第46話 俺が望んで、君が叶えて
薄靄の向こうに人影がチラつく。
朧げな存在は瞬く間にも消えてしまいそうだ。
それは最初、不完全な象だったが、近づくにつれ、段々と線を結んでいき、ついには小柄な人影になった。
どうやら顔を俯かせてその小さな両手を当てて、泣いているようだった。
反響しているのか、間延びしたような泣き声が木霊する。
泣かないで、とそう言いたい。
そっと手を取ってあげたい。
少女に見えるその人影はそういう衝動に駆られる程、悲しんでいる。
(泣き止んで貰わなきゃな)
遊はいつもそう思う。
記憶が教えてくれた。
記憶の中にある感謝の言葉を述べてくれた人々が教えてくれたのだ。
辛い時、悲しい時、いつも支えてくれるのは同族だと思い知ったから。
同じ立場にたっているもの。
同情や憐憫をくれる人。
共感や境遇の重なった人。
同じ体験をした人。
そんな人々がひとりじゃないよって寄り添って。
それで勇気を一欠片ずつくれるのだ。
それが積み重なって、まるでパズルのピースの様に解決策や立ち上がる力になる。
だから必要なのは同じ立場に立つことであって、立派な思想も、大きな力がなくてもいいのだ。
身勝手なエゴで人を絶望の底から掬いあげていいのだ。
救いたいという気持ちを抱くことにに誰の許可も要らない。
助けたいと願う気持ちに対価なんて必要ない。
そう思うと、自然と足は大地を掴んで。
残響の鳴り止まぬ中進んでいく。
『あの、遊君…さっきは…ありがとう。実はあの配役嫌だったんだど、どうしても、私、引っ込み思案で言えなくて…だからありがとう。代わりに配役を変えようって言ってくれて』
声が聞こえる。
『あ、遊。き、昨日は犬から助けてくれてありがと…ついでにリコーダーも』
足を地に付ける度に。
『ありがとな遊。俺の変わりにあいつのことに憤ってくれて。俺じゃそんな資格はないけど…お前が怒ってくれただけで、俺も、あいつも報われたよ』
足を地面から離す度に。
『怒ってくれたんですか?…私の為に?…ありがとう。本当に、本当に、ありがとう。それだけで私は…もう…救われてます。そんな存在がいるだけで私はもう満足…』
誰かの背を追って歩く度に。
『遊、か。止めてくれて、感謝の言葉もない。…危うく目的を見失うところだった。彼女の為と自分を傷つけていれば本末転倒だな。やり方は、未だに納得はいかないが。…それに、黙っていてくれたんだろう?俺がしていたことを』
包み込まれるような暖かい一押しが。
『遊ちゃん、そうやって目立たない様にしてるけどさ、もっと目立っていいんだぜ?胸張っていいんだぜ?もっとさ、誇らしくしなよ。俺が助けたんだって。感謝されるのは決して悪いことじゃない。ほら、胸張って――ありがとう。みんなの分もありがとう』
聞いただけで元気になる魔法のような声援が聞こえる。
『寄り添うような、その励ますでもなく、押し付けるでもなく。その肯定が暖かいな。ありがとう』
色々な声音は総じて言う。
『あんたいつもさ、元樹とか叶依とか千佳とか――英雄が救えないようなちっぽけな存在に気を配っているよね。いつもトラブル最初に気づくのはあんただし。このクラスがここまで仲良くできたのもあんたのお陰かもね。――真桜のことも、ありがと』
戻ってこい、と。
『これから言うのはさ、独り言なんだけど。ある所にさ、クラスメイトに返しきれないほどの恩を売られてしまった悲劇の少年がいる訳よ。その少年はこういったわけ「この恩は一生掛っても返しきれないし、返しきれるとも思わない。でも孤立から救ってくれてありがとう」ってね。まぁ別に僕には関係ないけどさ。恩をどうやって返せばいいのか孤独であった僕には分からない』
その言葉に応えたいと。
『――ありがとう。こんな私を好きでいてくれて、ありがとう。私を私のまま愛してくれてありがとう。…遊くん』
心が望んで聞かないんだ。
――『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』『ありがとう』――
ありがとうという一言はいつか旋風を巻き起こして。
今や走ろうとする人を励ますエールになっている。
一度は辛い現実にぶちのめされて。
それで友人たちに救いあげられて。
走り出そうとしているその若者に。
何気ない日常の一コマから。
緊迫した場面の中から。
事件の後日談から。
語りかけてくる。
だからそんな思い出話を交えながら――
「―――明るい未来の話をしようぜ、結衣」
女の子が目の前で泣いている。
多くを救いあげてきた腕が唸る時が来た。
「誰も彼もが救われる。そんなありがとうの先の、未来予想図の話をさ」
なんで泣いているの、てその人は言ってきた。
なんて返せばいいんだろう。
その人が今までしてきたことに報われずに、気づかずに独りで傷ついていた事実がただただ、悲しかった。
彼も私も全てを失った、喪った。
そんな気がしたのだ。
取り返しのつかない事にいつまでも悩んでいるような焦燥と未だに燻る後悔が私を苛む。
自分の満足のいく結果になるように一石を投じたはずなのに、胸が張り裂けそうになって、そして自然と涙が溢れてきた。
拭えば拭うほどにその涙は量と重さを増して。
今では涙で世界を満たせそうなほど流したかもしれない。
最善の選択肢。
でもそれは第三者から見たものであって、本人からすれば選びたくない程過酷なものであったように思う。
それでも、私はそれを選んだ。
そうなるようにと行動した。
結果は多分、成功した。
でもそのせいで、彼は深く深く傷ついた。
そこからでも彼は立ち直れると自分に言い訳をして誤魔化していた。
でも、あんな顔されたら。
あんなことを言われたら。
それが最善だったなんてとても信じられない。
私なんかと一緒にいたら彼が彼らしく無くなる、なんて達観していたように思えたが、その実私はただ一緒に居たかっただけなのだ。
それでも自分の気持ちに正直になれなくて…結果、誰もが傷つく結果になってしまった。
出来損ないのままでいて欲しい自分と、理想の人になって欲しい自分がせめぎ合う。
彼の心の支えになっていると知っていたのに何故共に居てあげられなかったのか。
何故共に解決策を考えなかったのか。
下衆の後知恵だけれど、そう後悔している。
彼のため、と言い訳をして目を逸らして結果的に彼を傷つけた。
守りたかったはずのその人を。
それに今更になって気づく私自身にも、それにそれを認めたくないと言い訳をする心の悪魔にも吐き気を催す。
心中に渦巻くのはただただ後悔と謝罪だ。
――理想を押し付けてしまってごめんなさい。
――傷つけてしまってごめんなさい。
――役に立てなくてごめんなさい。
――ごめんなさい。
――ごめんなさい――ごめんなさい――ごめんなさい。
「なんで、謝ってばかりいるんだ?」
だって、今は謝ることしか私には出来ないから。
「謝る必要なんてないだろ。むしろ、謝るのはこっちの方で」
違う。
あなたが傷ついたのは私のせいで、あなたに責められはすれど、私があなたを責める理由はない。
「じゃあ、お前のお陰で俺は明日の話ができるんだ。過去に縋らずに、引き摺らずに、あいつらを追いかけられるんだ」
私のお陰なんて絶対にありえない。
もし仮に、なにか変化があったのならそれは自分自身で勝ち取った権利で、他人から与えられるものでは無い。
「友人との仲が拗れて落ち込んでるやつがいてさ。俺はそいつに向かって落ち込んでいる暇があったら歩み寄れよって言ったことがあるんだ」
…知ってる。
私は、それがあなたが彼らを思いやった結果と言うのを嫌という程知っている。
「勿論、そうだ。嫌がらせなんかをしたいわけじゃなかった。でも、それがそいつらにとって最善だって思って本人の気持ちを考えてなかったんだ。最初はすごい罵声を浴びせられたこともあった。『お前なんかに俺の気持ちがわかってたまるか!』って」
でも、あなたは…。
「あぁ、俺も頑固だったから意地でも二人の仲を取りなそうとした。余計なお節介だなんて言われながら。…でも、いざ仲直りを成功させたらさ今までの憎まれ口が嘘のように感謝されたんだ」
それは、あなたが諦めずに…。
「駄目だったとかさ、お節介だとかさ、俺の気持ちなんて分からないなんて言う奴が居るけどさ。歩み寄りを忘れているのは言っている本人なんだよな。自分自身じゃなくて他の立場の人から見ればそれが正解に最も限りなく近いんだ。終わってみて初めて気がつくから質が悪い」
……。
「それと、同じなんだよなきっと。俺がそのトラブルの渦中の人間で今まで分からなかっただけで。結衣のやり方が正しかったって諭されたんだ。気がつけたんだよ」
違う。
私は途中で目的とやることが逆転して、結果最悪の自体を引き起こしてしまった。
「そのお陰で大きく一歩前進できたんだ。だからさ過去を嘆くことよりも―――明るい未来の話をしようぜ、結衣」
――あぁ、変わらないな。
やっぱり、あなたは人を救いあげる存在。
心にぽっかり空いた隙間を癒す薬液。
理想の自分。
「誰も彼もが救われる。そんなありがとうの先の、未来予想図の話をさ」
その言葉を聞く頃には、すっかり雨は上がっていた。
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