第8話 さてこの恋心、どうしてくれようか

塵一つない階段の磨き抜かれた一段一段を両足で踏みしめる度に、古い記憶の蓋が外れていくように、記憶の奔流がとめどなく溢れてくる。


『ねぇ、遊?私ね、昨日クッキーを作ってみたの!今日持ってきたから給食を食べる時、先生に隠れて二人で食べない?』


当時小学校だった遊には少し罪悪感や後ろめたさを感じさせることをするように誘いかける少女。

ハキハキと喋る姿が少しイケナイコトをするようなおちゃめな性格と合わさって魅力的だ。

少女ということはわかるのだが、顔は逆光が差して見えない。

が、声はまるで鈴の音のように可愛らしい。

不思議ともっと話していたいと言う欲求に駆られる少女だった。

――また、声が聞こえる。


『もう!遊君はいつもいつも!宿題はちゃんとやってこなきゃダメだよ!――ちゃんも遊くんがおバカさんになっちゃうんだから遊びは程々にして!』


また別の女の子の声。

こちらは先程の少女より少し低いだろうか?それでも少女らしいソプラノで綺麗な声なのは変わりない。

その可愛らしいはずの顔は相変わらず見えない。

先程の少女たちとは仲が良かったのだろうか。

思い出せない。

記憶はあるのに思い出がない。

正確に言うなら実感がない。

遊はまたひとつ階段を上る。


『あぁ!家に傘置き忘れちゃった!折り畳み傘もないしどうしよ!』

『その――ちゃんの抜けてるとこ直した方がいいと思うな』

『ちょ!ひっどーい!遊聞いた?――ったらまるで人を普段から抜けてる人みたいに…』

『でも事実でしょ?』

『ぬぐぐ!』

『と、言うことで遊くん…三人で遊くんの傘に入ってもいい?』

『…呆れたわ、――も忘れてるんじゃない』


こんなドキドキするような展開も


『遊くん、その~今度の日曜日は暇?実は――ちゃんのサプライズパーティをしたくて…。そのパーティの為に色々と準備したくて……え?空いてる?良かったぁ』

『なになに?何の話なの?』

『んー秘密の話。ね、遊くん』

『むか…』


こんな微笑ましい喧嘩も


『――ちゃん!これ、プレゼント!遊くんと私からね!』

『…ッ!ありがとう…こんなに嬉しいプレゼントは初めてだわ!このくまさん前から欲しかったの!ありがとう遊!――!』


こんな仲がいい一面も。全てを忘れていた。

大切な二人の友人と共に。

何故忘れてしまっていたんだろう。

誰か名前を教えてくれ…、と懇願した。

確かにこれは大切な宝物だった。

しかし淡い恋の味とはなんなのだろうか。

まだ、遊の忘れた思い出があるのだろうか。

忘れたことに意味はあるのだろうか。

それとも、全ては嘘なのだろうか。

昔にあったのだとうそぶく虚構の記憶なのだろうか。








懐かしい教室の窓を開けると視界に飛び込んできたのは意外にも整然と並べられた机だった。

縦五列、横六列の計三十席。

教室に敷き詰められた机のせいで、教室自体が少し狭い気がするのはご愛嬌だ。

机と椅子が並んでいるのに誰もその席に腰掛けて居ないというのは少し淋しい気がした。

いつの間にか外の景色は快晴の午前中から儚さが滲み出す夕暮れ時へと変わっており、西日が窓から差して、柔らかく教室を包み込んでいる。

黒板には女子たちが腕を振るって書いたであろう可愛らしい装飾がされた文字で『今までありがとう!これからもおたがいがんばろう』と丸文字で書かれていたり、黒板の端っこに男子生徒が悪戯で書いたであろう三秒クオリティの怪物に『智子先生❤』と名付けられていた。

その黒板を見て懐かしいな、と破顔する。

クスッと笑いを誘うその光景に涙までをも貰いそうになる。

これぞ貰い笑い泣きと言うのだろう。

人生という路線列車の旅でもう『小学生』という途中駅を過ぎてしまったことに関してはふとまたこの地に足つけて見ると、嬉しいような、そしてもう二度と戻れないのだと郷愁を振り切った悲しさが溢れてくる。

遊はノスタルジックに浸り、せめて記憶にだけは残そうと角の机から触れ始める。


「吉田、嬬恋、綾瀬川、寿嶺二、佐々木…」


記憶の底から思い出を救い取るように丁寧に丁寧に名前を読み上げる。

名前と容姿、クラスでの思い出から個人的な感想まで。

花を手折るようにそっと。

一人一人を愛でるように丁寧に思い出していく。


「…秋庭、園部、碁田、磯島、颯乃」


そして、全ての座席に触れ終わった彼はひとつの事実に辿り着いた。


「やっぱり名前すらわかんねぇけど。あれだけ話してて名前すら思い出せないのはさすがに異常だよな」


そう言って真ん中より少し後ろの方の横並びの席をひとつ間を机を開けて触れる。


「俺の席の両隣だしな。やっぱりおかしいな席の位置的に一番会話が弾むはずなのに」


返って来ないはずの答えの代わりに静寂が返答する。

遊が何か変わった事がないかとあっちをウロウロ、こっちをウロウロ。

あたふたあたふたと忙しない。

どったんバッタンしていると、自分の机の中に何か冊子のような何かが入っていることに気づいた。

屈んだ遊、ファインプレー。

スっと抜き出してみると、クラスの集合写真のようだった。

確かこれは、3年生と4年生とではクラス替えがあるから記念に撮っておこうという品だったはずだ。

左は女子、右は男子でそれぞれ肩を組み合って楽しそうにピースなんかしたりしている。

何故あるのだろうという疑問は頭からすっと出ていって


「これを使えば顔が思い出せるッ!」


先程の記憶を頼りに一人一人を吟味するかのように力強く見て、確認する。


「吉田、河東、津間…居た!この子と、…ッ!これって!」


静寂に包まれていた教室には遊の叫びが木霊した。






雨の日。

それは退屈な日常晴天に降り注ぐひとつの刺激異常性

それは自身を取り巻く環境の変化だ。

人の心が天気によって変わるように。

アスファルトに横たわる遊はそう思った。

ぴとぴとと頬に雫が垂れる。

いや、体全体が小粒の雨に打たれているのか。

雨という異常性は時にとんでもないものを運んでくるという。

それは恵みを齎す雨としての運命なのか。

退屈な日常に刺激を齎す雨としての役割のひとつなのか。

というか、異常性を垣間見る時はだいたい天候が荒い。

やはり、雨というものも異物であるのだろう。

事態が急転直下を迎えすぎて、理解が追いつかない。

いつだって人生は余裕というものがない。

常に環境が変化し続ける。

起き上がった遊が見ているのはかつての校舎。

遊がとっくの昔に卒業した学び舎である。

それが、あの時のままそこにあった。

もう放課を迎えたのか疎らに生徒たちが下校を始めている。

見覚えのある生徒たちが懐かしい声で懐かしい名を呼んでいる。


「おーい、嬬恋!3時半に三角公園に集合な!」

「寿嶺二、置いてくぞ!」

「おい待てよ!」

「綾ちゃん、今日は…」

「だから名字じゃなくて名前でいいって真桜。智子でいいよ」


下校している少年少女はこちらには目もくれず談笑しながら帰路につく。

いやもしやこれは――。

在りし日の過去なのだろうか。


。もう驚きを通り越して笑えてくるなこれ)


しかし、過去への旅行だと裏付けるような出来事が、次々に起きてゆく。

それに誰も彼に反応しない。


(――俺の姿が見えてない?)


試しに校門へ近づいてみるが話しかけられることも、ましてや一瞥される事すらない。

どうやら見えてないようだ。

手を激しく振っても目元すら動かない。

次に地面に落ちていた棒切れをひとつ取って見ようとする。

が手は棒をすり抜け、校庭の砂利の一粒すら掴めずにすり抜けた。


「んなっ!?」


バランスを崩し、危うく転倒しかけて、思わず悲鳴を漏らす。


「うおっ!」


これでも周りは無反応。

どうやら本当に何も干渉出来ないらしい。

出来たら出来たでバタフライ効果が怖いが。

さて、どうしたものか。

何者が、何の目的で、何故、何をして、何をさせようとしているのか全く持って不明だがこのままでは二進も三進も行かない。

故に


「なんか出来るか探索する!、しかないか」


校庭を隈無く探す。

粗探しも粗探し。

その難しさたるや広大な砂丘から金の粒を一粒見つけるようなものだ。

何か気になることがあろうものなら思いつく限りのことは試す。

そして失敗、もといその方法では『何もならなかった』という結果をギネス記録に余裕で登録できるぐらい連続で叩き出しながら待つこと体感十五分と少しぐらい。

過去の遊と一人の少女がやってきた。

何やら楽しそうに――遊は若干不機嫌そうに――和気藹々と話している。


「ねぇ遊。アレは弾けるようになったの?」

「いや」

「いい?あの曲のコツはね…二枚目の裏の二小節目当たりをね…」

「…」

「それで、それが出来たら次は…」

「…」

「で、それが出来たら完璧。分かった?」

「…あっそ」

「あっそとは何よ!こっちが折角、特別!と・く・べ・つ・に!教えてあげてるのにぃ!」

「あーはいはい、すごい凄いちゃんは天才ですねー」


小さい頃の遊は煽るスキルが高いのかもしれない。

抑揚があまりない声が余計にムカつかせる。

小さい頃に腹を立てても意味は無いが。

苛立ちを抑え込むと途端に恥じらいが芽生える。

なんというかその姿は大人ぶろうと余裕を背伸びして出そうとしてる滑稽な姿に見え始めた。

クールな俺かっこいい的なオーラが出ている気がする。


(小さい頃の俺…そんなんじゃ彼女なんて一生出来ないぞ…まぁ気になる子に意地悪したくなるのは分からなくもないが…いや気になる子…?)


周りの生徒たちもザワザワ、ヒソヒソ、と様子を伺って何事か話している。

小さい頃の遊はそれに一瞥をくれると、スタスタと歩き出す。


「あ!遊、待って!」

「…なんだよ」

「どうしたの?なんか冷たくない?」

「別に。冷たくしてるつもりなんかない。口数が少ないのはいつものメンバーが居ないからだろ」

「あぁ!なーんだ私と二人っきりが恥ずかしいのぉ?」


このこの〜、と急接近して遊の頬をつんつんとする少女。

それを遊は煩わしそうに跳ね除ける。


「…うるさい」

「照れちゃっても〜」


どうやら小さい頃から彼は女子に軽くからかわれる体質らしい。

態度は今とはだいぶ違い、口調も素っ気なく似ても似つかないレベルになりつつあるがそういう所は昔からそうなのだろう。


(あの態度…絶対…いやでもまさかな?よりによって俺が…いやぁ充分に有り得そう。俺だもんな…)


「あ!遊くーん!」

「あれ?校門にいるの凛華じゃない?」


校門の右側によりかかる黒髪の美少女。

肩あたりまで伸ばされた髪が穏やかな風に靡く。

傍目から見ると儚げな未亡人的な色気すら出ていそうだ。

小学生だと言うのに。

それに遊は目を奪われる。


「おう、そ、そうだな」

「どうしたの?急にどもっちゃって」

「…お・前・が・近・い・ん・だ・よ」

「えへへー」

「取り敢えず、3人で帰るか。アイツらも居ないしな」


そう言って遠ざかっていく背中。

それを未来から来た遊は追わずにずっと考え事をする。

懐かしさで胸がいっぱいになる。

感動に咽び泣きそうだ。

心が感動で溢れかえりそうだった。

感情の盃をひっくり返したかのように遊の世界を水没させていく。

やがて、そこは感情の海になるだろう。

涙目になりながらも見えなくなるまで三人を見送る。

するとだんだんと、視界が白に染まり…。






「そうか、そうだったのか…。俺は、お前のことが好きだったのか。忘れてしまったのにな!…思い出した!淡い恋の味って…俺の初恋かよ…ちくしょう…あー泣けるぜ…クソ…忘れんなよな、俺」


忘却の彼方に置き去りにした過去思い出に泣き崩れた遊は何度も何度も瞼を擦った。

擦っても擦っても瞼の奥から涙は出てくるし、身体の底から哀しさが溢れてくる。

その感覚はまるで、瞳だけでなく身体全体が涙を流しているようだった。

落涙の滂沱は雨となり、川を押し流し、海に注ぐ。

それは永遠に続くかのように思われた。

それこそ、隕石が衝突し、恐竜が絶えた後の頃のように。

何度か瞼を腕が往復すると次第に擦る頻度が減り、遂に枯れた。

すると彼は自らを鼓舞するように宣言する。


「喪った、淡い恋の味ってやつを見つけに行く…!」


そう言い決意を胸に抱いて教室を抜け出す。

階段を降りる度に、また記憶の蓋がズレて行く。

――否、開いていくというのが正しいか。


『なぁ遊。お前ってさぶっちゃけこのクラスで好きな娘っているのか?』

『は?なんだよ急に』

『いんや〜モテモテの塚原遊君はどの子と結ばれるのかなーなんて』

『いねぇよ』

『はぁ?恥ずかしがらずに言えって』

『だからいねぇって!ませたこと言ってんじゃねぇよ』

『そんなに強く否定されると逆に怪しいですな~』

『なんか語尾安定しねぇな。お前』


同級生の男子とのませた会話。

好きな子の話題になると必ず返す常套句。

きっと恥ずかしかったのだろう。

多分もう取り返せない過去。

遊はそれを取り戻しに行くのだった。





まずは行動を起こす。

成すべきことがわかったのならば行動に移すべきと遊の直感は告げていた。

階下に降りてきた遊はこの世界に来る前のことを反芻した。


『かくれんぼしたら続きをお話します』


『隠れているを見つけてください』


『あなたには無理ですよ。この子達を忘れているようでは、ね』


分かっていたのだろうか。

この事態に発展することを。

そしてそれに遊が気づく事すらも。

いつもの延長線上で、掌で踊らされているのだろうか。

記憶の扉がこじ開けられていく程に目から雫が落ち、心はその雫で潤いを取り戻していく。

退屈に渇ききった心に感動の涙が染み渡っていく。

――何故だろう、今になって無性に愛を叫びたくなるのは。

――何故だろう無性に抱きしめたくなるのは。

何年も会ってなかったからとか、そんなチンケな物じゃなくて。

心が、身体が、遊という存在が彼女を求めている。

求めて求めてやまない。

会いたくて恋焦がれた、なんて拙い言葉じゃ言い表せないくらいの感慨が深くそして迅速に、それも旭日昇天という陳腐な言葉じゃ表せないくらいの勢いで喉元から溢れかえってくる。

体中を遍くく駆け巡るこの衝動はどう取り繕うとも、畢竟ひっきょう『恋』という物なのだろう。

さてこの『恋煩い』という病はなるほど、万人を苦しめてきたらしい。

遊の病も遂に病膏肓に入ると言う奴だろうか。

先達たちと同じ轍を踏むとはなんとなく癪だが、それでもいいと思うほど酸いも甘いも心地良い。

今がとても素晴らしく感じる。

コツ、コツ、コツ。

記憶を頼りに、また下駄箱を訪れる。

そして、名前の剥がされた下駄箱の前に立って――

そっと開ける。

すると、

入っていたのは、

真っ白い便箋の中央にたった一言


『体育館裏に来てください』


と書かれた紙だった。

それをポケットに押し込んで、外へ踏み出していく。

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