕方がなかった。

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