アイデンティティの喪失
第10話 心理的離乳
目まぐるしく変わる日々に翻弄されている今日この頃。
いつも通りの急勾配では済まないような坂を駆け上がり、心臓に悪い思いをしながらも学舎にいき、学友と切磋琢磨に興じる。
それが今までの世界の普通だったし、これからも容易には変わらないだろうと高を括っていた。
しかし事実としてその思いは裏切られた。
平穏は雨と共に何処かへ流されてゆき、代わりに疑問だけが残った。
それでも時は何者にも遮られず、無情に流れ、朝も夜も昼も昨日も今日も明日も彼の前に姿を表しては消えていく。
「――青年期における主体性、まあ馴染み深い言葉で言うとアイデンティティと言います。その形成があなた達のような
耳に入ってくるのは倫理という新たな科目の教師の言葉。
半分くらいカタカナ語なので人によっては半分も内容が理解できないだろう。
教えているのは取り立ててあげることもない平凡な中肉中背の黒髪の成人男性。
受験に必須な科目ではない為真剣に聞く生徒は極小数だ。
大半の生徒はボーッとしているか、受験意識の高い生徒は数学や物理などの主要受験科目の問題に取り組んでいる。
なんにせよ遊にとっては退屈で仕方のない時間だ。
だから真剣に、話を聞くフリをしてやり過ごす。
だがしかし、ぼんやりと空を眺めるBGMにしては耳心地の良さが足りない。
(暇だ…。他の奴らは何してるんだ)
頬杖を着いていた遊は机に項垂れながら辺りを窺う。
左後ろにいる授業態度悪いくせになぜか成績がいい代表格の千佳はその二つ名に恥じぬ事に机に突っ伏して可愛らしい寝息を立てている。
右斜め前にいる「その役職生活態度じゃなくて雰囲気とか能力で選ばれてるだろ」でお馴染みの叶依は何やら机の下で手を動かしている。
何かの機械を操作しているようにも見えるが…?
高速で指が動いていて少し気持ち悪い。
(まさかゲーム機じゃないよな…?いや、あり得そうだ…クラス委員の長がそれでいいのかよ…)
彼女のフットワークの軽さを舐めたらいけない。
人の迷惑にならないのなら彼女はやりたい事を通すのだから。
誰が悪いのかと問われれば授業を無視し続ける生徒たちであるし、生徒の満足のいく授業を行わない(行えない)教師陣にあるのかもしれない。
遊は考えることをやめた。
きっと明確な答えは出ないから。
彼個人が何か考えたところでどうにかなる訳でもない。
「
先生!皆さん話を聞いていません、なんていう生徒はいなかった。
そもそも遊以外に一体何人の生徒が教師の方を向いているのだろうか。
この教師は生徒に自分と向きあわせる重要性を説くよりも常識や最低減のマナーを教えたほうがいいのではないだろうか。
「それと皆さんに自己を探求する事において知っておいてほしいことがあります。『コンプレックス』というものがあるのですが、それは感情が蟠った状態のことを指します。そのため理性でのコントロールが失われてしまい、その人の行動や選択を誤らせてしまいます。その中でも青年期の人が抱きやすいのが劣等コンプレックスです。皆さんも経験がありませんか?他人と比べて自分が酷く劣った存在に思える事はありませんか?それが劣等コンプレックスです。古来より他人の芝は青く見えるものです。どんな天才でも…そう、誰でも、ね」
いやいやあり得ないだろ、と一蹴されるべきその文言はしかし大半の生徒の耳には入っていなかった。
一部の耳に入っていた生徒も重くは受け止めていない。
事実として
(あいつらが他人に自分の欠けている部分を見出すって…想像できねぇ)
彼らはそんな乖離した存在なのだから。
化け物みたいな劣等感とはほとほと縁がないだろう。
よしんばもし彼らにコンプレックスがあったとして。
彼らが向き合わないなんてことはまずありえない。
そう遊は確信する。
「コンプレックスを長期間抱える事や多くのコンプレックスを抱えると心の防衛機能が働きます。私たちの意思に関わらず、私たちの知らないところで。それは、大まかに分けて9つ。抑圧・合理化・同一視・投射・反動形成・逃避・退行・代償・昇華の九つです。同一視は他者と持つ能力や特性同じように思い込む、いわば嫉妬に近い感情。投射は自分の気付かない欲求や感情を他者に見る、憧れに近い感情。反動形成は欲求に対して真逆のことをする天邪鬼。退行は以前の発達段階へ変化する怠惰。昇華は社会的価値のある行動に没頭する承認欲求。後の項目は読んで字の如くです」
元樹が教師の話を真面目に聞いている。
あんな校則違反の塊みたいな男だがその実彼が一番勤勉だったのだ。
そのギャップはズルイという人が多く、『不良が良いことをすると過剰に褒められる』理論により、不良でもなんでもないのに好感度が爆上がりするという謎の現象が続いている。
そんな人間が自分のそんな完璧に近い人生を省みてなにを後悔するのだろうか。
何を神や超常の存在に願掛けするのだろうか。
きっとその願いは高次なものだろう。
欲望は生活の水準が上がれば上がるほど叶えづらいものに変貌していくのだから。
一般人の願掛けなんかとは一線を画す程に。
「――ですから人間のアイデンティティの確立には重要な要素があります。…何か、分かりますか?例えば暴力的なゲームを好んでやる人が居ますよね。反対に平和なほのぼのとしたゲームをしている人もいますよね。もっと大きく言えば私たちみたいな平和な世の中で夢を目指す若人もいれば、私たちより幼いうちから暴力的な人間や犯罪者、後進国の少年兵なんかもそうですね。そいうい人たちもいます。全く、個性が溢れてますね。みんな生まれてくる方法は一緒です。母胎から胎児の状態で生まれてくる。どんな極悪非道な人物だって母乳を飲んで育ってきたわけです。なのに何故彼らは私たちと違うのでしょうか。ここにいる私たちはそれぞれ個性豊かな
授業終了間際になってやっと話が佳境に差し掛かったのか嬉々として話す教師。
正直クラスの大半が早く終われと願っていた。
「我々の国では元々人殺しを禁忌とし、目上を敬うべしという教訓が根付いていたからこそ、このような習慣が風習があるのです。ですがあの紛争地帯の人々は違います。積極的に『生きたくば他者から奪え。戸惑えば死あるのみ』という教えがあるのです。あの地域には人殺しは悪と諭す教育者もいなければ、風習も経典もない。…そんな状態に我々の御先祖は銃などに代表される科学という武器を与えてしまった。そんな環境だからこそ紛争も人殺しも平気でやるのです。道徳を教えなければ罪悪感は芽生えない。…話が少し逸れた気もしますが、人間の根本を形作るのは人間とその周りの環境なのです。これではひとえに犯人が悪いと決めつけられませんね」
最後に苦笑をした辺りでチャイムが鳴り、日直が挨拶をし、教師はそそくさと教室から退出する。
それを合図に各々食堂に行くなり、弁当を取り出すなり、机に突っ伏するなり行動を開始した。
誰も教師の言葉を重くは受け止めていないようだ。
(いきなり授業でこんな重い話をされてもなぁ…俺たちに何を考えさせたいのかいまいちわからんし)
遊も他のものと概ね同意見だった。
というかそもそも彼も孤独な集団の一人な訳で。
そこまで重要だとは思わなかった。
それを話の肴に昼飯でも食おうかと元樹の席へ近づく。
「元樹飯食いに食堂行こうぜ」
「うーん、あぁ」
ゆったりと立ち上がりながら唸る。
元樹の歯切れが悪い。
「どうした?なんかお前らしくないな」
その一言に何を思ったのかゆっくりと遊の方に振り返って不思議そうに零す。
「『らしさ』ってなんだろうな。夜喍元樹ってのは一体どんな人物で、どんな風に見えてるんだろうな」
「なんだって…少なくともお前らはそんなもの気にしないと思ってたが…なんだ?さっきの授業で心配になっちまったのか?」
「まぁ、そこまででも無くなったが…たまに考えちまうことはある。そんな綺麗さっぱり忘れられることならトラウマにもコンプレックスにもならねぇからな。お前に言われてから気づいたが俺ってのはそこまで器用に生きた方を変えれねぇらしい」
あーあ、損な生き方だぜと溜息をつきながら財布を取り出して教室を出ていく。
遊は首を傾げた。
「俺、あいつになんか言ったか?」
その疑問は放課後まで続くことを彼は知らない。
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