第32話 世界にとってほんの少しのちょっと些細な些事

厭に温い風に肌を撫でられて遊は目を覚ます。

どうやらまた彼が知らないうちに寝てしまっていたらしい。

今度は自宅のベットでも教室の机の上でもなく公園のベンチに横たわっていた。

膝掛けも毛布も掛けずに横になっていたようだ。

時期が時期だけに助かった。

これが真冬であったなら遊は風邪を確実に引いているだろう。


(俺、いつの間に寝てたんだ…てかここどこだよ)


地面にそのまま寝っ転がっていなくて良かったと少し安堵する。

土とか着いていないか確認するが綺麗なままだった。

目覚めはあの夢のせいであまり良くない。

まだ首を締められているような感覚がして気分があまり優れない。

熱があるのかと額に手をやるが、手よりも若干額が暖かいぐらいで、これは熱もへったくれも無いだろう。

本当に春の終わりから初夏にかけての時期でよかった。

ふっと降って湧いたような違和感を元に首をまさぐるが、確認できる範囲で首筋にも跡らしきものはない。

自分の体調の方は大丈夫のようだ。

つまり原因は精神的なものから来ているのだろう。

『病は気から』とはよく言うがこれもそういう類のものだろうか。

自分に大丈夫だと言い聞かせて立ち上がる。

妙な胸騒ぎが止まらない。

動悸が激しい。

気道が詰まっているように息苦しい。

息継ぎを無理やり水面に顔を出してしているみたいに息苦しい。

泳ぐ必要も義務もないのにどこかで沼に溺れて、喘ぐように息継ぎをしている様な。

そんな変な気分だ。

のそりのそりと足を運びはじめる。

まずは千佳と合流しなければならない。

そして御参りをして今日は家に帰る。

遊はいち早くこの倦怠感を何とかしたかった。

そして不穏な胸騒ぎを忘れて眠りたかった。

二人でまたあの無人かのような電車に揺られて、駅で駄べり、別れて、家に帰って母親と他愛のない会話をしながら愛の籠った料理に舌鼓を打ち、一日の疲れを風呂で汗と一緒に洗い流して布団の中でぬくぬくとした暖かさを感じて果報と明日が一緒に訪れるのを待つ。

そんな平穏いつもが欲しい。

平和日常が愛おしい。

狂おしい程にあの時が恋しい。


「千佳?おい、どこだー?」


声を出してみるが、音が木々の奥に吸い込まれて何も聞こえない。

近くには居ないのだろうか。

風で草木が揺れる音しかない。

堪らずポケットから探し出したケータイを取り出すが圏外の表示が出る。


「圏外とか初めてだよこんちくしょう…。俺、知らないうちにこんな変なとこに来たか?県外とか…ほんとにこの歳で迷子は笑えないんだが」


どうやら迷ったらしいので一度下の都市部に出てみる事にした。

もし仮に親切な人が居たとして実際の山の中の地図を出されても迷うだけだ。

それにきっと千佳も遊のことを探して下に降りているだろうと読んでの行動だ。

外れることはまず無いだろう。

もし仮に外れたとしても降りている最中に出くわす可能性は充分にある。

少しまだ行ったことのない街にワクワクする気持ちもあるのは否定できない。

でも一番良いのは降りて千佳を見つけられることに他ならない。

空の茜色が段々と強くなる中遊は黙って降っていく。

歪で大きな雲が空にひとつ浮かんでいる。

いよいよ夏の足音が聞こえてきそうだ。

隣に誰かいれば会話が弾んだり、居心地が変わったのだろうが生憎と一人でとぼとぼ降りている途中であり、独り言をする気力もなくなりつつある。


(千佳へのお詫びと小腹満たす目的にコンビニでも寄るか。コンビニのホットスナックはついつい買っちゃぅんだよな…とりの唐揚げとかチキンスティックとか揚げ物くんとか鶏チキとかコンビニのホットスナック界隈は鶏の揚げ物出しすぎだろ。ま、買っちまうんだけどさ。何にしようか迷うな。…それ買うついでにコロ助への供え物とかもあるといいんだけど犬にお供えするものってなんだ?犬用ジャーキーとか?骨…なんかは売ってなさそうだし…てか犬って本当に骨好きなのか?)


下に見えていた都市部の灯りが近づいてくる。

街灯がそろそろ一斉につく頃合だろう。

街がいっそう色めき立ち、輝きがより一層増す時間帯だ。

朝には無い活気が夜を酔わせる。

そして人々は夜に酔う。

もうすぐ夜が来るということもあるのか彼の住んでいる住宅街と違って目が痛くなりそうなほどチカチカと輝いている。


(見晴らしが最高だなここ。山自体が高いし視界も良好。あぁ…なんか一日の終わりって感じがする)


眩い暖かな太陽が地平線に沈んでいく。

昨日と同じように今日が消え去って明日が登ってくる。

その感覚に少ししんみりした心境になる。

二度と今日という同じ日はやってこないんだなと深い感慨が心から溢れてくる。

今は無性に人肌が恋しい。

この感じている想いをありのまま伝えて、共感を得たい。

この一分一秒を誰かと共有して、忘がたい思い出にしたい。

そのためにも一刻も早く千佳を見つけなくては。


(何より迷惑かけすぎてこのままじゃ千佳に対するお詫びがでかくなる一方だ。早いとこ見つけないと。…あれ?なんか買えとかなんか言われてたっけ。今日学校では牛タンカレーを奢れっては言われたけど。んでここに来て墓参りを一緒にするって約束して俺は絶賛迷子中。本当に迷惑しかかけてねぇ)


夢の中でも千佳になにか誓った気がする。

詳細は覚えていないが何か今後の指針を決めるような約束事をしたはずだ。

決して破っては行けない約束。

確か、『何かを諦めない』だったはずだ。

夢は所詮夢なれど、どうしてもそれは遊の人生において一番と言っていいほどに大切な約束事であるはずだ。


(ホントになんか忘れてるんだ…思い出したいのに、思い出せるのは変な事だけ。昨日の夕食とか勉強した授業の内容とかは思い出せるのに最初の方の夢の記憶はないし…あったようななかったような気がする。それに時系列がバラバラで昔の夢も昨日のようだし、昨日の夢やさっきの夢が遠い過去のようにも感じる。…魔法がどうだのとかそこら辺はさっき見ていたって事は覚えているんだけどな)


いくら考えても答えは出ない。

遊はそもそもなぜそんな解が出ないような答えを出そうとしているのだろうかと考えた。

いつもなら嫌でもすぐ他の出来事に関心が移るのに。

今回はずっとこれに思考を囚われ続けている。

何故だろう。

夢は夢なのだが本当にあった事かのようなリアリティがあったし、夢の景色も鮮明だ。

唯一会話の内容を思い出せないのが気がかりだが、それが逆に遊の興味を惹いている。

夕方だと言うのに立ち止まって考え耽るぐらいにはその事は彼にとって重要だということなのだろう。

ビルの先端に夕日が翳り、夕焼けが別れを告げる。

茜色もすっかり少なくなり、暗い蒼のような色のキラキラとした星が散りばめられた絨毯が空に敷かれていく。

その景色に気付かされてはっと遊は歩き出す。

夕焼け色が街を染めてネオンが光を放ち始めて、目まぐるしく変わる街の様子にまるで遊自身を取り巻く環境のようだと苦笑する。

緩やかと急な坂を足して三で割ったような下り坂を降り切って歩道橋で川を跨いで街の入りぐち付近に立つ。


(ここにも居ないとなるとマジでどこいったんだ?…まさかの本当に入れ違ったパターンか?…いや反対側に降りる理由もないし、そもそもそっち側に行くなら寝そべっている俺と嫌でもすれ違うはず。用事で帰ったとかならケータイに連絡入れてるだろうし…聞いてみないことには分からないな)


ケータイを取り出して、チャットアプリで千佳との個人トークルームを開いて文字を打ち込む。

やっとネット回線に繋がったようで、画面アンテナのマークも三本キチンと立っていた。

チャットアプリの連絡先はしっかりと交換して、以前からちょくちょくと会話しているあたり二人は普通に仲良いようだ。

距離感は恋人と言うより気の置けない友人といった感じではあるが。

そこもまたこの二人らしい。

未読スルーや既読スルーするような相手と出かけること自体稀であるから心配しなくとも良いが。


『千佳、今どこ居んの?』


と打ったはいいものの待てども待てども既読すらつかない。

ケータイを見ていないのか充電が切れたのか。

原因は分からないが、進展がないのも事実。

痺れを切らしてケータイをポケットにしまい、顔をあげる。



――そこに広がっていたのは



――明らかに現代科学では説明できない




――――まさに魔法とも呼ぶべき謎のテクノロジーで溢れかえっていた。




瞬間、彼の世界では音が消えた。

街の喧騒も、近くの人の息遣いも、自らの心音すら消える。

遊の瞳孔がこれでもかと開く。

遊の周りの人混みも気持ち遠ざかったような気がする。

遊一人異世界に置き去りにされたような、取り残されたような、迷い込んだような。

世界から、人類から、この国から、人混みから、この街から、彼の常識はを立てて崩れ去った。

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