第9話 贋作
昇降口を出ると、目の前には懐かしの校庭が姿を表していた。
校舎に入る前と後で変わっているが果たして先程と同じ世界なのか違う世界なのか。
どうやら校舎だけでなく、この学校の敷地全体があるようだ。
すると下の水没した世界も忠実に街並みが再現されているのだろう。
桜の木も、校門も記憶の形そのままだ。
何年もの月日を経てもなおその姿は何も変わっていない。
人っ子一人居ないのだろうが。
寂れた校舎に無言の別れを告げる。
「体育館裏に行くか」
きっと間取りまで同じく再現されているのだろう。
ご丁寧にどうも、と心の中で呟き、ポケットに入れた紙を意味もなくまた取り出し、凝視し、右手に便箋をヒラヒラと揺らしながら、噛み締めるように一歩ずつ懐かしの校庭に轍を刻んでいく。
鉛筆で書いたであろう可愛らしい字を数秒眺めて嘆息する。
思い出は思い出そうとすると、思い出せそうで思い出せないような、キーワードが脳みその先端で突っかかっているようなもどかしさを感じる。
あまりにも、もどかしい。
だが、あまりうじうじ悩む前に片付けなければならないことがある。
体育館が見えてくると、自然と遊の足は早まった。
ザッザッ、ザッ!ザッ!
砂を蹴飛ばすと乾いた音がする。
靴の裏で地面を削るかのように蹴飛ばし、裏手へ回る。
あと距離が100メートルも無くなると、壁にもたれかかって暇そうにしている人影が朧げに見えてくる。
その立ち姿に眩暈を覚える。
それに体に強烈な違和感を感じる。
夢の中で体の感覚は真っ直ぐ歩いているのに視界だけぐるぐる回るような変な感覚だ。
それはもはや痛い、という感情を通り越した感覚だった。
セピア色の記憶が脳をダイレクトに刺激している痛みだ。
脳が警笛を鳴らし、目の奥がチカチカする。
心臓はこれでもかと言うほど早鐘を打つ。
その構図は見覚えがある気がする。
これは忘れてはいけない痛みだ。
そう確信した。
直感が騒ぎ立てている。
彼我の距離が10メートルになるくらいに、少女は顔を上げて、挨拶をしてくる。
「見つかっちゃいましたね…。お兄さん、大事な記憶は見つけられましたか?大切な人は思い出せましたか?」
上目遣いで首を傾げるその仕草すら彼にとっては甘い甘い毒だった。
胸の奥が痛む。
「あぁ、何もかも全部って訳じゃないが大切なものを思い出せたよ」
「ふふ、そうですか」
一瞬、本当に一瞬だけだが彼女の瞳は悲しそうに伏せられた。
だがその後の瞳は無機質なビー玉のようだった。
何もかもを見ていない瞳。
過去を通り抜けた視線。
感情すらも渇き切っているその眼。
どんなことを感じたらこんなに目が死ぬのだろう。
どんなことを考えたらこんな悲しい瞳になるのだろう。
それに気付きながらも突っ込まずに遊は話を続ける。
ただし、両の
もう二度と掴み逃す事がないようにしっかりと。
「で、話してくれるんだろ?これが一体何なのか」
「はい。お兄さんも分かっての通りこのかくれんぼの目的はお兄さんの記憶の奥底に隠れてしまった大事な記憶を見つけてもらうためです。思い出は、ちゃんと思い出せないと意味がありません。宝物はちゃんと抱えておかないと無くなってしまいます。お守りは肌身離さず身につけないと意味がありません。それをお兄さんに思い出して欲しいんです。…それにしても宝物を無くすなんてドジなんですね。もう二度と無くさないでくださいね?もう一度なんて奇跡はありませんよ?…私も何度も何度も忘れてしまう人なんて嫌いですし」
話すうちに段々とニヒルな笑顔になっていく少女を見て嘘だ、と遊は思った。
彼女が遊のことを覚えていないはずがない。
ドジだのなんだのは彼女達は知っていたはずだ。
好きな娘の前でカッコつけたくて取り繕っていた事ぐらい。
それに彼女の言葉はなんというか棘を感じる。
素っ気ないことは無いのだが、心配している口調は薄っぺらく、決して口では言わないが遊のことを責め立てる何かがある。
その感情がなんなのか分からないが、その言いたいのに言えないジレンマが彼女を傷付けていることはわかった。
「なんで俺が忘れてるってわかったんだ?」
ここからは決してあんな言葉は言わせまい。ニヒルな笑顔に薄っぺら上っ面の他人事の心配。
見えない言葉の棘。
自らの首を絞める麻縄。
自分も他人も傷つけて孤独にするようなヤマアラシのジレンマなど。
――彼女なりの事情があるのかもしれない。
だがそんなこと知ったもんかと。
「それはお兄さんの顔が何か忘れていたような―――」
即座にその言葉を切り捨てる。
決して逃がさない。
追及をして、真実を暴き白日の元に引きずり出す。
「――誤魔化すなよ」
「はい?なんのことですか」
彼女は初めてキョトンとした表情をする。
ニヒルな笑顔よりもずっとこっちの方が魅力的な表情だった。
――でも欲を言えばもっと――
「シラを切るつもりか?それこそなんの為にシラを切るんだ?似合わない敬語使ってないで教えてくれよ――結衣」
願わくば、この子をさっきよりももっとずっといい
いてくれますように、と願う。
「――なっんで、それ、を。まさか、また同じことを…繰り返して──」
目を溢れんばかりに見開く少女。
先程までの達観し、全てを見通したような超然とした態度とは一変、動揺が激しい。
その様はまるで、ナニカに怯えるようで。
そして、揺れる瞳は何かを期待しているようで。
期待と不安が綯い交ぜに濁った表情をしている。
視線は遊の瞳を掴んで離さない。
「なぁ、なんでこんな回りくどい事してんだ?て言うかお前どこに行ってたんだ?」
「――…どうして、そんな期待させるようなこと…ダメなのに、…消え…このままじゃ…悲しむ…もう……ない」
顔を両手で挟み、厭厭と首を振る。
遊には所々で聞こえない程度の声量でチグハグなことを言い、それに対して肯定と否定を返す。
自問を自答し始める。
そんな少女の両手を己の両手で包み、目線を合わせて語りかける。
「なぁ本当のことを話してくれ。何か事情があるなら力になる」
「たとえ贋作で、偽物で、嘘だとしても、縋らなきゃいけない私をどうか赦して…」
「赦す、赦すからよ…
噛み合っているようで噛み合っていない会話。
お互いがキスでもしそうな距離で視線も逸らさず見つめあう。
そこにあるべき恥じらいなどはなく、ただただ言いも知れぬ緊張感がある。
両者どちらもいつ話しかけるべきか、いつ切り出すか迷っているのだろう息を吸って吐いて、吸って吐いて、吸って止める。
ヤマアラシはお互いの距離を正確に測り出す。
相手を傷付けないように。
だから冬場は身を寄せ合うことで暖を取ることが出来ない。
繰り返していくうちに会話の空白も沈黙も曖昧になって行き、まるで酔っているような彼女の独白が始まる。
「――それじゃ、簡潔に言うわね、私はお兄さん――いいえ、遊の記憶を取り戻すためにここに居るの。遊は最近覚えている限り人生がまるで色褪せた絵画みたいに退屈のように感じなかった?それはね遊という人間を構成していた大事な要素が抜けてしまったからなの。記憶喪失という形でね。だから私の目的はその可哀想な
「記憶…?それは、さっきも言っていたが例えば結衣や凛華の事か?」
「ええ。それが遊の中で大切な宝物だったのなら」
「…もしそれを全部取り戻したら、どうなるんだ?」
「遊が幸せになるわ」
「それだけか?」
「ええ」
そうなって彼女には一体なんの得があるのだろう。
きっと彼女はこういうはずだ。
『私が幸せなら私は嬉しいの。でもね私が幸せで友達とか家族とか大切な人が幸せならもっと幸せ。それだけで私も満たされた気がするの』
そう言うだろう。
それを聞いて人によって意見は異なるが、綺麗事だと吐き捨てる人もいるかもしれない。
きっと彼女の周りにはたくさんのいい人が集まったのだろう。
彼女の悪口を言う人は彼女のその言葉を聞いて矢も盾もたまらず糾弾した筈だ。
曰く、実際はそんな風には思っていないだろと。
でも根本的に違う。
全く理解していない。
綺麗事とかそういう次元に彼女はいない。
彼女は自己犠牲に走っているわけでもいい人に見られたい承認欲求があるわけでもなくそうなのだ。
そんなつまらないことに囚われずに彼女らしさというのを真っ直ぐに生き抜いていく人だ。
周りからどう言われようが何されようが曲げない。
そこが昔から羨ましかった。
あいつらみたいだから。
遊はそういう彼女の性質を嫉妬している。
そんなことを今更ながら思い出した。
「どうやったら記憶は取り戻せる?」
「私は思い出すときっかけがあればそこに連れて行ける。でも私ができるのはそこまでなの。見つけるのはいつだって遊、あなた自身よ」
「今回は、記憶を忘れたってことを思い出したって事か?」
「うん。傘の話も、ピアノの話も今回じゃないわ。でも大丈夫よ。あなたが生を渇望し続ける限り、思い出は確かに生き続ける。あなたと私たちの中で密かに」
「そうか…ありがとう」
「いいわ、友達だもの」
文字通り空が剥離していく。美しいノスタルジックな夕焼けはまるで千切られた紙のようにビリビリに破かれ、白い世界に変わっていく。
千切れた景色は、水面を通りすぎ、沈んで見えなくなっていく。
剥がれ落ちた部分は白く、本当に何も無い。
空間すらそこにはない。
白い何かがあるように見えるだけだ。
遊はそれを後目に校門へと歩き出す。
後ろ髪を思いっきり踏んずけられるような気もするが努めて無視した。
しかし途中で振り返り、一声かける。
「やっぱり結衣は敬語よりそっちのフランクな話し方の方が可愛いぞ」
「そう?ありがとう」
「また今度はもう少し思い出してくるから」
「ええ、じゃあまた夢で逢いましょう」
遊はそう言って微笑む結衣を見て、やっぱり笑顔が一番似合うと思った。
その瞬間空が全て剥がれ落ちて、音もなく夢のような世界が終わった。
「ッ!はァはァ…夢…?」
意識がはっきりした頃には自分の部屋にいた。
既に暗闇に目が慣れているのか、明かりはついていないが自分の部屋だということが分かる。
見慣れた天井に少し安心する。
部屋の窓の方からは物凄い轟音が聞こえて来る。
どうやら台風並みの大雨警報は本当だったようだが、先程のあれは果たして夢か
最近夢と現実の境界線が曖昧になってきている気がする。
時を経るごとに夢の残滓は朧げになっていく。
何処からが現実で何処からが夢なのかもうよく分からないのだ。
というか、カフェから出てからの鮮明な記憶が無い。
何かを成し遂げた気はするのだが、上手く思い出せない。
なにか大事なことをしていた、と思うといつも見ているのは自室の天井だ。
でも、夢ならまたみたいな、と思った。
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