第50話 destroyer

体が、千切れそうだ。

それが最初に感じた感覚だった。

回し蹴りをされたのだろうか。

目の端に映ったのは長い脚を自身の頭の辺りまで振り抜いて残心しているクリーム色の髪にオッドアイ男だ。

それを認識したと同時にくらいに体が重力に引かれ、落ちていく。

嫌にゆっくりな浮遊体験だった。

硬い地面に何度かバウンドして、呻く。

視界が明滅して、呼吸が上手くできない。

さらにそんな状態の遊の首根っこを掴んで壁に叩きつける男。

首に絡みつく指が外れない。

愉悦に歪む男の顔が上手く見えない。

憎たらしい程、しっかりと、強烈に喉元を締めてくる。

そこに子供だからという手加減は見られない。

もがけばもがく程に、締め付ける力は強くなっていく。

夢の筈なのに苦しい。

この苦しみはきっと絶望の大きさを表しているのだ。

この出来事を恐れれば恐れるほど苦しみは増してゆく。

絶望すればするほど、意識は容易く落ちる。

苦しければ苦しいほど、意識は希薄になっていく。


「惜しかったなァ!後少ぉし速けりゃ、俺様に一撃加えられたのによぉ。悪いな、俺様天才なんで。不意打ちも防いじまうんだよなぁ」

「———ぁッ!」


釣り上げられた魚のように空気を求めて喘ぐ。

口の端からよだれが垂れ、瞳は涙ぐむ。

現実では、この先で屈してしまったはずだ。

千佳が連れ去られたことに絶望して、意識を閉ざした筈だ。

──いや、そうだったか?

千佳が連れ去られるかどうか以前にこんな男に絞め落とされてたまるか。

そして何より、二度もそんな過ちを犯すことが出来るだろうか。

いいや、できない。

死にたくないという願望と同時に、忽焉として湧いてくる衝動に身を任せる。

その衝動を抑える術も遊は持っていない。

暗く、狭くなりつつある視界にむかつく顔を捉えて。

自らの宙ぶらりんになっている足を男の肘に向けて蹴り上げた。

見事、その蹴りは肘に命中し、鈍い音が鳴る。

如何に子供の筋力とはいえ、脚で腕を本来曲がらない方向に押されたらひとたまりもない。


「———ガッ!!」


凡そ成人男性とは思えぬ、苦悶を押し殺した嗄れた声と同時に体が地面に落ちる。

遊は背からろくに受け身も取れずに落ちた為、ただでさえ少なかった空気が肺から出ていく。

遊は求めていた空気に喘ぎ、咳き込む。

千佳が安堵の溜息を漏らすのを両者とも聞き取る。


「うえっ、ゲホ、えほ、がぁ」

「こんの、クソガキがァ!」


男は蹴られたあたりを擦りながら遊を睨めつけてくる。

年端もいかぬ一般人に牙を剥かれたのがそんなに気に食わないのか、目は怒りで染まり、思考は冷静さを欠いている。

窮鼠は猫を噛んだ。

どうやら骨を折るまでには至らなかったようだが、危機は脱した。

しかしここまでが幸運だっただけで、他に打開策は無い。

持ち札もある訳では無い。

無いものは使えないから、存在しない風呂敷で物は包めなから、あとは己の幸運をただ信じるのみ。

千佳の瞳をちらりと見て、安心させる。


「何故、千佳を攫う?」

「あぁ!?知るかよ!上からの命令だ!でも、それに追加してよォ!てめぇを痛めつけて苦しめてから殺さねぇとなぁ!俺様の腹の虫が治まらねぇぇぇぇんだよぉぉぉ!」

「来いよ三下!」

「ぶっ殺ォォス!」


相手を煽ってみたはいいものの、遊はただの一般人。

特別な力も、このような状況で覚醒するような力も、血筋も当然の如く無い。

だからこそ、自分の思い通りに行かないことに犯人は憤っている訳だが。

冷静さを著しく欠いた状態であるとはいえ、相手の方がガタイは良く、戦闘の経験もあり、魔法なんて摩訶不思議なものも扱えるし、何より荒事に慣れている。

だから、煽りを繰り返しながら逃げに徹する。

すばしっこい動きでそこら中を駆け回る。

掴もうとしてくる手をすんでのところで躱し、逃げ回る。

あっちへこっちへ。


「ア゙ア゙ア゙ア゙ア゙!!うぜェ!最高にムカつくガキだぜ!ちょこまかと逃げてねぇで向かってこいよ雑魚がァ!」

「オイどうしたノロマ!そんな文句、煽りとしては三流もいい所だぞ!どうやら足だけじゃなくて頭の回転も遅いみたいだなこの馬鹿!」


放たれる小規模な炎や、蹴りが頬や背を掠める感覚に冷や汗を流しながらも、綱渡りを着実にこなしていく遊。

逃げ回る途中、奇襲を失敗した時に落とした鉄パイプを床から拾い上げて最低限戦える武器を調達する。

いくらなんでもこのまま逃げ切れるわけが無いし、まず遊のスタミナが尽きる。

この殺戮ショーの終わりも見えない。

男を何とか倒せば合格点。

次点で見回っているはずの牧野や、警察が来れば勝利は五分。

今よりはずっとマシになるだろう。

だから、それまで時間を稼ぎつつ隙を伺う。

疾走する遊の目の前に火球が着弾し、遊は緊急停止を余儀なくされる。


「うおっ!」

「はっ!死ねクソガキィ!」


後ろを追いかけて来ている男の蹴りが遊の側頭部辺りに繰り出された。

遊は咄嗟に持っていた鉄パイプを振り抜くが。


「かかったな!アホがァァ!」


背後から聞こえてくる声にゾワリとしたものを覚え、遊は辺りを見回す。

すると遊の背後に瓜二つの男がいた。

蹴りを繰り出していた男の全身が煙のように消え失せ、遊は何も無い空間に鉄パイプを全力で空ぶった。

体が重さに泳ぐ。

悪寒が体を這い回る。


「──やべっ!」


咄嗟に漏れ出した言葉に、引き裂かれたような笑みを浮かべる男が背後にいて。

男の手のひらは病んだかのような濃い翠色に輝いている。

それがどんな効果をもたらすのか遊にはわからないが、生命が危険だと警鐘を鳴らす。

しかし、その警鐘ももう遅い。

命はその病んだ鎌に刈り取られる。










──はずだった。

轟音を奏でて、工場の壁が破壊された。

光が差し込んで、思わず誰もが静止する。

千佳も、遊も、そして男も呆気に取られた。

そして、光の中から出てくる影が一つ。


「なんや、えらい温い球やと思ったら、ヘナチョコが撃ってたんかいな」

「んだと!?」

「三下と撃ち合っていたとか…凹んでまうわ」

「てめぇ…さっきの雑魚がァ!舐めた口聞いてると殺すぞ!」

「弱い者ほどよく吠えるって言葉、知らんのか?」

「うるせぇぇぇぇ!俺様は天才だ!こんなガキや雑魚に負けて良いはずがねぇ!」


男の注意が遊から逸れた。

これは偶然と言うよりは、牧野の策だろう。

先程からの言動から、激昴しやすいプライドが高い人物とアタリをつけて、わざと煽ることを繰り返す。

遊がした事と同じだ。

それに、遊がやるよりも何倍も長続きする。

その事を鋭敏に察した遊はその隙を突いて未だに惚けている千佳の手をとって錆び付いた手すりの階段を駆け上がる。

男は余程、馬鹿にされたのが気に食わないのか遊の方に見向きもしない。

ただ、気に食わない相手を睨みつける。

それを利用して、牧野は二人を逃がすつもりだろう。


(ありがとう、組長!)


心の中で感謝を述べながら、必死に出口を探す。

その間にも、二人の運命を左右する攻防は続く。

牧野の放った風の弾丸が浅く、男の頬を切り裂けば怪鳥の叫びのようななにかと共に、鋭い不可視の刃が突き出される。

それを己の直感のみで牧野は躱す。

紙一重の攻防。

掠りでもすれば大怪我では済まないような威力。

こんな状況に身を置くとは狂気の沙汰だ。

お返しとばかりに風の刃が乱れ打ちされれば、全てを灰燼に還す焔が辺りを焼く。

両者とも神がかり的な腕前で脅威を排除していく。

風の弾丸が、水の穂先が、炎の掌底が、光の螺旋が、闇の射手が、周囲に鬼哭啾啾たる破壊痕を残す。

その様は圧巻でまさに地縛霊ですら逃げ出すであろう破壊の化身だった。


「オラッ!オラッ!オラオラオラオラァ!」

「どうした?その程度なんか?」

「ほざけ、雑魚が!」


徐々に男は冷静さを取り戻し、牧野の目論見がいつ崩壊するか分からなくなる。

一刻も早く避難させねばという思いと、一秒でも長くこの戦いをもたせないとという板挟みの思いを燃料に、決死の決意を固くする。

よりいっそう闘いは激しくなる。

閃光が、紅の障壁が、碧の渦が、翠の岩石が、紫の巨槌が、黒の旋風が辺りを喰い尽くす。

元々鬼哭啾啾めいた破壊痕は、もはや何も残っていなかった。

一般人がいたらひとたまりもないだろう現状を作り出した二人は変わらず、原型を留めていた。

少し、埃や血が服に滲んでいるくらいだろうか。

疲労を全く感じさせない動きでなお、衝突が起こる。

舞踏のように、演舞のように、いっそ息の合った動きで撃ち合う。

一合、二合、三合、永遠に続くかと思われたその撃ち合いも。

演じるのが機械ではなく人間であるが故に、呆気なく終わってしまう。

一度描いた軌跡を寸分違わず描くことは難しい。

爆風に足を取られ、牧野がよろけると、好機とばかりに男が突っ込んでいく。


「死ね!老いぼれ雑魚がぁぁ!」


男の不可視の刃を纏った右手が牧野の心臓を突き貫こうとしたその刹那。

男の——仁村の認識は加速する。

思考がとてつもなく速くなる。

その加速された思考で考えるのは、過去の事。

幼い時にごみ溜めのような屑の吹き溜まりに捨てられ、酷く醜い競争社会を勝ち抜いて来た記憶。

その栄誉と、自身に対する揺るぎない自信。

己の才覚を肯定するような過去。


(走馬燈…か?)


何故、今頃過去を観るのだろう。

何故、世界がスローになるのだろう。

何故、こんなデジャブを感じるのだろう。


(デジャブ…?いいや、違うこれは…!


感じたデジャブは、現実になる。

上を見上げれば、降ってくる人影。

その手にはなんの変哲もないような鉄パイプ。

そのパイプが、空中に描くラインが。

仁村の頭目がけて振り下ろされる。

牧野に気を取られ、全力で突っ走った仁村に防ぐ術は———ない!

そうして、あるべき事かのように、必然に、頭に直撃クリティカルヒット

ゴガンッ!というおよそ肉があげるとは思えないような音を立てて、仁村は牧野の横を転がっていく。

ドダンッという音が辺りに響く。


「ッッッ!いってぇ」


壊された扉から射す光が仁村の血だらけの頭部を照らす。

転がっていた仁村は何も喋らない。

対して遊は痛みに悶絶している。

それは、その言葉は、その無言は、紛れもない勝利の凱旋であった。


「2階から…飛び降りるんじゃなかった…。足痛い…」


腑抜けた事を言う遊にのそり、のそりと近づいてきた牧野は、遊の足を軽く診断みると、呆れたように零す。


「んなアホな事すんのは坊主くらいや。ようあの高さから落ちてきて無事やったなぁ。まぁ、ありがとうな」

「なんとかね。あぁ、あとどういたしまして。というかこちらこそ助けてくれてありがとう」

「ま、何とかなったな」

「そうだね。…千佳を連れて帰ろう」

「そうやな」


二人は上を見上げる。


「…──ッ!」

「なっ!」


そこには、黒いコートと山羊ヤギをモチーフにしたようなハーフマスクを付けた人が居た。

そしてもう一人、黒いコートを翻して、今にも窓から出ようとする人影もあった。

その手には昏倒した千佳が抱えられていた。


「ほう、奴を倒した、か。中々やるな」

「…誰だ!?」


遊の叫びにハーフマスクが答える。


「俺か?俺はアイツの仲間さ。魔導犯罪組織『オルトロス』の──」

「『オロス』だ!」


後ろ向きの人影が激しくツッコミを入れる。

若干被せている為コントにしか見えない。


「──『オロス』の闇宵だ!」

「宵闇だろ!?自分の固有名詞くらい覚えろバカ!」

「バカとはなんだ安村。俺のどこを指して馬鹿だと言うんだ?」

「俺の名前は中西だが?俺の普通なアベレージさを汚すな。ん?でも安村も意外とアベレージかもな」

「おい、仁〜?こいつこんな名前だったけ?」

「そいつは仁村だボケナス!」

「…」


あまりにも唐突な展開と、あまりにも間の抜けた会話内容に、放心してしまう。


「もういい、はよいくぞ。撤収だ。…あいつが来ないとも限らん。はやく、ずらかるぞ」

「あいよ。そんなに奴はやばいのかね」

「あぁ。二度と撃ち合いたくないね」


そんな軽口を交わしつつ、撤退の二文字を遂行しようとする。


「な、ちょ、ま、待て!」

「逃がさへんぞ!」


慌てて戦闘態勢を整えるも、相手はそもそもやり合う気がないのかこちらを気にもかけないで外へ出ていく。


「なんだったんだ、一体…。てかやばい!追わないと!」

「せやな。とりあえず奴は放置──なっ!?」


牧野の見つめた先に仁村の姿はなかった。

あったのは外へと続く道に垂れた血痕だけだった。


「奴ら…このために余計なおしゃべりしとったんか」

「早く!追わないと!」


遊は焦りを伴って飛び出す。

しかし、その思いは報われず。

男たちの行方は分からない。

それに、目覚めを告げるかのように、世界が、意識が剥離する。

その前に堂々と言いきらなきゃ行けないことがある。


「千佳っ、千佳ぁ!絶対に、お前を連れ戻すからなぁ!待ってろよ!」


そうして夢は朝に溶ける。

そして意識が…覚醒する。

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